チェビシェフの定理のラマヌジャンの鮮やかな証明

 前回も書いた通り、素数についての啓蒙書を書く準備をしているので、いろいろ資料を集めている。「リーマン予想」にかかわるゼータ関数関係は、黒川先生の著作がたくさんあり、それでカバーできるので準備は十分。でも、「双子素数」関連の解説も入れたいと思っている。双子素数とは、3と5、11と13のように差が2の素数のペアのこと。「双子素数は無限組ある」という予想が「双子素数予想」だ。

 双子素数予想に関しては、ここ数年で、非常に大きな進展があった。「差が246以下の素数のペアは無限組ある」という証明が得られたのだ。これはめちゃめちゃ大きな進展である。この証明には、「ふるい法」という方法論が使われるので、この最新の結果の解説自体は(ぼくの能力的に)不可能であるにしても、「ふるい法」そのものはなんとか解説したいと思っている。最も有名なものは「エラトステネスのふるい」で、これは多くの人がご存知だと思う。他に、ブルンのふるいや、セルバーグのふるいなどがある。

 「ふるい法」をなんとか理解したいと手に入れたのが、Cojocaru&Murty「An Introduction to Sieve Methods and Their Applications」という洋書である。

 

An Introduction to Sieve Methods and Their Applications (London Mathematical Society Student Texts)

An Introduction to Sieve Methods and Their Applications (London Mathematical Society Student Texts)

 

 「ふるい法」の和書は、非常に難しくわかりにくい本が多いのに対して、この本はとても読みやすいし、しかもかなり新しい結果も収められていて良い本だった。

 例えば、ほぼ冒頭に、「ベルトラン&チェビシェフの定理」のラマヌジャンによる証明が解説されている。しかも、相当わかりやすくて感動する。

 「ベルトラン&チェビシェフの定理」というのは、ベルトランが予想してチェビシェフが証明した定理で、「n≧1のとき、n以上2n以下に必ず素数が存在する」というものだ。チェビシェフはθ(x)という関数を使って、これを証明した。θ(x)とは、「x以下の素数の対数値の総和」である。

 それに対して、ラマヌジャンは、ψ(x)という関数を利用している。ψ(x)とは、「1以上x以下の素数べき(pのm乗)たちに対し、その素数の対数値(log p)を加えた総和」である。

ラマヌジャンは、非常に初等的な方法で、

ψ(x)-ψ(x/2)+ψ(x/3)≧(log 2)x+(log xに比例程度の関数)

ψ(x)-ψ(x/2)≦(log 2)x+(log xに比例程度の関数)

を証明する。そしてこれらから、ラマヌジャンは、

ψ(x)-ψ(x/2)≧(1/3)(log 2)x+(log xの2乗に比例程度の関数)

を証明した。ざっくり言えば、「ψ(x)とψ(x/2)との差が、xの1次関数ぐらいの水準で開いていく」、ということだ。したがって、「十分大きいxに対して、xとx/2の間には、必ず素数べきが存在する」ことがわかる。そこで、ちょっと考えると、これから「十分大きいxに対して、xとx/2の間には、素数が存在する」こともわかるのだ。

 理解できてみると、「さ~すが、天才ラマヌジャンだなあ」と思わずうなってしまう証明方法である。なみの数学感覚じゃ思いつかない。

 まあ、このブログにきちんと証明を書ききるのは難しいので、きちんと理解したい人は、ぼくの本が刊行されるのを待ってほしい。(前掲の洋書を読んでもいいけど、けっこう飛躍があって、それを自分で埋めるのは慣れてないと苦労すると思う)

 実はラマヌジャンは、この定理を改良して、次の定理を証明した。

ラマヌジャンの定理

x≧2, 11, 17, 29, 41,・・・のとき,π(x)-π(x/2)≧1, 2, 3, 4, 5, ・・・がそれぞれ成り立つ

ここでπ(x)はx以下の素数の個数を表す。 したがって、π(x)-π(x/2)≧1というのがベルトラン&チェビシェフの定理を表す不等式だが、ラマヌジャンは、「xとx/2の間に素数が少なくとも1個ある」だけではなく、「十分大きいxに対しては、いくらでも多く存在できる」を示したわけだ。実際先ほどのψ(x)の不等式から、こういうことが成り立つのはなんとなく想像できるだろう。ここで、定理の最初のところに登場する「2, 11, 17, 29, 41,・・・」というのが、「ラマヌジャン素数」と呼ばれるものである。きちんと言うと、「π(x)-π(x/2)≧kとなる最小のx」のことだ。ラマヌジャンの定理によって、「ラマヌジャン素数は無限に存在する」ことがわかる。

 ラマヌジャンラマヌジャン素数については、拙著『世界は素数でできている』角川新書のコラムを参照してほしい(このエントリーより情報量がわずかに多いだけだけなんだけど)。

 次回は、同じ洋書から、双子素数についてのことをエントリーする予定。

 

世界は素数でできている (角川新書)

世界は素数でできている (角川新書)

 

 

 

『リーマンの夢』とメルセンヌ素数予想と

今回は、黒川信重『リーマンの夢』現代数学社についてエントリーしよう。

この本は、一昨年(2017年)に刊行なので、少し時間がたってしまった。入手当時も一読しているが、今ぼくは素数についての啓蒙書を準備していることもあり、再読してみたのだ。すると、前とは少し違う感慨があったので、それを語りたくなった。

