ラグランジュ乗数と帰属価格

 今、都内某所で、地方自治体主催の市民講座に登壇しており、そこで現実問題を経済学で分析するレクチャーをしている。そのレクチャーでは、現代の(広く認められている)経済理論を援用しながらも、そこかしこに宇沢弘文先生の「社会的共通資本の理論」を刷り込むサブリミナルを仕込んであるのだ(笑)。

 それで環境問題をテーマとする回に、宇沢先生の地球温暖化へのアプローチを紹介しようと思い立ち、今までちゃんと勉強しなかった宇沢先生の温暖化についての理論と初めて向き合った。読んだのはこの本。

 この本での宇沢先生の最終的なアプローチは、動学的最適化理論を使う分析である。二酸化炭素の排出量制約のもとでの、消費の通時的最適化を求めている。これをもとに、「最適な炭素税とは各国のGDPに比例させる課税である」ことを主張している。

 この動学モデルで重要な役割を果たすのが、「帰属価格(imputed price)」という概念だ。帰属価格とは、数学で「ラグランジュ乗数」と呼ばれているものと全く同じである。それが、経済学においては、「価格の一種」として登場するわけなのだ。これは実に面白いし、ラグランジュ乗数法をイメージ化する上で格好の材料だと思う。

 宇沢先生のアプローチを緻密に理解するため、ラグランジュ乗数のことをもう一度勉強し直そうと思いたった。ラグランジュ乗数の数学的仕組み、それを経済学的に「価格」として解釈する仕方、さらには、それが動学的最適化モデルの中でどう働くか、それらもろもろを考え直したくなったのだ。

 ぼくはラグランジュ乗数法のことを、すでに拙著『ゼロから学ぶ微分積分講談社で解説してる。この説明はかなり自慢のものだ。そして、レビューでも、多くの読者たちから一定の評価ももらっている(と理解している)。

ゼロから学ぶ微分積分

ゼロから学ぶ微分積分

  • 作者:小島 寛之
  • 発売日: 2001/04/23
  • メディア: 単行本
 

 たぶん、この本でのラグランジュ乗数法の解説は、現存する類書の中で最もわかりやすいに違いない。それでもなお、また考え直したいのは、もっと「直感的」でもっと「経済学的」な理解に達したくなったからなのだ。それで、最適化理論の本(オペレーションズ・リサーチの本)をいくつか読み、変分法の本もいくつか読み、それを自分の頭で咀嚼し直した。この勉強によって、前より進んだ理解に到達し、さらには、副産物として、不等式制約の「クーン・タッカーの定理」、それと動学的最適化における「ハミルトニアン」の直感的理解も手に入れることができた。

 ラグランジュ乗数法というのは、制約付き最適化の方法論だ。

例えば、座標平面上の円x^2+y^2=b上の点(x , y)に対する2変数関数f(x , y)=2x+3yの値を最大化する(bは定数とする)、みたいな問題の解法である。言い換えると、「制約x^2+y^2=bの下でのf(x , y)=2x+3yの最大値を求める」、ということだ。

愚直にやるには、x^2+y^2=bからy=\sqrt{b-x^2}と解いて2x+3yに代入して、1変数xの関数として微分すればよい。(受験数学的には、もっと巧い、もっと簡単な解法があるが、ここではスルーする)。ラグランジュ乗数法とは、このように陰関数を解かずに、多変数関数のまま通常の「微分法」に持ち込む解法なのである。

 まず、(最大化したい関数)-\lambda(制約関数)という式を作り、これをLとおく。つまり、L=(2x+3y)-\lambda(b-x^2-y^2)ということ。これをx, y,\lambdaの3変数関数とみて、それぞれの変数で偏微分して、それらが0となるという連立方程式を作り、それを解けばいいのである。このように問題を変形することで、もとは従属していた変数x, yを独立変数として扱うことができる。陰関数を求めることも、マニアックな受験テクもいらず、「(偏微分)=0」という素朴な条件で解けるのである。

 ここに登場する\lambdaが「ラグランジュ乗数」と呼ばれる。しかしこれだけだと、まるで「おまじない」「魔法」の類にしか見えない。経済学(あるいはOR)を勉強することで、現実的な意味が見えてくるようになる。

 \lambdaは、ざっくり言うと「制約が陰に備えている価格」なのだ。これを経済学では「帰属価格(imputed price)」と呼んでいる。

例えば、x, yを生産に投入する要素で、ぎりぎり使えるのがx^2+y^2=bを満たすx, yだとする。生産要素をx, yだけ使うと2x+3yの量の生産物ができるとすれば、この生産者は制約x^2+y^2=bを守りながら2x+3yを最大化するのが、経済的に最適ということになる。

このとき、最適化させるラグランジュ乗数\lambda^{*}は、「制約が陰に備えている価格」に対応する量となる。その意味は、制約bを緩めるとあたかも1単位あたり価格\lambda^{*}が付されているごとくに生産の増加が生じる、ということだ。より詳しくは、制約bを微小量dbだけ緩めると、最適産出量2x^*+3y^*\lambda^*dbだけ増える、ということ。これが、「ラグランジュ乗数は価格の一種」ということの意味である。大事なのは、制約bを微小量dbだけ緩めるとき、生産者は改めて最適な投入量x, yを計算し直し、その上で増加する生産量が\lambda^*dbだということだ。

こういうイメージが得られれば、ラグランジュ乗数も血の通った概念に見えてくるだろう。

 以上のことを直感的に理解するためには、厳密性は欠くが次のように局所分析をしてみればよい。

 一般の2変数関数f(x, y)において、x, yが微小量(dx, dy)だけ変化するとき(dは微小量につける記号)、f(x, y)の変化dfは、f_xdx+f_ydyで与えられる。ここで、f_xfx方向における偏微係数(\partial f/\partial x)である。要するに、xx+dxに増やすと、f(x, y)f_xdxの量だけ増えるということ。df=f_xdx+f_ydyという公式は、点(x, y)から点(x+dx, y)に移って、f_xdxだけ増え、次に点(x+dx, y+dy)に移動して、f_ydyだけ増える、ということだから、きわめて自然だ。(曲面を平面で近似して考えているということ)。

 ここで重要なのは、f_xdx+f_ydyをベクトル(f_x, f_y)とベクトル(dx, dy)内積と見なす見方である。(ここから先が、拙著『ゼロから学ぶ微分積分とは異なる説明)。高校数学で勉強するように、2つのベクトルの作る角が90度以下のとき、内積は0以上になる(内積は長さにcosを掛けたものだから)。つまり、点が移動する向き(dx, dy)がベクトル(f_x, f_y)と90度以下であるなら、内積≧0だから、df=f_xdx+f_ydy≧0となって、f(x, y)は増加することになる。

 さて、制約b=g(x, y)のもとで、f(x, y)の最大(または最小)を求める制約付き最適化問題を考えよう。

制約b=g(x, y)から、関数g(x, y)は一定値だから、制約を守る方向に動く限り、dg=g_xdx+g_ydy=0となる。上記に述べたことから、ベクトル(g_x, g_y)と制約を守って移動する方向のベクトル(dx, dy)との内積は0となる。したがって、もしも点(x, y)においてベクトル(f_x, f_y)とベクトル(g_x, g_y)が平行でないのなら、制約を守って移動する方向のベクトル(dx, dy)はベクトル(f_x, f_y)との内積は0でない。すると、ベクトル(f_x, f_y)とベクトル(dx, dy)内積、または、ベクトル(f_x, f_y)とベクトル(-dx, -dy)内積、のいずれか一方は正になる。これは、f(x, y)が増加する方向が存在する、ということだから、(x, y)が最適点でないことがわかる。

