今回は、前回に予告した通り小野善康『資本主義の方程式 経済停滞と格差拡大の謎を解く』中公新書の紹介をしよう。一回ではまとめきれないので、何回かに分けて紹介するつもりだ。
この本は、タイトルの通り、たった一つの基本方程式で、資本主義の二つの状態「成長経済」「成熟経済」における経済メカニズムのあり方の違いをはっきり区別するものである。端的にまとめれば、「成長経済」と「成熟経済」は、正反対の様相を持ち、したがって、経済政策の効果は真逆になる、ということである。日本の政治家(および指南役の経済学者やエコノミスト)はずっと、「成長経済」での景気後退に効く政策から頭が離れず、それを「成熟経済」に対して実施してきたので、日本経済は迷走を続けている、というのが小野さんのメインの主張だ。
小野さんはこれまで、不況動学の本を何冊も書いてきた。それらの専門書・解説書に比べて本書の新しい点はどこか、を最初に箇条書きでまとめておく。
(A) 動学モデルの基本方程式を、最新型に刷新し、しかも今までよりずっとわかりやすい形式で、提示している。
(B) 「貨幣選好」だけでなく、新しく「資産選好」を加えたため、ゼロ金利、資産バブルを説明できるようになっている。
(C) 既存のマクロ経済理論の簡潔にして明瞭なサーベイが提示されている。
(D) 旧ケインズ経済学(IS-LM分析)の「消費関数」のどこが間違いかをはっきりさせ、「新消費関数」を提示している。ついでにMMTのダメな点も指摘している。
(E) あらゆる景気刺激策に対して、その効果の善し悪しを理論的に評価している。
(F) 不況下での格差拡大のメカニズムを理論的に解明している。
(G) 国際経済への応用も示し、マンデル・フレミングの間違いを正し、新理論を提示している。
(H) 基本方程式から、資本主義社会のあるべき姿を提唱している。
( I ) 随所に適切な実証データが投入されている。
今回は、以上のうち、(A)と(B)について紹介しようと思う。
まず、小野さんが提出している「資本主義の基本方程式」とは、以下である。
where
記号の説明をすると、左辺の、、はそれぞれ実質消費量、実質貨幣量、実質資産量。(文字は、consumption、money、assetに由来)。ここで「実質」とは、物価で割った値であることを意味する言葉。例えば、消費に使う金額を、物価をとすれば、実質消費量は、となる。右辺のは「インフレ率」(物価の変化率)で、は「時間選好率」。「時間選好率」とは、「今の消費を我慢することによる不満分をちょうど補うだけの将来の消費増分」のこと。経済学では、「今1万円もらって消費をするのと、1年後に1万円もらって消費をするのとでは、今の方を好む」とされていて、「今1万円もらって消費をするのと、1年後に1.2万円もらって消費をするのとなら、どっちでも良い」となる場合の増加分0.2を時間選好率と呼んでいる。
その上で、とは、「資産プレミアム」と呼ばれる量で、「資産を一定期間1円を多く保有することで生まれる付加的な満足度と同等の満足度を、モノの消費を今増やすことによって得るには、どのくらいの額が必要か」という量を表す。大事なことは、「消費の金額」の単位で表されている、ということ。(本書では省略されているが、もっと経済学的な説明を、ミクロ経済学の知識がある人に向けて最後の補足で説明する)。
さらに、は、「流動性プレミアム」と呼ばれる量で、「貨幣を1円多く持つことによる取引の便利さからの満足度と同じ水準の満足度を消費によって得るには、消費をいくら増やせばよいか」を表す。貨幣は、「いつでもその額面の何とでも交換できる」という利便性を備えた財であり、「その利便性の満足を消費から得るなら」という量が「流動性プレミアム」なのである。
whereのあとで説明しているのは、インフレ率がどう決まっているか。もちろん、方程式の中のを置き換えてもいいが、わかりやすさのために分離しておいた。この式において、は供給能力。すなわち、全資本と全労働者をフル稼働するとどのくらいの生産物ができるかを表す。一方、は総需要で、人々がどのくらいの量の生産物を欲しているかを表す。したがって、whereのあとの式は、「インフレ率が総需要量と供給能力との乖離(超過需要率)に比例する」という仮定を表している。比例定数は、物価調整の効率性を表す。
基本方程式が成り立つのは、左辺が貯蓄1円増(資産1円増)の総便益を表し、右辺が貯蓄のコストを表すからである。右辺のは消費を将来に回すときのご褒美分を意味し、がインフレによる消費の値上がり分を表すから、貯蓄の総便益はこの和をぴったり補わなければならない。それがこの方程式の意味である。