リーマンの夢 ゼータ関数の探求

リーマンの夢 ゼータ関数の探求

 

 本書のタイトル『リーマンの夢』は、まさに、数学者リーマンが当時に夢見たであろうことを著者の黒川さんが想像して書いた、という意味だと思う。もっというなら、「リーマンが黒川さんに憑依して書かせた」と言ったほうが正しいかもしれない。それほど幻想的でかつ斬新な本なのだ。

 リーマンは19世紀に活躍した数学者で、たくさんの業績があるが、代表的なものは、ゼータ関数の発見、素数公式の導出、リーマン予想の提出、リーマン面の構成、などなど。残念なことに39才の若さで亡くなってしまった。

 そのリーマンの数学について、ゼータ関数を中心に語ったのが本書だ。本書が斬新である点を箇条書きしてみよう。

(A)  リーマンのゼータ関数の研究と黒川さんの「絶対ゼータ関数」の研究とがクロスオバーしながら、行きつ戻りつする構成になっている。

(B) リーマンが草稿だけを残した研究についても黒川さんの感性から詳しく紹介している。

(C) リーマン予想を解決するための本質的なアイテムについての解説がある。

(D) メルセンヌ素数BSD予想についての珍しい解説が読める。

(E) セルバーグやラングランズとの黒川さんの交友のエピソードが読めて、黒川さんという数学者の位置づけがしみじみわかる。

(F) 数学が夢のある学問であることが実感できる。

以下、もう少し詳しく説明していこう。

ゼータ関数というのは、そもそもはオイラーの研究から始まったものであり、「自然数のs乗の逆数の総和」のことだ。これをζ(s)と記す。これは、例えばs=2での値ζ(2)が「円周率の2乗を6で割った数」になるなど、非常に面白い性質を持っているのだが、最も重要な発見は、素数ぜんぶを使って積表示できることだ。これを「オイラー積」という。

リーマンはこのζ(s)を複素数全体で定義し、その虚の零点(ζ(s)=0を満たす虚部が0でないsたち)を使ってx以下の素数の個数を表す公式を得た。それが「素数公式」である。だから、ゼータ関数の虚の零点がわかれば、x以下の素数の個数を完全に掌握することができるわけだ。

リーマンは「虚の零点たちすべての実部が1/2であろう」と予想した。これがリーマン予想だ。つまり、虚の零点は、複素平面上の直線上に分布している、という予想なのである。大胆な言い方をすれば、素数ゼータ関数の零点というフィルターを通すと、その不規則性の一部が封じ込められる、ということだ。

 このリーマン予想が、提出から150年以上経過した現在も解けていない。フェルマー予想落城のあと、難攻不落の未解決問題の代表となっているのだ。

 黒川さんは、リーマン予想の解決を夢見て、数学の研究を続けてきた。そこで到達したのが、「絶対ゼータ関数という新しいゼータ関数の創造だ。

 (A)(B)は、黒川さんがリーマンの研究の中に絶対ゼータ関数の影を見ていることの解説である。したがって、絶対ゼータ関数の解説とリーマンの研究(草稿)とを行きつ戻りつする。通常の数学書は時系列に研究を紹介していくので、この手法は非常に斬新だ。まるで、黒川さんがリーマンと対話しているかのようである。これを読んでいくと、リーマンの草稿に、絶対ゼータ関数の概念が萌芽していることが判明し、リーマンの天才性にただただ驚かされる。黒川さんは、リーマンが長生きすれば、絶対ゼータ関数を使ってリーマン予想を解決したのではないか、という「夢」を見ているのだ。ただし、絶対ゼータ関数については、本書ではあまり詳しく説明されないので、提示されている参考文献を入手する必要がある。

 ゼータ関数は、リーマンの研究後、複素平面以外にさまざまなアイテムに対して創造された。楕円曲線や、代数体や、リーマン面や、ガロア表現や、行列や、保型形式や、離散グラフなどなど。そして、これらのいくつかについては、リーマン予想の類似が証明されている。本書はこの点についても語るが、非常に大づかみな解説なのが、かえってアプローチの本質を浮き彫りにしてくれる。それが(C)だ。ぼくの理解では、要するに、ゼータ関数行列式(det)で表現して、固有値問題に帰着されるのが有望なのだ。黒川さんは、絶対ゼータ関数にこのようなアプローチをすれば、本家のリーマン予想が解けると期待している。

 ぼく自身がこの本ですごくわくわくしたのは、(D)の点だ。

 メルセンヌ素数とは、「2のべき乗から1を引いてできる素数」で、3、7、31などがそう。現在見つかっている巨大な素数はすべてこのメルセンヌ素数だ。メルセンヌ素数には、コンピューターで実用的時間内でチェック可能な判定法があるのだ。このメルセンヌ素数は、現在、51個見つかっているが、数学者の多くは無限に存在していると予想している。この予想「メルセンヌ素数予想」については、ほとんど文献がないのだが、本書には紹介されており、非常に貴重だ。それは、「メルセンヌ多項式予想」というものだ。