 以上から、ベクトル(f_x, f_y)とベクトル(g_x, g_y)が平行、ということが、最適点では成り立っていなければならない、ということが示された(必要条件)。これは、ある\lambdaが存在して、(f_x, f_y)=\lambda(g_x, g_y)ということである。したがって、任意の移動方向(dx,dy)に対して、ベクトル(f_x, f_y)とベクトル(dx,dy)内積は、ベクトル\lambda (g_x, g_y)とベクトル(dx,dy)との内積と一致している。これは、ラグランジュ関数L=f(x, y)-\lambda g(x,y)のどの方向の偏微係数も0であることを意味している(つまり、極大点や極小点の必要条件)。

 この分析法から、「帰属価格」へアプローチしてみよう。

関数f(x,y)の制約b-g(x,y)=0における最大値を、bの関数と見なして分析してみる。最適化の解x^*,y^*,\lambda^*は、すべてbの関数となっている。ここで、bが微小量dbだけ変化したとき、最適化された生産量f(x^*,y^*)がどのくらい増加するかを見てみよう。f(x^*,y^*)の増分は、ベクトル(f_x, f_y)と制約を守った移動ベクトル(dx^*,dy^*)内積だが、この移動ベクトルは(x^*,y^*)bに関する微係数のベクトルの延長である(dx^*/db,dy^*/db)dbだから、

f(x^*,y^*)の増分=((f_x, f_y)(dx^*/db,dy^*/db)内積)×db

である。一方、制約b=g(x^*,y^*)から、

1=g_x\times dx^*/db+g_y\times dy^*/db=((g_x, g_y)(dx^*/db,dy^*/db)内積)

よって、前に述べた最適化の平行条件から、

((f_x, f_y)(dx^*/db,dy^*/db)内積)×db

=(\lambda^*(g_x, g_y)(dx^*/db,dy^*/db)内積)×db

=\lambda^* db

つまり、制約をdb緩めると、その\lambda^*倍が生産にはね返る。つまり、これ制約が陰にもっている価格にあたる、ということなのだ。(数学的にきちんとした証明は、拙著『ゼロから学ぶ微分積分を参照のこと)。

 ちなみに、宇沢先生の地球温暖化に関する分析では、V_tを大気中の二酸化炭素の量として、それがdV_t/dt=v_t-\mu V_tという微分方程式にしたがって変化すると仮定される。ここでv_tは生産の要素投入a_tからv_t=ca_tによって決まる二酸化炭素排出量であり、\muは海水に吸収される二酸化炭素の割合を表す。もうひとつの制約は、投入要素に関するK=fa_tである。この制約を満たす要素投入a_tによって、x_t=Ba_tの生産物ができると仮定される。これらの制約の下で、関数u(x_t)\varphi(V_t)を最大化する問題を考えるのである(各変数はみなベクトル量。面倒なので細かい説明は省略している)。

ラグランジュ関数は、次のように与えられる。

u(x_t)\varphi(V_t)-p_t(v_t-\mu V_t)+r_t(K-fa_t)

ここで、p_tは、二酸化炭素に関する制約を緩めることによってもたらされる不効用の増加であり、「二酸化炭素の帰属価格」にあたるものである。ただし、このラグランジュ関数は動学化されているし、制約が微分方程式になっていて、一般にはハミルトニアンと呼ばれる形式になっているので、上記の説明よりずっと複雑化した手法だ。

 帰国後の宇沢先生のことを「新古典派的な手法を捨ててしまった」とか「文化論的になった」とか言う人が多いが、先生は最後まで数理的解析を続けた人だと思う。ただ、数理言語によるアプローチの一方で、「思想の自然言語による表現」も加えたのである。

 

 

 

 

「エビデンス」のエビデンスを知るための本

 今回は遂に2か月も間が空いてしまった。オンライン講義の仕込みに時間をとられたせいもあるし、某大学での非常勤でベイズ統計学のオンライン講義を引き受けてしまったせいもある。押し詰まっているが、なんとか年内にもう一つエントリーをしようと思う。

 今回は、マンスキ―『データ分析と意思決定理論 不確実な世界で政策の未来を予測する』(奥村+高遠・訳)ダイヤモンド社を紹介したい。この本は、ざっくり言えば、実証分析のメソッドとそれに付随する限界、注意点を解説する本だ。

 

 

 なぜこの本を紹介したいのか、その意図は二つある。

 第一の意図は、コロナ禍の現在、テレビにもネットにも「エビデンス」という言葉が飛びかっていることだ。専門家も政治家も素人も二言目には「エビデンスはあるんか?」と、口角泡を飛ばす。このときの「エビデンス」は、単に「証拠」という語彙である場合も、単なる「データ」である場合も、また、「ちゃんとした実証の手続きを持つ裏付け」という場合もあるようだ。これらの「エビデンス」には温度差があり、どの程度「真実性が担保されている」のかがかみ合っていない風情がある。せっかくの機会だから、「エビデンス」について、みんながもう少し認識を共有する必要があると思う。

 第二の意図は、国の方針で、「データサイエンス」の研究と教育が奨励さている現状があることだ。ぼくには幸い、著作『完全独習 統計学入門』『完全独習 ベイズ統計学入門』(いずれもダイヤモンド社)があるため、複数の機関からレクチャーを依頼されて、今年と来年に引き受けることになった。いうまでもなく、「データサイエンス」とは、実証のための科学的メソッドの学問である。しかし、「データサイエンス」を推進するのはいいが、それが単にExcelやRに数値を入力できる、というスキルを意味するのだったら、そんなことで国家の科学的な未来なんて来やしないと思う。大事なのは、データをどのように「エビデンス」に仕立てるか、その「エビデンス」を背後で支える科学的理論は何か、「エビデンス」から政策を決めるにはどうするべきなのか、それらをきちんと普及させることだと思う。

 本書、マンスキ―『データ分析と意思決定理論 不確実な世界で政策の未来を予測する』は、そのヒントを与え、勉強の道筋を示してくれる本だと思う。

 本書は2部構成であるが、第一部は「どんな分析であれば信頼できるのか?」、第二部は「不確実な世界では、どんな意思決定をすべきか?」となっている。ちなみに、第二部の「意思決定理論」は、まさにぼくの専門でもある。

目次建ては以下となっている。

第一部 データ分析編

第1章 「強い結論」欲しさに政策分析の信頼性が犠牲にされている

第2章 政策の効果を予想する

第3章 新しい政策に対する人々の行動を予測する

第二部 意思決定理論編

第4章 単純な状況下で部分的な知識に基づいて意思決定をする

第5章 複雑な状況下で部分的な知識に基づいて意思決定をする

第6章 データ分析の「消費者」へ

 本書には具体例がふんだんに投入されていて、いろんなケーススタディをすることができる。二つほど紹介しよう。

第一は、まさにコロナ禍でワクチンの治験が実施されている現状にぴったりの次の一節である。

製薬会社が新薬の承認をFDAから得るために実施するランダム化臨床試験(治験)について見ていこう。こうした治験に自発的に参加する人たちは、新薬の対象となる患者の代表とは言えない可能性がある。自発的な治験の参加者は、製薬会社が提供する金銭的なインセンティブ、医学的なインセンティブに反応した人たちである。

