国際経済の方程式

 まず最初に、ぼくが登壇予定のシンポジウムの宣伝をしよう。

 

『社会的共通資本と未来』寄附研究部門開講記念シンポジウム    

(タイトル)社会的共通資本のあり方とその未来を考える

(開催概要)2022年7月23日土曜日 13~17時

(開催場所) 京都大学稲盛財団記念館 および オンライン 

 

これは、今年、京都大学に創設された宇沢先生の社会的共通資本の理論に関する寄付講座の開講記念のシンポジウム。詳しいことは、プログラムと聴講の申し込み方法が確定したらここにエントリーしたいと思う。ふるってご参加いただきたい。 

 さて今回は、以前のエントリー、資本主義の方程式およびケインズ消費関数のどこが間違いかに続いて、再度、小野善康『資本主義の方程式』中公新書を紹介したい。したがって、これを読む前に、リンクを貼った2つのエントリーを読んでおいてほしい。

小野さんのこの本の大きなウリは、国際経済学の解説が導入されていることだ。小野さんは、これまでも数冊、国際経済学の解説書を上梓してきたけど(例えば、『景気と国際金融』岩波新書)、不況理論の方程式として国際経済バージョンの方程式を提供したのは初めてじゃないかと思う。

本書における小野さんの解説はおおまかには次の3点である。

1. 国際経済でも、基本方程式が小さな修正で成り立つ

2. 成長経済と成熟経済では、成長戦略や経済政策の効果が真逆になる

3. 普及している旧ケインズ経済学のマンデル・フレミング・モデルは根本的に間違っている

 今、日本の世の中ではインフレが取り沙汰されており、連日、テレビで取りあげられ、日銀の金融政策がやり玉にあがっている。1~3について説明する前にまず、この点に関連する小野さんの記述を引用することにしよう。曰く。

成熟経済では、資産選好が消費選好よりも強くなっているため、貨幣供給量が増えても人々は資産を貯めるだけであり、モノの購入を増やそうとはしない。そのため、金融緩和は物価にも経常収支にも何の影響も与えず、円安圧力も生まれない。このような成熟経済での金融緩和の無効性は、第3章で議論した閉鎖経済での結論とも整合的である。

(ちなみに、閉鎖経済とは、貿易を考えない鎖国状態の経済のこと。他方、開放経済が貿易のある経済)。テレビニュースでは、「アメリカの金利が高く、日本の金利が低いため、その金利差から円安になって行く」ってなことをエコノミストがこれみよがしに解説しているけど、小野さんが「それは嘘だぜ」ということを書いている、為替についての説明も引用しよう。

開放経済における景気の動きを考えるとき、為替レートの絶対水準(1ドルが何円か)と変化率(年率何%で変化するか)の働きをはっきり区別する必要がある。(中略)。

為替レートの変化率は、国内資産と外国資産との利子率の違いを埋めるものである。開放経済では、国内外の金融資産を自由に選択できるため、両者の利子率に違いがあれば、不利な資産を有利な資産に交換しようとして、巨額の資産がすぐに動き出す。いま、ドル建て債券の円換算での利子率を考えると、それは、ドル建ての利子率とドル円交換レート(1ドル何円)の変化率(1ドルが円換算で年率何%上がっていくか)の合計となる。この値が、世界中の投資家の資産選択行動によって、円建て債券の円建ての利子率と一致するように、為替レートの変化率が決まる。つまり、為替レートの変化率は、2つの通貨建て利子率の差をカバーしている。

これは小野さんの個人的主張ではなく、国際経済学の教科書なら必ず書いてあるロジックだ。このロジックを現状にあてはめるなら、「今現在、アメリカの金利が高く日本の金利が低いから、これから円安になっていく」というのは間違いということになる。なぜなら、円で貯蓄すると金利が低くおまけに円安になって減価するというのが本当なら、誰も円など保有しなくなる。それでは円を売ってドルを買いたい人に対して円をドルで買ってあげる人など誰もいなくなるはず。それでは為替取引が成立しない。円をドルで買う人がちゃんと存在するのは、「これから円が高くなる」と推論している人が(逆の推論の人と同数)いるからに他ならない。そういう意味で、均衡では、円保有はドル保有と無差別になるということなのだ。

 さて、それでは国際経済の基本方程式を紹介しよう。そのためにまず、「国民所得と総需要の関係式」を作る必要がある。それは、

 経常収支=rb^*+y-(c+g+i)=0

という式だ。ここで、b^*は対外純資産を表す(外国人が日本の資産を保有している分はマイナスとカウントする)。したがって、それに実質利子率rを掛けたrb^*が「所得収支」になる(利子・配当純取引)。一方、y国内総生産c+g+iは消費需要cと政府需要gと投資需要iの和であり総需要にあたる。したがって、y-(c+g+i)は貿易収支(輸出-輸入)にあたる。この値がプラスなら、生産物から総需要を取り除いても余りが出るから、それは輸出が輸入を超過する分になり、マイナスなら逆になる。

小野さんは、この式を「経常収支=0」という等式にしている。それは、経常収支がプラス(黒字)なら、円高の方向に為替レートの調整が生じ、経常収支が0になるまでそれが続くからである。つまり、この式は、瞬間瞬間で成り立つものではなく、為替レートの調整後の「市場均衡」下で成り立つ式ということだ。この等式から、結局、

 y=c+g+i-rb^*

という等式が導かれる。その上で、基本方程式は閉鎖経済の場合と同じで、

\bar{\delta}(c)=\rho+\pi where \pi=\alpha(\frac{y-y^f}{y^f})