 「メルセンヌ多項式」とは、素数pに対する1+x+(xの2乗)+・・・+(xのp-1乗)というxの多項式((xのp乗-1)/(x-1)としてもいい)で、素数ℓの剰余体において既約多項式となるものをいう。x=2を代入すればメルセンヌ数になるから、メルセンヌ素数に対応する概念となる。これに関して、次の二つの結果が得られているという。

命題1.代数体のゼータ関数に対するリーマン予想を仮定すると、素数ℓを原始根とする素数pが無限個存在することがわかる。

命題2. 相違なる素数ℓと素数pに対して、次が同値。

 (1) 1+x+(xの2乗)+・・・+(xのp-1乗)は素数ℓの剰余体でのメルセンヌ多項式

 (2)  ℓはpの原始根

(ここで「ℓはpの原始根」というのは、(ℓのp-1乗-1)が初めてpの倍数となること)。

これを踏まえると、「代数体のリーマン予想」が解ければメルセンヌ多項式が無限に存在することが証明されることになる。もちろん、代数体のリーマン予想は未解決で、まだほど遠いので、メルセンヌ多項式予想もほど遠いが、めっちゃわくわくする話だ。以前、黒川さんと対談したとき、メルセンス素数予想の解決には適切なゼータ関数の発見が必要と仰っておられたが、こういう意味だったのか、と本書で初めて理解した。ちなみに、命題2は黒川さんの発見らしい。

 BSD予想(バーチとスィンナートンダイアー予想)は、ゼータ関数に関する(リーマン予想とは別の)予想で、1億円がもらえるミレニアム問題のひとつである。この問題についても、世の中にあまり知られてない重要なことが解説されている。すなわち、ミレニアム問題に取り入れられているBSD予想ではなく、おおもとの(2つあるもうひとつのほうの)BSD予想は、リーマン予想よりも強く、元祖BSD予想が証明できればリーマン予想が証明できる、ということだ。ミレニアムBSD予想も系として出てくるから、ミレニアム問題がふたつ同時に解けて、2億円もらえる(かどうかは知らない)。これを深リーマン予想(DRH)と呼ぶらしい。このいきさつも面白い。

 でも、数学ミーハーのぼくにとってすごく楽しかったのは、(E)の点だ。そして、非常に驚いたエピソードでもある。二つほど引用しよう。

私は、30年近く昔になりますが、1988年5月にプリンストン高等研究所を訪問した際に、偶然、セルバーグ先生にお目にかかることができました。その折にセルバーグゼータ関数の話をさせていただいたことから、セルバーグ先生のオフィスに招待され、セルバーグゼータ関数のことをいろいろとうかがうことができるという幸運にめぐまれました。しかも、ちょうど書き上がったばかりの「ゲッチンゲン講義録コメント」をいただき感激したものです。このコピーは、セルバーグ先生自らしてくださったのでした。

すごい! そして、うらやましい。もうひとつ引用しよう。

私にとっては、ラングランズの``メルヘン論文''は思い出深い論文です。ラングランズ先生から出版前に手紙とともに送られてきました。論文に引用されている通り、私が1976年にジーゲル保型形式のラマヌジャン予想に反例があることを発見したこと(1976年2月24日付手紙でプリンストンの志村五郎先生に伝えた)はラングランズにラングランズ・ガロア群を巡る問題を考える一つのきっかけを与えたのでした。

すごい! そして、うらやましい。

本書にはこういう美味しいエピソードが入ってるし、さらには、ユーモラスな冗談も書かれていて笑わしてもくれる。一つだけ紹介しよう。

ところで、今回のメルセンヌ素数を本として印刷すると通常の10進表記では数千ページになりますが、2進表記なら1が74207281個並ぶシュールな本――本というよりも壁紙――になります。

いや、暗黒通信団なら、2進表記の本を刊行しそうな気がするぞ。

さて、黒川さんの『リーマンの夢』を読む前に、以下のぼくの本を読んでおくことを激しく推薦しておこう。

 

世界は素数でできている (角川新書)

世界は素数でできている (角川新書)

 

 やっぱ、数学って楽しいよね。

 

 

 

複素関数を感覚的に理解するには

このところ、複素関数論(複素解析)を復習してた。

というのは、素数についての本格的入門書を執筆中だからだ。ぼくは、一昨年(2017年)に『世界は素数でできている』角川新書を刊行した。この本は、素数について、お話だけじゃなく、ある程度きちんと理論の中身を紹介するものだった。

世界は素数でできている (角川新書)

世界は素数でできている (角川新書)

 

 相当にがんばって書いたけど、二つの限界があった。第一は新書だからページ数が限れらていること。第二は、縦書きだから数式をあまり入れられないこと。もちろん、だからこそ多くの人が読める良い本に仕上がった。でも、一方で、数学が好きでもっと詳しく知りたい人の期待には応えられなかった。だから、横書きでページ数のたっぷりとれる本で、素数ファンに素数のすべてを提供したい、という気持ちが残った。そういう本を今、執筆中なのだ。

 そのために必要になる課題が二つある。ひとつは、素数の個数を数えるための「ふるい法」をわかりやすく解説するための資料を入手すること。これはいい本を入手できた。もうひとつは、ゼータ関数を理解するために不可欠な複素関数、とりわけ、複素積分を簡単に解説する技を編み出すことだ。