ここで、本書は、資産保有と貨幣保有の関係について次のように説明する。すなわち、収益資産1円増の総便益は、利子と資産プレミアムの和となる。他方、貨幣1円増の総便益はとなる(貨幣保有は資産保有もかねていることに注意せよ)。この二つの総便益は等しくならなければならない。なぜなら、資産保有の総便益が上回るなら、保有している貨幣を1円資産に回せば総便益の和が増加するからだ。逆の場合もしかり。よって、が成り立ち、したがって、となる。言葉で言えば、「流動性プレミアムは利子率と等しい」ということだ。
基本方程式を土台にして、小野さんは「成長経済」と「成熟経済」を分類する。
まず、成長経済とは、生産能力がまだ低く、そのため人々の消費水準も低く、消費増大意欲の強い経済のことだ。金融資産も少ない。この経済において、仮に人々が貯蓄を優先して消費を抑え、モノの総需要が生産能力に届かない乖離が起きたらどうなるか。総需要が供給能力より小さくなるので、人手が余り、物価の下落(whereの式でインフレ率が負、つまりデフレ)が起きる。すると、実質資産量も実質貨幣量も増大する(物価で割った量だから)。これは基本方程式の左辺が小さくなることを意味するので、右辺「貯蓄のコスト」(=消費の便益)が相対的に大きくなり、人々は消費を増やすように行動する。これでが増加していき、すぐに生産能力を実現する。こうなると、インフレ率は0となり(whereの式)、経済は動かなくなり、完全雇用に復帰する。他の調整については本書で読んで欲しいが、要するに、物価の変化によって、実質資産量と実質貨幣量が柔軟に変化し、消費と貯蓄が自動調整される、ということなのだ。だから放っておいても経済は安定する。
他方、生産能力も消費も十分に大きくなった「成熟経済」では、これと異なる様相が生じる。それは、小野さんの仮定「資産プレミアムは、同じ消費に対して資産の増加によって小さくなっていくが、資産も消費も十分大きい場合、同じ消費に対して資産の増加による資産プレミアムの低下は止まり、一定量以下には下がらなくなる」に依存する。専門用語では「限界効用の非飽和性」、ひらたく言えば、「底なし沼のような金持ち願望」ということだ。これが理論のキモとなる。つまり、資産プレミアムが資産量増加に無反応になる、ということだ。こうなると、上の「成長経済」のところで述べた自動調整機能が働かなくなる。総需要が生産能力を下回り、デフレが起き、資産量と貨幣量の増大が起きても、資産プレミアムが資産量に無反応になるので、消費は刺激されず、貯蓄にいそしむだけになる。したがって、需要不足はいつまでたっても解消されず、長期不況が到来する。
今の説明において、流動性プレミアムのほうはどうなっているのか?ここが、最初に述べた(B) の点である。要するに「ゼロ金利」のメカニズムなのである。すなわち、(実質)貨幣量が増加するに従って、流動性プレミアムは減少する。貨幣量が限度を超えて増加すれば、流動性プレミアムはゼロに収斂する。すると上のほうで説明した等式から、利子率もゼロとなる。これがゼロ金利である。したがって、デフレによる貨幣量の増大も基本方程式の左辺に変化を与えないのである。まとめると、資産量も消費量も十分に大きくなった成熟経済の基本方程式は、となる。
リーマンショックが起きたあと、リフレ政策がとりざたされ、同時に小野さんの不況動学も話題になった。そのとき、小野さんの当時の本では貨幣保有の便益だけを扱っていたため、「利子率=貨幣保有の便益」という等式となっており、「貨幣保有の便益の非飽和性」から不況を説明していた。これに対して、「利子率=貨幣保有の便益>0」となって「ゼロ金利じゃないじゃん、現実に合わないじゃん」という批判がなされた。小野さんは当時から資産プレミアムと流動性プレミアムと両方考えていたが、簡便性の目的で本には後者だけを要として説明していたために浴びてしまった批判だった(とぼくは思っている)。そこで今回、小野さんは、ゼロ金利を説明すべく、資産プレミアムと流動性プレミアムを区別して導入したのであろう。
長くなってしまったので、(D)、(F)、(G)については次回以降に紹介することにする。
(ミクロ経済学の心得のある人向けの補足)
資産プレミアム「資産を一定期間1円を多く保有することで生まれる付加的な満足度と同等の満足度を、モノの消費を今増やすことによって得るには、どのくらいの額が必要か」とは、要するに、、のこと。ここで、は消費の効用関数で、は資産保有の効用関数。以前の小野さんの本ではこう提示されていた。なぜ、これが上の説明になるのか。
まず、関数のが微少量だけ増えてになったときの関数値の増分が、近似的にであることを思い出そう(テイラー展開)。これを念頭に置き、とが実質値であることに注意すれば、消費を円分だけ増加させたときの効用の増加は、。これはまさに「1円資産を増やしたときの付加的な満足度」になっている。