金銭的なインセンティブとは、治験に参加すれば謝金がもらえる、あるいは無料で治療が受けられることを指す。医学的なインセンティブとは、治験に参加しなければ手に入らない新薬を入手できるといったことを指す。

 治験に自発的に参加したグループの反応の結果が、自発的に参加するわけではない人たちの結果と異なっているのであれば、治験の母集団は新薬が対象とする患者の母集団とは実質的に異なっていることになる。FDAが治験のデータをもとに医薬品を承認するとき、患者の反応は治験の被験者の反応と似通ったものになるという暗黙の仮定を置いている。この不変の仮定がどの程度正確かはわかっているとは言えない。

これがどの程度、新型コロナウイルスのワクチンの治験にあてはまるかはわからないが、「エビデンス」を理解する上で欠かせない論点には違いない。

 もう一つの例は、ぼくの関心から選ぶ。それは、有名な経済学者フリードマンの論説についてのものだ。フリードマンは、学校教育の「バウチャー制度」を提唱した。バウチャー制度とは、学校を好きに選んで教育を受けることのできるクーポン券を配布することである。それによって、教育を受ける人の「選択の自由」を保証し、学校に競争原理を導入する、ということだ。裏側には公教育の否定と解体が込められている。著者はまず、フリードマンの議論を引用する。

 「近隣効果」を根拠にした教育の国有化を支持する説に、そうしなければ社会の安定に不可欠な共通の価値観を醸成することができないとする議論がある・・・この議論はかなりな力を持っている。だが、この議論が明らかに正当だとはいえない・・・

 教育を社会統一の原動力にするために政府による公教育が不可欠であるとする考え方の根拠の1つに、私立学校の階層の格差を助長しかねないとする説がある。わが子をどの学校に通わせるかを選べる自由度が大きいと、似たような親同士で固まる傾向があり、バックグラウンドが決定的に異なる子供同士の健全な交流が妨げられるという。この議論が原則として妥当かどうかはともかく、主張されたとおりの結果になるというのは明白とは到底いえない。

このようなフリードマンの議論に対して、著者は、次のように批判を展開する。

この文章は興味深い。フリードマンは近隣効果に関して実証的証拠を一切挙げていないし、このテーマについての調査を求めているわけでもない。単に近隣効果があるからといって公教育を保証することが「正当だといえない」、「明白とは到底いえない」と述べているだけである。

 フリードマンのレトリックでは、証明する負担を無料の公教育に負わせ、反証がないのだからバウチャー制度は好ましい政策であると主張しているのだ。これはみずからの主義主張を押し通す主義主張のレトリックであり、科学のレトリックではない。

フリードマンのレトリックは、現在のネット上の議論・批判にも頻繁にみられるものだ。そういう意味で、本書を読むことで、こういう不毛な似非議論に巻き込まれない判断力が培われるだろう。

 本書には、他にも、刺激的な「実証的テーマ」が満載である。例えば、「コカインの消費量の削減経費」とか、「過去の犯罪歴と再犯の可能性の関係」とか、「IQは「生まれ」と「育ち」のどちらで決まるか」とか、「死刑の殺人抑止力効果」とかである。これらの社会的に重要な問題から、読者は「エビデンス」の在り方を学ぶことができる。

 また、本書は、統計学のメソッドの指南書として読むこともできる。例えば、今、実証の論文で流行っている「回帰不連続」なども具体例から勉強することができて便利である。さらには、「意思決定理論」の入門書にもなっている。是非、多くの人に読んでいただきたい。

 最後に自著の宣伝になるが、「データサイエンス」にこれから参入するなら、まず、(最初のほうで紹介した)拙著『完全独習 統計学入門』『完全独習 ベイズ統計学入門』を読もうよ。きっと、役に立つからさ。笑

 ではでは、良いお年を。

 

完全独習 統計学入門

完全独習 統計学入門

  • 作者:小島 寛之
  • 発売日: 2006/09/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

完全独習 ベイズ統計学入門

完全独習 ベイズ統計学入門

  • 作者:小島 寛之
  • 発売日: 2015/11/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

 

ゼータの伝記そして歳時記

 前にエントリーから、ずいぶん間が開いてしまった。

今回は、黒川信重さんの『零和への道ーζの十二箇月ー』現代数学社を紹介しよう。

零和への道 ―ζの十二箇月―

零和への道 ―ζの十二箇月―

  • 作者:黒川 信重
  • 発売日: 2020/08/22
  • メディア: 単行本
 

 タイトルにはちょっとのけぞるだろうが、決して、トンデモ本ではない。それどころか、驚くべき名著であり、読んで感じ入ることのできる数学書となっている。

 もちろん、黒川さんの本だから、当然「ゼータ」の本となっている。しかし、そればかりではなく、非常に「斬新」な、非常に「変わった構成」の本となっているのだ。それは、「歳時記造り」になっているという点だ。

実際、目次が4月から3月までの年度の一巡となっている。目次だけ抜き出すと、

4月 ゼータ入門

5月 合同ゼータと絶対ゼータ

6月 セルバーグゼータ

7月 リーマン予想

8月 ハッセゼータ

9月 絶対ゼータ

10月 ラングランズ予想

11月 ゼータ育成

12月 ゼータ融合

1月 井草ゼータ

2月 群ゼータ

3月 零和時代

 この本は、『現代数学』誌2019年4月号~2020年3月号までの連載をまとめたものだから、それで4月から3月の一巡になっているのだが、それだけではないのだ!

この本は、該当月にちなんだ数学者の紹介をしていくという、ある種の「歳時記」、ある種の「伝記」、そしてある種の「墓碑銘オマージュ」になっているのである。 「歳時記」とはなにかというと、数学者の「生誕月」であったり、「没月」であったりする。具体的には、(ネタばれになってしまうので申し訳ないが)、

4月 オイラーの生誕月

5月 ヴェイユの生誕月

6月 セルバーグの生誕月

7月 リーマンの没月

8月 ハッセの生誕月

9月 オイラーの没月

10月 ラングランズの生誕月

11月 エスターマンの没月

12月 ラマヌジャンの生誕月

1月 井草凖一の生誕月

2月 ランダウの生誕月・没月

3月 グロタンディークの生誕月

このように、その月にちなんだゼータ研究の数学者たちの順に解説が並んでいる。そういう意味で「歳時記」なのだ。だから、他書に比べて新鮮な気分で読むことができる。 

 実は黒川さんの本には、いつでも、数学者の生誕年・没年、定理の論文への所収年、初出年、などが詳細に記載されている。これは黒川さんがその都度調べているのではなく、驚くべきことに、黒川さんの記憶から書いているのである(と思う)。なぜなら、ぼくが黒川さんとの共著『21世紀の新しい数学』技術評論社を対談で作ったとき、黒川さんがすらすらとこれらの年を記憶からたぐり寄せたのを目の当たりにしたからである。これは、黒川さんの驚くべき特殊能力(のひとつ)だと思う。

さて、「ちなんだ数学者」の中に一部に、アマチュア数学愛好家に馴染みのない数学者がいるので、本書での解説を少し紹介しておこう。

 エスターマン(ぼくは知らなかった)とは、ドイツ生まれの数学者で、フィールズ賞を受賞したロスの師匠らしい。エスターマンの発見した重要な結果とは、素数pに関する式(1-2/(pのs乗))を全素数について掛け合わせた一種の「オイラー積」が、複素平面全体には解析接続できない(つまり、複素数全体で定義された関数に拡張できない)ことを証明したことである。このことから、いわゆる「オイラー積によるゼータ関数」が複素数全体に解析接続できるのは当たり前のことではない、とわかる。黒川さんは、このエスターマンの結果を拡張して、位相群で解析接続不可能なオイラー積を構成したそうである。実におもしろい。