 後者については、すごく良い本2冊に出会うことができて、ほぼ準備が完了した。その二冊を今回紹介しよう。

一冊は小野寺嘉孝『なっとくする複素関数講談社。もう一冊は山本直樹複素関数論の基礎』裳華房

なっとくする複素関数 (なっとくシリーズ)

なっとくする複素関数 (なっとくシリーズ)

 

 

複素関数論の基礎

複素関数論の基礎

 

 この二冊の教科書の共通の特徴は以下のよう。

(1) 公理論的な厳密な組み上げより、直感的な理解を重視している。

(2)   計算の意味・内容をきちんと「言葉」で教えてくれる。

(3)  重要な定理だけに制限し、計算例や応用例もわかりやすいものだけに厳選している。

 とは言っても、二冊にはアプローチの違いもある。

前者の小野寺版は、相当に直感的だ。言いすぎになるかもしれないが、公理論的に相当やばい橋を渡っている。そういう意味で証明には危ないところがある。よく言えば明解、悪く言えば乱暴。でも、だからこそめっちゃわかりやすい。実は、ぼくの理解はこれに近いし、自分の本でもこの方針で解説しようと思っている。

それに比べて、後者の山本版はぎりぎり公理的な組み上げを踏み外さないでいる。にもかかわらず、面倒なところのうまい省略によって、読者の苦痛が最小限に抑えられるように工夫されている。

なので、未修者へのお勧めとしては、「小野寺版をば~っと一気読みして全体像を掴んで、そのあと山本版でもう少しきちんと理解する」という勉強方針を選ぶことだ。

 複素関数については、次の定理たちが代表的なもの。

1.コーシー・リーマン関係式:複素関数微分可能なとき正則といい、正則な関数は実部と虚部の関数の偏微分について、特定の偏微分方程式が成立する。

2.べき級数展開:正則関数は無限回微分可能でべき級数展開できる。

3.コーシーの積分定理:閉経路C内で正則な関数を、C上でぐるっと一周積分するとゼロになる。

4.コーシーの積分公式:関数f(z)を閉経路C内で正則とする。C内部の任意の点aに対して、関数f(z)/(z-a)をC上でぐるっと一周積分すると、f(a)になる。

5.ローラン展開:関数f(z)が中心をbとするドーナツ型開領域の内部で正則とする。このとき、関数f(z)は[係数×((z-b)のn乗)]の無限和で表現できる。ただし、nは負の整数も含む。

6.留数定理:関数f(z)は閉経路C内にいくつかの特異点を持つとする。そのとき、f(z)をC上でぐるっと一周積分した値は、(特異点における留数の総和)×2πi、となる。

ここで留数とは、その特異点ローラン展開したときの(指数n=ー1)における係数。

 だいたいこれらの定理をおさえれば、ゼータ関数にも、リーマン面にも、素数定理にも、なんとかかんとかアタック可能になる。でも、通常の(古典的な)複素解析の教科書でこれらの定理を全部理解しようとすると、きっとどこかで挫折を余儀なくされる。他方、紹介している二冊なら、ほとんど苦痛なくこれらを全部習得できるだろう。

 実は、上記「2.べき級数展開」を前提としてしまえば、他のすべてはあたり前に見えるのだ。複素積分でも「微分積分は逆操作」という「微積分学の基本定理」は成り立つ。言い換えると「fの原始関数Fが存在するなら、aからbへの経路でのfの積分値は終点の値F(b)から始点の値F(a)を引いたものになる」が成立する。べき級数展開は、係数×((z-c)のn乗)の和(ただし、nは0以上の整数)だから、各項には原始関数が存在する。閉経路での積分では(始点a)=(終点b)だから、積分値がゼロになるというコーシーの積分定理は当たり前と「納得」できる。次に実関数の積分でも、xの(ー1)乗以外のxのn乗には原始関数が存在したことを思い出そう。xの(ー1)乗だけ原始関数に対数が関わって変なことが起きていた。実は、この事情は複素関数ではより強烈になる。(z-a)の(ー1)乗が掛け算されるコーシーの積分公式も、(z-a)の(ー1)乗の係数だけを見ればいい、という留数定理もこの事情から出てくることが当たり前じゃんと「納得」できてしまう。

 このような書き方をしているのが、小野寺版だ。したがって、ほんとに腑に落ちる展開になっている。そして、そういうジェットコースター方式で解説しているからこそ、最後に解析接続の章とリーマン面の章を導入することに成功している。(z-a)の(ー1)乗の部分の振舞いがどちらでも大事なイメージ例となるのだ。とりわけ、解析接続の説明は出色だと思う。

 でも、公理論的には、上記「2.べき級数展開」を前提にするのはかなり乱暴なのだ。なぜなら、通常これは、「4.コーシーの積分公式」から導かれるからだ。

 山本版では、ちゃんとこの順序を踏襲している。その分、ある程度の厳密性が保持されている。他方、理解スピードがやや遅くなる恨みがある。

 ただ、山本版は1.から6.の定理たちのイメージを鮮烈にするための工夫が盛りだくさんだから、公理論的苦痛を相当に緩和してくれる。例えば、「1.コーシー・リーマン関係式」の導出は他書に比べて相当にわかりやすい。また、これを「zの複素共役zバーでの偏微分がゼロ」と言い換える工夫がめっちゃ良い。この見方をすると、「正則」とはどういうことかが直感的にストンと腹に落ち、関数の式を見ただけで正則・非正則を見抜けるようになる。

 また、「6.留数定理」の解説では、「n≠-1に対応する展開係数たちはすべて役に立たないガラクタで、積分に必要なすべての情報はn=-1に対応する係数に圧縮されている」という大事な見方を与えてくれる。その上、この定理を「積分しなくても、積分が計算できてしまう」と表現し、「コーシーの夢は、積分の統一的計算法であったという。この夢の成就の形として、留数定理は、まさに文句のないものといえよう」とほめたたえている。こういうの読むと、がんばって勉強してよかったな、と素直に喜べる。

 複素関数を勉強したい人、ゼータ関数素数定理リーマン面を理解したい人は、小野寺版→山本版、という順序で勉強することを強くお勧めする。

 

『フランダースの犬』と社会的共通資本の理論

 今回は、ウィーダ『フランダースの犬について語ろうと思う。それも、この物語が宇沢弘文先生の社会的共通資本の理論の根拠づけになるんじゃないか、というちょっと突飛な視点だ。

 ちなみにこのことは、前から考えていたんだけど、先日の資本主義研究会での講演

宇沢先生の思想について講演をします。 - hiroyukikojima’s blog

のために、前から温めていた考えをまとめて、満を持して発表したものだ。

 前もって言っておくと、ぼくは日本のアニメ「フランダースの犬」は(最終回以外は)全く観ていないので、アニメ版とは話が食い違っているかもしれない。

 ウィーダの原作を最初に読んだのはもう、20年以上昔のことになる。ベルギーに観光旅行に行ったときだった。『フランダースの犬』はベルギーのアントワープ地方を舞台とする有名な物語だから読んだほうがいいな、と思って、何の気なしにホテルで読んだのだ。

 そしたら、あまりの悲しい物語に号泣してしまった。しかし、それは主人公ネロに対する村人の非道な仕打ちのことではなかったんだ。以下、そのことを書く。今回読んだのは、新潮文庫

フランダースの犬 (新潮文庫)

フランダースの犬 (新潮文庫)

 

  思うに、作者のウィーダ女史がこの物語に込めた想いは、ルーベンスの絵に関することではないだろうか。

 ネロ少年は貧しいあばらやで祖父と二人で暮らしている。そこにひどい労役で死にそうになっておきざりにされた犬のパトラシエを祖父が助け、連れてきたことで、一緒に暮らすこととなった。物語は、少年ネロと犬のパトラシエの友情を描いていく。

 ぼくがこの物語の本質だと思うのは、ネロ少年が絵を描くことに情熱をもっていて、教会が所蔵しているルーベンスの絵を鑑賞することを熱望している、という点だ。しかし、教会はルーベンスの絵の鑑賞に課金をしており、貧乏なネロは見ることが叶わないのである。このことは次のように描写されている。まず、パトラシエの視点

パトラシエを不安がらせたのは、出てくるときのネロのようすがいつも異様で、ひどく顔を紅潮させているかと思えばひどく青ざめていることもあり、教会堂へ立ち寄った日には家に帰っても遊ぼうともせず夢想にふけりながら、黙りこくってすわったまま、運河のかなたの夕空を悲しげな面持でながめている、そのことであった。

「いったい何だろう?」

パトラシエは不思議におもった。とにかく小さい子供がこうして沈み込んでいるのは、あたりまえのことではない、と考え、物言えぬ身ながらネロを日のあたる原や賑やかな市場で、自分のそばにひきつけておこうと、せいいっぱい身ぶりを示して努力した。しかしあいかわらず教会へとネロは行くのであった。

 このように、ネロは教会のルーベンスの絵が見たいがために、何度も教会に足を運んでは失意のうちに帰ってきた。ルーベンスの二枚の絵にはいつもおおいがかけられているからだ。ネロの気持ちは次のパトラシエへのつぶやきに端的に示されている。

「あれが見られないなんて、たまらないなあ、パトラシエ、貧乏でお金が払えないばっかりに! この絵を描いたとき、あの人は貧乏人に見せまいなどとは夢にも考えなかったんだよ。どんな日でも、いや、毎日でも見せてくれたろうに、それだのに、あんなおおいをしておくなんてー暗いところにせっかくの美しいものを!ーだから金持の人が来てお金を払うまでは、日の目にもあわないし、人の目にもふれないんだ。あれが見られさえしたら、ぼくは死んでもいい」

この文章の中に作者ウィーダの強い怒りが結晶しているように思う。教会が拝金主義に陥って、市民みんなの財産であるはずのルーベンスの絵画を金儲けの道具にしている。よりによって教会がそういうことをしている。そういうとめどない怒りなのだと思う。

 市場原理主義の権化で宇沢先生の終生の敵であったミルトン・フリードマンならこういうかもしれない。すなわち、価値あるものは市場で価格を付けて取引されるのが最も効率的である。ネロもそんなに絵が見たいなら、働いて相応の金銭を稼げばいいではないか、と。

うん、そういう考え方があるのはわかるし、そういう考えを信奉する人が少なからずいることは知ってる。それに対して、作者ウィーダは、次のようなシーンを用意して答えたように思う。