 井草凖一(ぼくは知らなかった)は、井草ゼータというのを構成した数学者である。京都大で博士号を得たあと、米国に渡り、ジョンズ・ホプキンス大学で教授職を長年勤めた。井草ゼータとは、整数上の代数的集合・スキームXに対して定義されるもので、「融合積」と相性が良く、「畳み込み」ができるらしい。

 本書は、ゼータ関数に関して、新鮮な順序で解説されている。何かの解説書(もちろん、黒川さんの本でも良い)でゼータ関数素数のことを一通り勉強した人も、本書を読むと、意外な発見や気づきがあるだろう。

 そればかりではなく、黒川さんが「リーマン予想」解決のカギ、最終兵器として研究を進めている「絶対数学」「絶対ゼータ」についても、新しい視座から理解が可能になるようになっている。だから、リーマン予想に興味がある人には必読の本なのである。

 黒川さんの本を読むと、「数学とはいろいろな技術や思想や世界観の融合物である」ということが実感される。数学の「人間味」が伝わるから、読んでいて楽しい。

 本書にはところどころに、黒川さんと著名数学者との交友の体験談も出てくる。それを読むと、数学者の人生を追体験できて、じーんと来る。

 

 

 

「現実」はすべて統計的

今回は、現代思想』の最新号「統計学/データサイエンス」で巻頭対談しているので、そのことを宣伝するとともに、少しだけ統計学についてエントリーしようと思う。

 対談は、生物統計学者の三中信宏先生と。対談内容は、統計学の理解の仕方から、その思想的背景、利用の限界まで多岐に及んで討議している。

ぼく自身は統計学者ではないし、経済学の中でも実証分析を専門としているわけではないので、統計学とは一定の隔たりがある。とは言っても、経済学の中の「意思決定理論」という分野を研究しており、なかでも「ベイジアン意思決定理論」の論文を書いているので、統計学と近接的ではある。

ぼくは経済学者の立場と数学科出身者の立場の両面から、統計学について批判的な議論を提示したのだけど、生物学を専門とする三中先生とは、ずいぶんと統計学に関する認識が違うな、というのが正直な感慨だった。この感覚は複雑で繊細なものなので、それについては対談を読んで感じ取ってほしい。

対談をするにあたってぼくは、準備として、三中先生の本を三冊読破した(いつも、対談をする際は、お相手の著作を勉強するように心掛けている)。三冊とも良書だったが、中でも、『統計思考の世界』技術評論社はすごく良い本だと思った。

この本は、統計学の手法を非常に手際よく、わかりやすく紹介している。正規分布を基礎とする通常の統計学だけでなく、ロジット回帰や、AIC(赤池情報量基準)など発展的な内容も簡潔に解説しているのでお勧めだ。

 さて、生物学はそれこそ生命現象を扱っているから、物理学とは大きく違うのだろうと思う。ぼく自身は、物理学が統計原理の最も成功的分野だと思っている。統計原理(統計思想)とは、最尤原理「最も起こりやすいことが実際に起きていると考える」というものだけど、統計力学はその原理を基礎にして理論を構築している(例えば、マックスウェル分布とか)。ぼく自身は、最尤原理を今でも受け入れることができない(あたりまえだと思えない)が、統計物理だけは信頼している。なぜなら、実験結果と整合的だからだ。もっと言うなら、「圧力」とか「温度」とか、そう言った物理量が、最尤原理と偶然に親和的だからうまくいくんじゃないか、というのがぼくの最近たどりついた認識である。(経済学や生物学など)他の分野で最尤原理を基礎にするのは、そういう親和性の検証が不可欠なんじゃないかと思う。その辺のことは、以下のエントリーで読んでほしい。

統計力学が初めてわかった! - hiroyukikojima’s blog

これは、友人の物理学者・加藤岳生さんの統計物理の教科書について紹介したものである。統計物理に入門するのに、最適な本だと今でも思う。

ゼロから学ぶ統計力学 (ゼロから学ぶシリーズ)

ゼロから学ぶ統計力学 (ゼロから学ぶシリーズ)

  • 作者:加藤 岳生
  • 発売日: 2013/03/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 さて、現代思想 統計学/データサイエンス』の号には、ぼくが大学院で講義を受けた二人の先生が寄稿しておられる。一人は竹村彰通先生で、「ウィズコロナ時代の統計学」を寄稿している。現在、テレビやネット上に渦巻くコロナの病理について、統計学者の立場から、明確な論評を与えている。もう一人は、松原望先生で、「今承認される『世界性の統計学』」を寄稿しておられる。松原先生は、ぼくにベイズ統計学を指南してくださり、最も影響を受けた師の一人だ。今回の寄稿は、主観確率」としてのベイズ統計学を、その成立の歴史から説き起こしている。創始者トーマス・ベイズ牧師のこと、ベイズの研究に日の目を見させる努力をしたプライスのこと、ベイズとは独立にベイズ理論を発見し、同時にベイズの仕事も発掘した数学者ラプラスのこと、一度は批判によって瀕死に陥ったベイズ理論を復興させたサベジのこと、サベジの継承者となったリンドリ―のことなど。次の文章は当時の雰囲気を浮き上がらさせている。

このようにして、東海岸から個人確率を根底にした「ベイジアンリバイバル」の烽火があがった。残念なことに、サベジの挑戦はやはり難しすぎてそのままでは受け継がれなかった。亡くなった71年、私は総じてアンチ・ベイズの西海岸スタンフォードに留学中であった。お隣の有名校バークレーはアンチ・ベイズの中心で、「サベジの理論はいいが、サベジは(個人的には)嫌いだ」という嘆息が聞こえてきた。スタンフォードはそれほどでもなく、しっかりした頻度論を教育する一方、ベイズ統計学には目配りはよかった。

ぼくは、今でも数学という学問が好きで、だから「演繹的推論」が興味の対象である。それだから、経済学の中でも、「選好公理系から効用関数を導出する」という分野の研究をしている。そういうのがすこぶる性に合うのである。

でも、「現実」というやつは明らかに「統計的」だ。前提のすべてが明らかでそれから数理論理的に結論が導出できる、なんて場面は全くない。ぼくらは、常に、「世界の一部だけを数値という形で見ている」にすぎない。そこから「現実」を推測するには、どうしたって、「帰納的推論」が必要になる。数理論理の外側での「論理のアクロバット」が不可欠なのだ。その立役者が統計学なのである。

 最後になるが、ぼくは「ネイマン・ピアソン統計学」の教科書と、「ベイズ統計学」の教科書と、両方を書いている(だから、対談に呼ばれたんだと思う)。せっかくだから、最後に推奨しておく(というか、これこそが狙い)。

完全独習 統計学入門

完全独習 統計学入門

  • 作者:小島 寛之
  • 発売日: 2006/09/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

完全独習 ベイズ統計学入門

完全独習 ベイズ統計学入門

 

 

 

 

オイラー素数生成式の思い出

今回は、「オイラー素数生成式」について、出会いと再会を書いてみたい。

その前に音楽の話を一つだけ。前回のエントリー、

ネコの物語が、こよなく好きだ - hiroyukikojima’s blog

で、最近、音楽ユニット・ヨルシカが好きだということを書いたが、そのヨルシカがリリースした最新アルバム「盗作」があまりにもすばらしいのだ。一曲一曲もすごいのだけど、全体が一つのストーリーになっていて、コンセプト・アルバムになっている、というのがぶっとびなのである。こんなバカなアルバムを聴いたのは、ぼくの経験では、ピンクフロイドの「アニマルズ」「ウォール」以来、久々だと思う。(他のプログレのバンドを無視するな、という声も聞こえてきそうだが無視する。笑)。

しかも、ぼくが購入した「盗作」初回限定版には小説とカセット・テープがおまけで付いている!現在、ぼくの家にはラジカセがないので、途方に暮れているところだ。なんてことするんだ!