 ネロは、村一番に裕福な家の娘アロアと親しくなる。アロアはネロやパトラシエの貧困や不幸なおいたちのことは気にせず、しじゅう一緒に遊ぶ気立てのいい娘だった。ある日にネロはアロアの肖像画を描く。アロアの父親はネロが娘に近づくのが気に入らなかったが、その肖像画には見惚れてしまい、1フランで買い取ることを申し出た。しかしネロは、お金の受取を拒否して、絵を無償であげてしまう。その気持ちはネロの次の言葉に表現されている。

「あの1フランであれが見られたのだがな。だけど、ぼくにはどうしてもアロアの絵は売れなかったんだよーあれのためでさえね」

つまり、ネロは、たとえルーベンスの絵を見たいがためと言っても、自分が心を込めて描いた愛するアロアの大事な絵を、金銭に代えることが我慢ならなかったんだと思う。それは「汚れた行為」だと感じるんではないだろうか。

 こういう感情について、ばかげていると思う人は多いだろう。また「危険な正義感」「危険な倫理観」だという人もいるだろう。しかし、ぼくが共感するのはそういう反論とははずれたところにある作者の思いなのだ。みんなの共有の財産である、教会や、絵画を、市場原理に晒すことに対する作者の怒り。絵画を無償で公開するなど、なんでもないことで、そうすればネロのような少年も、たとえ金銭的な苦境にあっても幸せに暮らすことができるのに、そうしない教会に対する憤慨がこの物語を書かせたに違いないと思うのだ。

 ベルギーで読んだときはただの悲しい物語だと思ったにすぎないのだけど、今回、講演のために読み返してみて、ぼくはこの物語の中に宇沢先生の「社会的共通資本の理論」が結晶していると確信するようになった。

 もちろん、生産設備を十分に確保し、需要を刺激し、雇用を安定させることで、人々は物質的な豊かさを享受できる。それは市民を豊かにする一つの在り方だ。でも他方で、生活基盤インフラや教育や医療や芸術など、人々の厚生の中心になる公共的な財を豊富に整備し、社会で共有の財産として管理運営していくことが、市民が安心して暮らせる、そして豊かであることを無理に自覚することなく享受していく大事な制度に違いないと思えるのだ。それが、宇沢先生が言いたかったことではないかと。

 この『フランダースの犬』は、悲劇的なエンディングを持っている。ネロとパトラシエは、クリスマスイヴの夜に教会で餓死することになる。しかし、死の直前にネロは、念願のルーベンスの絵を見ることになる。作者は、だれがおおいを取ってくれたのかについては触れていない。そこに、作者の強い想いが込められていると思う。それは次の表現に現れている。

この世に生きながらえるよりもふたりにとって死のほうが情け深かった。愛には報いず、信じる心にはその信念の実現をみせようとしない世界から、死は忠実な愛をいだいたままの犬と、信じる清い心のままの少年と、この二つの生命を引き取ったのである。

作者ウィーダの怒りと失望の深さはよくわかる。でも、死に幸せを委ねるなんて悲しいことをしなくても、この世界はちょっとした工夫で、ちょっとした発想の転換で、ネロとパトラシエを幸せにすることはできる。金銭を仲立ちとしない仕組みを市場世界の一部に導入すればいいだけだ。それこそが宇沢先生の思想の根幹だと思うのだ。

 ちなみに、つい先日、宇沢先生の評伝『資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界』講談社を著者の佐々木実さんが送ってくださった。ぼくも取材を受けて、ちょっとだけ貢献したからだ。まだ読んでいないので、読後に書評を挙げるつもりだ。

 うれしいことに、佐々木さんがこの本への思いを綴っているサイトに、「宇沢先生をしのぶ会」で上映されたアメリカの経済学者の追悼のインタビューがアップロードされている。是非、ご覧になっていただきたい。

世界随一の経済学者が、すべてを投げ捨てても守りたかったもの(佐々木 実) | 現代新書 | 講談社(1/3)

アカロフスティグリッツとソローとアローの4人。全員がノーベル経済学賞受賞者。すごすぎるメンバーだ。宇沢先生がどんなに彼らに愛されていたか、どんなに尊敬されていたかがよくわかる。

 

資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界

資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界

 

 

 

 

 

 

文春に拙著の書評が掲載されました!

 『週間文春』3月14日号に拙著『暗号通貨の経済学 21世紀の貨幣論講談社選書メチエの書評が掲載された。

 

暗号通貨の経済学 21世紀の貨幣論 (講談社選書メチエ)

暗号通貨の経済学 21世紀の貨幣論 (講談社選書メチエ)

 

 評者は波多野聖さんという作家の方。非常にすばらしい書評でとてもうれしかった。なので、皆さんにも是非、読んでいただきたい。「文春オンライン」で読めるので、リンクを貼る。

暗号通貨を創り出す“技術”はいかがわしい? 「ブロックチェーン」の可能性とは? | 文春オンライン

 

これだけで終わってはなんなので、前回、

小学生向けの統計学の絵本が刊行されます! - hiroyukikojima’s blog

で紹介した小学生向けの統計本の新著ついて、もう一押ししておこう。

前回は「小学生向けのまえがき」を引用したが、今回は「保護者向けのまえがき」を引用する。

現在、文科省の算数・数学教育の方針として、統計学教育が強化されています。高校では、統計学が数学の一分野としてほぼ必修化され、それに伴い、中学校でも小学校でも、その下地作りの統計学習が導入されます。

 このことには、良い点と悪い点があります。

 良い点というのは、数学嫌いの子供もひょっとすると統計は好きになれるかもしれない、という点です。統計というのは、世の中の「事実」を数字で捉える技術です。算数は抽象的でややこしい作業ですが、統計は具体的であり、身の回りのこと、目に見えることを扱っていますから、子供が興味を持てる可能性があります。統計が身近になれば、社会にも理科にも興味が持てるようになるでしょう。

 他方、悪い点というのは、統計の「数字」や「グラフ」を見るには、ある程度訓練と慣れが必要だ、という点です。しかし、最初に下手な教育を受けると、算数嫌いに加えて、統計嫌いなるという、二重苦を背負いかねません。

 だから、最初が肝心なのです。大事なのは次の二点です。

  • あたりまえのこと、基本中の基本をきちんと教わること
  • 面白い統計を例として見ること

本書は、この二点を踏まえて作られています。できたら、保護者の皆さんも、子供さんの傍らで、一緒に本書を読んでください。そして、本書に出て来る統計について、「そうなんだ」とか「そうなのかなあ」とか「ふしぎだね」とか「他はどうかな」など、子供さんとあれこれ議論をかわしてみてください。きっと、子供さんは、あなたと一緒に、世界を冒険している気分になると思います。そして、世界の「事実」に興味を持つようになると思います。

 一部の家庭を除けば、子供と保護者が仲良く教科についての会話ができるのは、小学生のうちだけだろう。その時間は、とても大事だと思う。その貴重な交流の題材として本書を利用していただければ嬉しい。

 

 

 

小学生向けの統計学の絵本が刊行されます!

 今日あたりから、ぼくの新著が書店に並ぶ。

宇宙人ミューとカイのかわいい統計大作戦ミネルヴァ書房という本だ。

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宇宙人統計本

この本は、小学校高学年の子供に統計グラフの読み方を勉強してもらうもの。

現在、文科省は統計教育に力を入れてて、高校で統計学が数学の単元としてほぼ必修化される。それに応じて、中学でも小学校でも統計が強化されることになっている。

 ぼく自身は、数学という教科の中で統計を教えるのは反対だ。統計学には統計学固有のロジックがあり、数学は使うけど数学とは異なる分野だからだ。例えば、物理を数学のいち単元として教えることになったら反対する人が多いのではないかと思うのに、統計についてはそんなでもないことには驚いている。

 ここでは、その話は詳しく書かないので、興味ある人はWEBRONZAで読んでほしい。

高校数学での統計学必修化は間違っている - 小島寛之|WEBRONZA - 朝日新聞社の言論サイト

Twitterでよく、(有料だからだろうけど)最後まで記事を読まないでトンチンカンな批判している人がいるけど、そういうのはいかがなものかと思う。最後まで読まないと論説の趣旨はわからんぞ。(まあ、金払う価値があるかどうかは責任もたないが。笑)。

 繰り返すと、ぼくは数学の中で統計を教えるのは良くないと思うが、統計自体は、子供の頃から親しんだほうがいいと思っている。

 ぼく自身は、30代になるまで統計には一切関心がなかった。中学1年から数学にはまって、数学が三度の飯より好きなくらいだった。でもそれは、抽象世界の数理、形而上学としての数学が大好きだったのであって、現実解析の道具としての数学には全く関心がなかった。

 統計に目覚めたのは、30代で経済学部の大学院に通うことになったときだった。その辺の事情は、次で読んでほしい。

統計学の面白さはどこにあるか - hiroyukikojima’s blog

 経済学を研究するようになって、現実を見る道具としての統計学はものすごく面白いと目覚め、また、統計学から数学を引き算したところに統計学固有の思想が封じ込められている、ということもエキサイティングに思うようになった。

 今では、統計学がとても好きで、だから何冊も統計学の教科書を書いている。その「伝道」的な仕事の一環として、今回の『宇宙人ミューとカイのかわいい統計大作戦』がある。これは、ぼくが小学生のときに読んでいたらひょっとしてぼくの統計に関する興味が180度変わってたんじゃないか、ってコンセプトで書いたのだ。

 

 いつものように、序文を公開する。実は、この本は「子供むけ」「先生向け」「保護者向け」と3種類の序文があるんだけど、今回は、「子供むけ」を引用する。

[はじめに] 

 みなさんは、数字を見るとじんましんが出ますか? 算数は嫌いですか? 