ボカロPのn-bunaさんの楽曲もめちゃくちゃ斬新だが、ボーカルのsuisさんの声と歌唱力がすばらしい。よくよくみたら、「TK from凛として時雨」のお気に入りの最新アルバム「彩脳」にsuisさんがゲストで入ってた!気が付いてなかった。このアルバムも最高のアルバムだ。

 さて、本題に戻ろう。

オイラー素数生成式」とは、(xの2乗)+x+41、という2次式である。これは、xに0から39まで代入すると、連続して40個の素数を生成するとんでもない2次式だ。天才オイラーの発見だから、オイラーにしてはたいしたことではないかもしれないが、ほれぼれしてしまう。

ぼくがこの式に出会ったのは、中学生のときだった。何かの啓蒙書で知ったのだと思う。記憶はあいまいだが、たぶんぼくのことだから40個計算して、それらが素数であることをチェックしたのだろう。そして、そのみごとさに見惚れたことだろう。

x=40を代入すると素数にならない、ということは勘がいい人ならすぐわかる。(41でダメなのは勘が悪くてもわかる。笑)。なぜなら、(xの2乗)+x=x(x+1)からx=40なら、これが40×41となるからだ。つまり、x=40では素数にならないことは簡単にわかるが、それまではずっと素数が生成される、というのはめっちゃすごいことである。

オイラー素数生成式」と再会したのは、塾講師をしていた頃だった。数学オリンピックで、次のような問題が出題されたのを見たからだ。

(数学オリンピック 1987年キューバ大会) 

nを2以上の素数とする。

0≦k≦√(n/3)をみたす任意の整数kに対して、(kの2乗)+k+nが素数ならば、0≦k≦n-2の任意の整数kに対しても(kの2乗)+k+nは素数であることを示せ。

この問題を見たときは心底驚いた。これは、まさに「オイラー素数生成式」をテーマにする問題ではないか!しかも、この問題(定理)によれば、√(41/3)=√13.6・・=3.6・・だから、k=0, 1, 2, 3について素数が生成されることを確認すれば、k=39まで素数であることが保証される、というのだ。こんなことが初等的に証明できる、ということに思わずのけぞったのである(数学オリンピックの問題は、原則として、数1までの知識で解けるように作られている)。

もちろん、証明は常人に思いつくようなものではなかった。面倒なので概要で済ませるが、次のようなものである。

まず、もしも、0≦k≦n-2のkに対して素数でないものがあるとして、最初のそれをsとする(つまり、それまではすべて素数となると仮定される)。その上で、(sの2乗)+s+nの素因数で最小のものをpとする。この素数pに対して、0≦k≦s-1なるkに対する(kの2乗)+k+nが、素数pそのものになるかどうかを検討する。sがある程度大きいと、(すなわち、√(n/3)以上だと)、0≦k≦s-1なるkに対する(kの2乗)+k+nのどれかが素数pに一致する。しかし、このように、pの倍数が2回現れることは不可能なのだ。それは、(sの2乗)+s+n-{(kの2乗)+k+n}の因数分解からわかるのである。(詳しい、証明は、拙著『数学オリンピック問題に見る現代数学ブルーバックスを参照してほしい)。

いやあ、すごいことを思いつく人がいるものだな、と惚れ惚れしたものだった。

 ところが、最近になって、この「オイラー素数生成式」とまた再会したのである。

それは、最近読んでいた小野孝『数論序説』裳華房である。この本については、

高木貞治『初等整数論講義』の続きで読むべき数学書 - hiroyukikojima’s blog

で紹介したので、参照してほしい。

この本の最後のほうに、唐突に「オイラー素数生成式」が登場する。しかも、なんと!練習問題での登場だ。それは以下のような問題である。(表現をわかりやすく変更している)。

問題4.16(ラビノヴィッチ) 有理数虚数mを添加した虚2次体をkとし、m≠-1, -3とする。

lを、m≡2, 3(4)のときは-mと定義し、m≡1(4)のときは、(1-m)/4と定義する。

さらに、

P(x)を、m≡2, 3(4)のときは、(xの2乗)+l、と定義し、m≡1(4)のときは、

(xの2乗)+x+l、と定義する。このとき、次の2条件は同値である。

(i) P(x)が0≦x≦l-2なるすべてのxについて素数

(ii) 2次体kの類数が1である。

この問題でm=-163としたものが、「オイラー素数生成式」である。実際、-163≡1(4)だから、

l=(1-(-163))/4=41、となる。つまり、P(x)=(xの2乗)+x+41、となる。

この問題(ラビノヴィッチの定理)から、虚2次体Q(√-163)の類数(あとで説明する)が1であることを確かめれば、「オイラー素数生成式」が40個の素数を生成することがわかるのだ。そればかりではない。この問題(ラビノヴィッチの定理)から、次のこともわかる!

(xの2乗)+x+lという式で、オイラー素数生成式よりももっと多くの素数を連続して生成するものは存在せず、オイラー素数生成式が最良である。

なぜなら、虚2次体で類数が1のものは、Q(√-163)のあとにはないと証明されているからなのだ。

「ラビノヴィッチの定理」については、ネット上に多くの解説がころがっており、厳密な証明をアップしているものもあるので、ここでは証明を紹介することにこだわらないことにする。そこで、数学愛好家諸氏のために、「類数」の簡単な解説をすることに集中する。

 2次体というのは、有理数に√mを添加して作った体Q(√m)のことで(mは1以外の平方因子を持たない)、(有理数)+(有理数)√m、という形の数の集合である。ルート数√2を加えた場合は、√2と有理数とで作られる(中学生におなじみの)数世界となる。虚数単位√-1を加えて作った場合、複素数の中の、係数が有理数である(高校生におなじみの)数世界となる。前者が実2次体、後者が虚2次体である(2次体については、拙著『完全版 天才ガロアの発想力』技術評論社ガロア理論の観点から勉強してほしい)。

 2次体Q(√m)の中で「整数」にあたるものが定義される。これはmを4で割った余りで分類される。Q(√m)の「整数」は、mを4で割った余りが2, 3の場合は(整数)+(整数)√mであり、mを4で割った余りが1の場合は(整数)+(整数){(1+√m)/2}、である。前者は自然だけど、後者は不自然な形をしていて、なぜこうなるかには理屈がある(整閉という理屈)が、省略する。

 「整数」にあたるものが定義できたので、「約数」「倍数」を通常の整数の場合と同じに自然な形で定義できる。そうするとすぐに、「1の約数」について違いが出てくるのがわかる。通常の整数では、「1の約数」は±1の2つだけど、Q(√-1)では±1と±√-1, Q(√2)では(1-√2など)無限個になる。次に「素数」に対応する「既約元」が定義される。すなわち、「整数」aがa=bcと表されれば、bかcは「1の約数」になるものを「既約元」と決める。