そうですか。わかります。とてもわかります。

算数のややこしい計算や、むずかしい文章問題をやらされると、「なんでこんなこと、やらなきゃならないの?」「こんなことして、何かの役に立つの?」と思うことでしょう。ただただ子供を苦しめるだけの修行を、無理強いされている、そう感じるでしょう。

 そう感じるのは仕方のないことです。

 世の中には、スポーツが得意な子供も苦手な子供もいます。音楽が上手な子供も下手な子供もいます。同じように、算数が好きな子供も嫌いな子供もいてふしぎではありません。何に対しても、好きなことでは思いっきりがんばり、嫌いなことはソコソコにこなせばいいのです。大人になったら、算数が苦手でも、決して人からとがめられたりしませんよ。

 ただ、ここでひとつ、聞いてほしいことがあります。

 みなさんは、身の回りのこと、世界のことを知るのは、きっと興味があると思います。自分が生きているこの世の中には、たくさんの面白さとふしぎさがあふれています。そういう面白いこと、ふしぎなことを知りたい、わかりたい、きっとそう感じていることでしょう。

 そういう君は、ぜひ、本書を読んでください。本書では、身の回りや世界を知るための技術がレクチャーされます。

 身の回りや世界を知るには、「数字」と「グラフ」が役に立ちます。もう少し詳しく言うと、「統計」というのが役にたつのです。

「統計」というのは、世界を「数字」と「グラフ」で捉える技術です。世界は、見た目だけでは捉えられません。見ただけだとだまされてしまうことがよくあります。そういうときこそ、「数字」と「グラフ」がものを言うのです。

 この本は、世界を「数字」と「グラフ」で捉える「統計」について解説しています。ベータ星人のミューとカイといっしょに、ベータ星の博士から「数字」と「グラフ」の見方を学んでください。そして、「統計」を使って、地球を冒険してください。

 この本を読み終えた頃にはきっと、ほんの少しだけかもしれませんが、算数とお近づきになれているかもしれませんよ。

とくに、小学生のお子さんをお持ちの当ブログの読者の皆さんに、是非、書店で手に取っていただきたい。

 

 

ビットコインの元論文の解説+抄訳を公開しました。

まず、前々回のエントリー

宇沢先生の思想について講演をします。 - hiroyukikojima’s blog

で告知した来週の講演会のことを繰り返しておこう。

タイトル:宇沢弘文の思想~資本主義に代わる社会システム

日時:2019年2月15日(金)19:00-21:00(開場18:40)

会場:東京大学 本郷キャンパス/東洋文化研究所 3F大会議室

詳しくは、

第28回資本主義の教養学講演会 | PFC Insights

でどうぞ。

さて、今回のエントリーだ。

拙著『暗号通貨の経済学 21世紀の貨幣論講談社選書メチエの刊行のタイミングで、ビットコインの元論文となったサトシ・ナカモトの論文

 Bitcoin: A Peer-to-Peer Electronic Cash System(2008)   Satoshi Nakamoto

の解説+抄訳を、現代ビジネスというWEBマガジンで公開した。

gendai.ismedia.jp

これはビットコインの仕組みをQ&A形式で解説した上、論文の該当する部分の抄訳を付け加えたものだ。

 これを書くことになった経緯を少しお話しよう。

実は、担当編集者は、この論文の全訳を新著『暗号通貨の経済学』に収録したいと考えた。それで、この論文に著作権があるかどうかについて会社と話し合った。出版社側からは、たとえサトシ・ナカモトが著作権を放棄していたにしても、それが明記されていない限りは著作権の問題に抵触する可能性がある、という返答だった。それで担当編集者は、本に収録することはあきらめ、講談社のWEBで公開する方針に切り替えた。

 担当編集者はメディアとして「現代ビジネス」を選んだのだけれど、そこでぼくは、公開に関して迷うことになった。その理由は、サトシ・ナカモト論文が無料で公開され、そこで提示されたビットコインというソフト・ウエアもオープンソースとなっているからだ。

 ぼくは拙著の中で、オープンソース文化、というか、オープンソース思想について、(プロプライエタリとの対比において)、共感するような主張をしている。にもかかわらず、自分がサトシ・ナカモトの論文を(販促という)営利目的で利用することに違和感があったのだ。

 それで、担当編集者と議論をすることになった。いったんは「現代ビジネス」をやめて、このブログに公開したらいいんじゃないか、とも考えた。でも、ちょうどその頃に、坂井豊貴さんの新著のプルーフ版をいただいた。(レビューは↓)

坂井豊貴『暗号通貨vs.国家』SB新書は、めっちゃ面白い! - hiroyukikojima’s blog

この本のあとがきに坂井さんは次のように書いている。

サトシやビットコインに関する記録や情報はネット上に多くある。だがそれらは散逸しているうえ、真偽の判定が必ずしも容易ではない。信頼できそうな情報でも、書き手が匿名だったり不明だったりする。多くのウェブサイトで同じことが書かれている、というのは信頼する理由にならない。コピペサイトが多々あるからだ。電子的な贋金づくりであるダブルスペンディングの防止が容易でないゆえんである。

この坂井さんの考えは、担当編集者の考えと全く同じだった。それでぼくは、自分による解説と抄訳を「現代ビジネス」で公開することに意義があると考えを改めた。少なくとも、ぼくの知識や学識のレベル内において品質保証ができるし、ぼくという実名の学者の範囲内で責任をとれるからだ。

 というわけで、ビットコイン論文の解説+抄訳を公開する運びとなった。興味ある方は、是非ご一読ください。そして、「ビットコインって面白いかも」って思えたら、是非とも、拙著『暗号通貨の経済学 21世紀の貨幣論講談社選書メチエも併せてお読みください。

 

暗号通貨の経済学 21世紀の貨幣論 (講談社選書メチエ)

暗号通貨の経済学 21世紀の貨幣論 (講談社選書メチエ)