 以上のような定義の下では、Q(√-1)や Q(√2)では「既約分解の一意性」が証明できる。これは通常の整数に対する「素因数分解の一意性」に対応するものだ。例えば、5は通常の整数世界では素数だが、Q(√-1)では既約分解できる。5=(1+2√-1)(1-2√-1)である。ここで、1+2√-1も1-2√-1もQ(√-1)世界での既約元(素数)にあたる。

 すべての2次体でこれが成り立てば、清純で平和な、しかし面白みのない数学になるが、実際はそうではなく、実に面白いことがわかった。それは、多くの2次体で「既約分解の一意性」が成り立たない、という事実だ。

 有名な例では、Q(√-5)では、6が2通りに既約分解される。実際、6=2×3=(1+√-5)(1-√-5)であるが、2も3も(1+√-5)も(1-√-5)も既約元で、これ以上分解されないのである。このことは、虚2次体に固有のことではなく、例えば実2次体Q(√10)でも生じる。

 このことは、通常の整数での素数が備えている二つの性質「既約元」「素元」が、2次体では分離されることを意味している。ちなみに「aが素元」であるとは、aがbcを割り切るなら、bかcを割り切ることを言う。通常の整数の場合は、「既約元」は必ず「素元」で、その逆も成り立つ。しかし、Q(√-5)では、上で見たように、2は(1+√-5)(1-√-5)を割り切るけど、(1+√-5)も(1-√-5)も割り切らないから、2は既約元だが素元ではない。このズレが、2次体の数論をめっちゃ豊かで面白くする源泉なのだ。

 さて、このズレを解消して、清純さを取り戻すために編み出されたのが、「イデアル」というツールだ。イデアルとは、Q(√m)の整数から成る部分集合Iで、次の2条件を満たすものである。

(i)  x,yIの要素なら、 x±yもそう。(ii)  xIの要素なら、 xの「Q(√m)での倍数」もそう。

(イデアルのもっと詳しい解説は、拙著『数学は世界をこう見る』PHP新書を読んで欲しい)。イデアルは、通常の整数の世界では、単なる「あるaの倍数の集合」となって、「倍数」概念と一致してしまうが、2次体の世界では「倍数」概念とのズレが生じる。例えば、Q(√-5)の整数世界では、

P={(2の倍数と(1+√-5)の倍数との和}と決めると、これはイデアルではあるが、「あるaの倍数の集合」とはならない。つまり、イデアルは倍数の拡張概念ではあるものの、2次体においては、「単なる倍数ではない場合」が生じるのである。

そこで、

イデアルQ={(3の倍数と(1+√-5)の倍数との和},

イデアルR={(3の倍数と(-1+√-5)の倍数との和}

と定義すると、(イデアル同士に適切な積を定義することで)、

(2の倍数の作るイデアル)=(Pの2乗),  (3の倍数の作るイデアル)=QR

(1+√-5の倍数の作るイデアル)=PQ,  (1-√-5の倍数の作るイデアル)=PR,  

となって、6=2×3=(1+√-5)(1-√-5)のもっと細かい分解が可能となる。そう、

6=(Pの2乗)(QR)=(PQ)(PR)

という形で、「分解の一意性」が回復されるわけである。

 長い道のりを進んできたが、やっと、「類数」にたどり着いた。

以上のように、ある2次体では、単なる倍数集合とは異なるイデアル(上記、P, Q, Rのようなイデアル)があることがわかったが、それらの中で「本質的に異なるものが何種類あるか」を問題としてみよう。

Q(√-5)では、(2の倍数の作るイデアル)や(1+√-5の倍数の作るイデアル)という自然なイデアル(単項イデアルと呼ばれる)のほかに、P, Q, Rのような「単項イデアルでないイデアル」がある。注目したいのは、このような「単項イデアルでないイデアル」で本質的に異なるものがどのくらいあるか、ということだ。

たとえば、さきほどのP, Qでは、αP=Qを満たすQ(√-5)の要素αが存在する(α=(1+√-5)/2)。したがって、P, Qは「本質的には異ならない」と見なせる。実は、Q(√-5)のいかなるイデアルも、単項イデアルであるか、Pと「本質的には異ならない」イデアルであることが示せる。そこで、Q(√-5)のイデアルの本質的に異なる種類は2種類であると考える。この「種類の数」を「類数」というのである。「Q(√-5)の類数は2」ということになる。

類数の観点から言うと、「類数が1」ということは、「イデアルが単項イデアルだけ」ということであり、「既約分解の一意性が成り立つ」単純な数世界ということになる。「ラビノヴィッチの定理」が述べていることは、素数生成式が可能であること」と「類数が1である単純な虚2次体であること」が一致する、ということなのだ。オイラーはこういう背景をうすうす直感していたのであろうか。

 「ラビノヴィッチの定理」の証明は、冒頭に述べた通りネット上にあるので、そちらを参考にしてほしい。おおざっぱに言えば、次のようになる。

任意の2次体の類数は有限である」ことは証明されており、その上限もミンコフスキーが不等式で与えている。なので、比較的小さい(有理)素数に対して、その素イデアル分解を調べれば類数を決定することができる。l-2はその上限に対して、十分に余裕があるのである。したがって、類数が2以上であれば、単項イデアルでない素イデアルがl-2より小さいxの P(x)に対する(有理)素数の素イデアル分解に現れるのである。

 この証明を見ていると、前半に述べた数学オリンピックの問題の解答と非常に似ている気もする。ひょっとすると、数学オリンピックの問題は、「ラビノヴィッチの定理」の証明を初等的に焼き直したものなのかもしれない。

実際、虚2次体Q(√m)の場合、先ほど述べたミンコフスキーの上限は、√(|判別式|/3)である(ここで判別式は、mが4で割って余り2, 3の場合は4m, 余り1の場合はm)。この上限は、数学オリンピックの仮定ととても似ている。もしかしたら背景にあるのは、「0≦k≦√(n/3)をみたす任意の整数kに対して、(kの2乗)+k+nが素数」→「ミンコフスキーの上限まで、素数の単項イデアルが素イデアル)→(類数が1)→「0≦k≦n-2の任意の整数kに対しても(kの2乗)+k+nは素数」という経路なのかもしれない、とふと今思いついた。(にわか仕込みなので、まだちゃんと突き詰めてはいない。笑)

 

 

 

 

 

 

 

ネコの物語が、こよなく好きだ

今回は、いつもと趣向を変えて、ネコにまつわる物語のことをエントリーしようと思う。どうしてそんなことを思い立ったかというと、ネットフリックス配信のアニメ『泣きたい私はネコをかぶる』を最近、観たからだ。

映画「泣きたい私は猫をかぶる」公式サイト|Netflixにて全世界独占配信中!

この映画を観たのは、そもそもは「ヨルシカ」という音楽ユニットの曲を聴いたのがきっかけだった。ヨルシカの曲はあまりにすばらしく、久しぶりにぞっこんになってしまった。

まずは、「花に亡霊」↓

https://www.youtube.com/watch?v=9lVPAWLWtWc

この曲は、アニメのテーマ曲で、PVがアニメの宣伝にもなっている。めちゃくちゃ良いPVなのでこれだけでも観る価値がある。是非、観てほしい。きっとアニメも観たくなると思う。

もう一曲は劇中歌で、「夜行」という曲↓

https://www.youtube.com/watch?v=MH5noJJfqDY

この曲も、めちゃめちゃ良い。なんか、子供の頃特有の不安感と高揚感を思い出してホロっとなる。

 なぜ、ヨルシカの曲がそんなに衝撃なのか。それは、曲の出来の良さや女性ボーカリストの声と歌唱技術もさることながら、とにかく歌詞がぐっとくるのだ。こういう歌詞は今まで、あるようでなかったと思う。単なるおじさん殺しの曲なのかもしれないけどさ。

 アニメ『泣きたい私はネコをかぶる』は、かぶるとネコになることができる仮面を使って、ネコになる女の子の物語だ。ネコになって、恋心を抱く男子に会いにいくのだ。人間のままだと素直になれない主人公だが、ネコになれば男子と素直にコミュニケーションできる。男子の心に寄り添うことができる。でも、ネコのままでは人間の言葉を話せないから、彼女の気持ちを伝えることはかなわないのである。

 アニメ『泣きたい私はネコをかぶる』には、新海アニメ(の中の『君の名は。』『天気の子』)のような派手さはない。また、宮崎アニメのようなダイナミックで思想的な深みもない。どちらかと言うと、テーマが(家庭問題とか)今風な卑近さで、ちんまりした話になっている。まあ、それはそれでとても楽しめるんだけどね。とにかく、なんと言ってもネコたちがかわいくて、それでもう、すべて許せてしまうのだ(笑)。

 驚くのは、新海アニメもそうだけど、このアニメも、宮崎アニメの洗礼を受けているように思われることだ。もちろん、これはぼくの個人的印象にすぎないけど、随所のシーンの絵コンテに宮崎駿さんの生み出したイメージが感じられる。やはり、宮崎駿さんは天才なんだと思う。

 ネコの物語のアニメと言って他に思い出すのは、アニメ『銀河鉄道の夜だ。

銀河鉄道の夜 [Blu-ray]

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  • 発売日: 2014/05/30
  • メディア: Blu-ray
 

 これは、ご存知、宮沢賢治銀河鉄道の夜』のアニメ化なのだけど、ポイントになるのは、登場人物をネコにして擬人化したことだ。絵は、ますむらひろしさんの漫画を原案にしている。そのおかげで、あの悲惨な物語(とぼくは思っている)がいくぶん緩和され、幻想味の中でやんわり鑑賞できるようになっている。細野晴臣さんの音楽もすばらしく、さめざめと切ない映画に仕上がっている。このアニメも名作だと思う。

 もう一つ、忘れられないネコの物語は、劇団唐組の演劇『さすらいのジェニー』だ。これは、1988年に唐十郎の作・演出で上演された舞台劇。原作は、ポール・ギャリコの小説である。ギャリコは、映画化された『ポセイドン・アドベンチャー』で有名だ。

 劇団唐組『さすらいのジェニー』は、浅草の川沿いの隅田公園に小屋を建てて上演された。記憶では、芝居小屋を設計したのは建築家の安藤忠雄さんだった。金属の棒のようなものを縦横無尽に組み上げたへんてこな劇場だった。舞台には水路のようなものがあり、船で流れながら物語が演じられる、というすごい仕掛けだった。まあ、水を利用するのは、唐さんの十八番なのだけどね。そして、ジェニーを演じる主演は緑魔子さんだった。

 ぼくが最初に観に行った日は、緑魔子さんが喉を壊したため、休演となってしまった。しかし唐さんは、せっかくがんばって並んでチケットを買ったぼくらに粋なはからいをしてくれたのだ。それは、緑魔子さんの登場シーンまでを無料で見せてくれる、というはからいだった。水路の向こうの舞台の扉が、ばーん、と開くと、そこにネコのジェニーにふんする魔子さまが立っている、というまさにそのシーンまでみせてくれたのだった。

 ぼくはどうしても演劇全体を観たい気持ちにかられて、別日に再度並んで当日券をゲットした。その日は、あいにくの雨で、金属の棒で組まれた小屋は雨音の反響で台詞が聴きづらく、さらには金属が冷たくて、ものすごい逆境の中で最後まで観劇をしたのだった。それでも、切ない切ないネコたちの物語に、ぼくらはさめざめ感動したのだった。(実は、今年、唐組はこれを再演したらしい!)

 最後にもう一つだけネコの物語を紹介したい。

 そう、ぼくの書いたネコの物語だ。(実は、これを書くのが、このエントリーの真の目的なのだ。笑)。それは、『夜の町はネコたちのもの』という児童小説である。この小説は、拙著『ナゾ解き算数事件ノート』技術評論社という短編集に収録されている。

ナゾ解き算数事件ノート (すうがくと友だちになる物語2)

ナゾ解き算数事件ノート (すうがくと友だちになる物語2)

 

 この本は、「パラドクス探偵団シリーズ」という、パラドクスに遭遇して成長していく子供たちの物語の短編集なのだが、最後に一篇だけ別の物語が付録として収録されている。それが、『夜の町はネコたちのもの』なのである。これはもともとは、『中学への算数』東京出版という(中学受験を目指す)小学生のための雑誌に連載したものだった。

 これは、政治家や役人が権力を使って悪事を働いていることに、一匹のネコが気づき、それを暴く物語だ。推理小説仕立てになっており、数学のある著名な定理が解決の糸口を与えることになる。もったいないのでネタばれしないから(笑い)、是非とも、ご購入の上、お読みいただきたい。

 実はこの物語は、亡くなった愛猫に捧げるために書いたものだった。ぼくは、20代の10年弱の間、一匹の雑種ネコと暮らした。そのネコは、ぼくの兄弟姉妹がどっかからもらってきたネコで、アパートの大家に見つかったため、数日だけ預かってくれと置いていったものだった。数日預かったら、情が移って、ずっと飼うことになった。思えば、最初からそれを見込んで置いていったのだと思う。そのネコは、あまり人に馴れず、かみついたり引っかいたりする乱暴なやつだったが、それでも主であるぼくには全幅の信頼を持っていてくれた。だから、亡くなったときはあまりのショックで、ぼくは体調を崩してしまうほど落ち込んだのだった。そのネコへの弔いとして書き上げたのが、この『夜の町はネコたちのもの』なのである。もう30年も昔のことなのだけど、いまだに、そのネコの夢を見て、起きて涙ぐむことがある。

ルート数のダンジョン、横から見るか、上から見るか。

 ずいぶん、間があいてしまったが、今回は「2次体の数論」の話、もっと簡潔に言えば、ルート数の魅力的な世界についてエントリーしようと思う。

 その前に、音楽の話をちょっとだけ。

ぼくが、Tricotという日本のバンドを好きなことは何回も書いてきた。例えば、直近では、次のエントリーだ。

Tricotの無観客ライブは、本当にすばらしかった。 - hiroyukikojima’s blog

そのTricotは今週にも、オンライン有料ライブ(課金+投げ銭)「猿芝居vol.2」を実施した。こっれがまた、すっばらしいライブで、感動しまくった。今回は、ファンからのリクエストの上位10曲を演奏する、というすばらしい企画。さすがTricotファン、リクエストの投票がめっちゃマニアックで、的を射ていた。すべてぼくの聴きたい曲だった。たった一つ残念だったのは、ぼくが最も好きで、一度もライブで聴いたことのない「42°C」が選ばれなかったこと。ぼくが投票しなかったのは、きっとみんなが投票してくれると信じていたからだ。笑

 新型コロナは、世界をいろいろ変えてしまったと思う。大部分は、「やもうえない変化」「悪い方向の変化」だけど、ごく少数だが、「良い変化」「必然的な変化」「気づきをもたらす変化」があったと思う。

 Tricotの無観客オンライン・ライブはその一つ。彼らのライブはだいたい、スタンディングのライブハウスで行われており、ぼくのような老人には正直きつい。さらに、背も低いので、ステージが見えず二重苦だった。それが、オンライン・ライブだと、疲れず、感染の危険もなく、好きな時間に安全に、ステージ上をまるごと観ることができる。こんなすばらしいことはないと思う。Tricotは、新型コロナ収束後も、是非、これを続けてほしい。

 もう一つ。ぼくの大学ではオンライン講義が実施されているが(少人数は対面)、オンライン講義のほうが勉強しやすい学生がかなり多くいる、ということが明らかになった。音声を何度でも聴くことができるし、掲示板での質問は敷居が低いし、オンラインでの確認テストは何回でも入力できる(ように設定している)から、納得するまで勉強できる。大学での講義様式も、きっと、新型コロナ後に変化していくのだろう。

 さて、本題に入ろう。

今回は、「2次体の数論」の本を紹介する。ネタ本は、山本芳彦『数論入門』岩波書店である。現在、この本を精読している理由は、雑誌『高校への数学』東京出版の今年度の連載で「ルート数の冒険」と称して、2次体の魅力を中学生たちに布教しているからである。(興味ある人は是非、連載を読んでほしい)。

 

数論入門 (現代数学への入門)

数論入門 (現代数学への入門)

  • 作者:山本 芳彦
  • 発売日: 2003/11/11
  • メディア: 単行本
 

 この本は、数論全般を扱っているが、「2次体の数論」に多くのページを費やしている。

 2次体というのは、mを平方数でない(正負の)整数とするとき、「(有理数)+(有理数)√m」という形の数の集合(ℚ(√m)と記す)のことをいう。このような数に対する整数論を展開するのである。

 この本の最も大きな特徴は、「(有理数)+(有理数)√m」の中で、「(整数)+(整数)√m」という集合の持つ数論的性質を詳しく調べていることだ。本書では、この集合「(整数)+(整数)√m」を整域ℤ[√m]と呼んでいる。

  整域ℤ[√m]は(有理)整数と類似した世界として扱うことができる。例えば、ℤ[√m]において「a+b√mがc+d√mの倍数である」ということを、「(a+b√m)=(c+d√m)(x+y√m)となるℤ[√m]の要素x+y√mが存在する」と定義すれば、倍数・約数の概念を定義することができる。そうすれば、「素数」にあたる概念も導入することができるようになる。ただし、(有理)整数の世界では、素数pは「pがこれ以上、(1以外の数で)積に分解できないこと」と「pがabを割り切るなら、aまたはbを割り切る」と両方の性質を持っているが、整域ℤ[√m]ではこれを区別しないとならない。すなわち、前者を「既約元」、後者を「素元」と呼び、一般には異なるのである。後者のほうが大事であり、後者が素数に対応する。(後者ならば前者、は必ず成り立つ)。

 2次体の数論で最も面白いところは、前者と後者のずれが起きることなのだ。

例えば、m=2のときの整域ℤ[√2]では前者と後者が一致する。したがって、既約元たちの積への分解について「既約分解の一意性」(素因数分解の一意性に対応する性質)が成り立つ。他方、m=10のときの整域ℤ[√10]では、前者と後者は一致しないので、「既約分解の一意性」が成り立たない。

 整域ℤ[√m]という「(整数)+(整数)√m」タイプの数の代数世界は、中学生にもなじみの深いものだ。これが、(有理)整数世界と似ている部分を持ちながら、違う正体、異なる顔も持っている。これはとても深淵なことではないか!

 山本芳彦『数論入門』の優れている点は、まさに、この整域ℤ[√m]をダイレクトに扱っていることだ。通常の数論の本では、整域ℤ[√m]ではなく、「2次体ℚ(√m)の整数環」というのを解説する。これは、ℚ(√m)の中の数で、(xの2乗)+ax+b=0(a, bは整数)という2次方程式の解となる数の集合のことだ。したがって、「(整数)+(整数)√m」だけではなく、「(有理数)+(有理数)√m」のタイプの数も一部混じることになる。例えば、(xの2乗)+x+1=0の解は、(-1+√-3)/2なので、これは「2次体ℚ(√-3)の整数環」の「整数」となる。このような集合を考えるのには必然性があるのだけど、(素イデアル分解の話につなげる必然性)、素人しては、やはり素朴な整域ℤ[√m]での数の振舞いを先に見ておきたい。この本は、それをやってみせてくれる稀有な本なのである。非常に簡単な工夫だが、これまでこういうことをやった数論の本はぼくは知らない。

 この本での整域ℤ[√m]に関するアプローチは、おおざっぱにまとめると、次のようなものだ。(m=3を例に説明する)

 (1) 素数pが「(xの2乗)-3(yの2乗)」という形式で表されるのは、どんなときか? (2次形式)

 (2) 3が素数pを法として平方剰余となる(3が平方数と合同になる)のは、どんなpか? (平方剰余相互の法則)

 (3) 整域ℤ[√3]の集合で、(有理)素数pが素元になるのはどんなときか? (素元分解整域)

この3つは、相互に緊密な関係を持ち、同じ根っこを持った問題なのである。これは、数論の本領であり、実にエキサイティングなことだと思う。それを、深い理論を使わずに、非常に初等的に証明するのが、この本の面目躍如なところだ。また、豊富な例と具体的な計算が投入されているのも他書に差をつけている。

 ただ、以上のことはこの本の欠点にもなっている。

なぜなら、通常の代数的整数論の本で必ず解説されている「イデアルの包含関係は、約数・倍数関係」や、「素イデアル分解の一意性」や、2次体の類数についての「ミンコフスキーの公式」など、重要な定理が証明なしで掲載され、それを前提に解説が進むことである。これらを証明するには紙数が足りなかったのだろう。また、どうやったって、初等的では済まなかったからなのだろう。

 この点を補うには、以前に

高木貞治『初等整数論講義』の続きで読むべき数学書 - hiroyukikojima’s blog

で紹介した、小野孝『数論序説』裳華房が最適であろうと思う。

 この本は、上記のエントリーで書いた通り、代数的整数論の解説書として最も優れた構築をしている本だと思う。「2次体の整数環」についての諸性質を示す場合にも、もっと広い「代数体」全体の性質を見たほうが近道なのだ。例えば、「イデアルの包含関係は、約数・倍数関係」とか、「素イデアル分解の一意性」とかは、この本ではガロア理論を援用して、非常に鮮やかに証明されている。したがって、山本版で省略されている証明を知りたかったから、小野版にあたるのがいいと思う。

 山本芳彦『数論入門』は、ルート数のダンジョンという魅力的な世界を、横から見て、楽しく冒険する本である。他方、小野孝『数論序説』は、そのダンジョンを高見(代数体のガロア理論)から俯瞰して、ダンジョンの構造をまるっと掌握する本である。どちらが好きかは、好みと知識のあり方に依存するだろう。

 山本芳彦『数論入門』の奥付によると、この本は2003年に刊行され、山本先生は翌年の2004年に亡くなっている。覚悟の上で書いたのなら良いが、そうでないなら、この本の行く末を見届けずに他界したことはさぞ無念であったろう。(合掌)。

 

数論序説

数論序説

  • 作者:小野 孝
  • 発売日: 1987/01/25
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

 

世界は素数でできている (角川新書)

世界は素数でできている (角川新書)