となる。詳しくは、資本主義の方程式のエントリーを参照してほしいが、\rhoは「時間選好率」(消費を先延ばしにするときのご褒美分)、 \piは「インフレ率」。そして、\bar{\delta}(c)は「資産プレミアム」(資産を保有することによって得られる効用)。これは普通、資産保有額にも依存するが、成熟経済では資産には無反応になると仮定される。y^fは供給能力(完全雇用で達成できる生産水準)。これと現実の総需要yの開きに応じて、デフレやインフレが起きることを表すのがwhere以下の式の意味だ。

したがって、消費関数は、 y=c+g+i-rb^*の制約の下で、\bar{\delta}(c)=\rho+\alpha(\frac{y-y^f}{y^f})cについて解けばよい。詳しくは、ケインズ消費関数のどこが間違いかを読んでほしいが、y=c(y;y^f)+i+g-rb^*が45°線と交わるところ(ケインジアンクロス)を求めればよい。閉鎖経済と異なるのは、-rb^*の存在だけだ。

したがって、政府支出gを増やすと直線が上方にシフトするので、総需要は増加し、国内総生産は増加する。「財政政策が景気に効く」ということが結論できる。これはマンデル・フレミング・モデルと真逆の結論となっている。

 さらに、小野さんはこの基本方程式を使って、「国内企業が生産性を向上させると、かえって景気を悪化させる」という一見パラドキシカルな結論を導いている。「成長戦略」なんて逆効果だ、ということだ。言葉で説明している部分を引用しよう。

成熟経済なら、すでの消費が十分に大きく、資産選好が強くなって消費意欲が下がっているから、消費が伸びず、生産の増加分がそのまま経常収支に積み上がって、過度な黒字化が起こる。これは円高を呼び、自国製品の国際価格が上昇する。円高は、自国製品の国際価格を以前の水準にまで押し上げ、海外需要をもとの水準に引き下げるまでなっても、まだ終わらない。その理由は同じ量を作っても生産性上昇で雇用が以前より減っているため、デフレが以前より悪化し、それが国内消費を低く抑えて国内製品への総需要が以前より下がり、経常収支の黒字が残ってしまうからである。そのため、円高がさらに進んで自国企業が以前より国際競争力を失い、生産がもとの水準より下がって、ようやく経常収支のバランスが回復する。その結果、デフレも消費も雇用も、すべて以前より悪くなってしまう。

以上のことはもちろん、基本方程式を用いて、ちゃんとモデルの中で導出している。それは本を参照してほしい。あと、マンデル・フレミング・モデルの間違いについても本を参照してもらいたい。

 正直に告白すると、国際経済学はぼくの中では鬼門で、今まであまりちゃんと理解しないで来た。けれども、小野不況理論を材料にすることで、今回、かなりの理解に達することができた。その勢いで、小野善康『国際マクロ経済学岩波書店まで購入してしまった。この夏はこの本で、国際マクロ経済学を自分のものにしようと思っておるのだ。

 

 

 

 

 

 

酔いどれ日記20

今夜は、最初に、シャンパンのBliard-Morisetというのを飲んでる。実にうまい。

最近、2本の映画を観たのだけど、今日はそのうちの1本、映画「ZAPPA」のことをエントリーしよう。

新宿の映画館で観た。もう上映期間も終わりに近づいているので、客は数人だった。これは、ロックアーティストのフランク・ザッパのドキュメントで、アレックス・ウィンターという人が監督した作品だ。ザッパのインタビューと様々な映像、ザッパバンドのメンバーだったミュージシャンのインタビューから構成されている。

ライブ映像はそんなに扱われないけど、ずっとザッパの曲がBGMに鳴っているので、気持ちよく観ていられる。この映画を観ると、ザッパがいかに異端のロックアーティストで、いかに孤高の作曲家だったかがわかる。ロックもジャズもクラッシックも超越したところでザッパは曲作りをしていた。

面白かったのは、ザッパが望んだわけではないのに、「政治」と無関係ではいられなかったことだった。まあ、映画がそういう撮り方をしているというのもあるけど。

最初のシーンは、チェコスロバキアでのライブだ。この国からロシア軍が撤退した祝賀のライブであった。まさにこの今、このシーンから映画が始まるというのは、偶然とは言え、感慨深い。

ザッパはアンチ共和党の急先鋒として有名だったが、いろいろな政治問題に担ぎ出されていたことも知った。そんなに政治的な人ではないと思うのだが、いろいろな事情で政治に巻きこまれることになったようだ。

それはともかく、最も驚いたのは、ザッパが貧乏な家庭の出身で、さらには、物心つくまで音楽のおの字にも興味がなかったことだった。この映画を観るまではなぜか、ぼくはザッパのことを、裕福な家庭に生まれ、音楽の英才教育を受けた人だとばかり思っていた。そう思うくらい、ザッパの音楽は堂に入っていたのだ。しかしそれは全くの誤解で、実はザッパは、ヴァレーズの曲を聴いたことをきっかけに音楽に目覚め、いきなりオーケストラ・スコアを書いてしまったというから驚く。ザッパは、映画音楽も現代クラッシック曲も書いているが、初心がヴァレーズであれば「なるほど」と納得できた。

ぼくがザッパを聴いたのは、塾でバイトしていた時代の同僚の影響だった。その人はドラマーだったので、リズムの凝っているザッパの音楽のファンだったのだ。ぼくは、彼の影響で、今まで全く興味のなかったドラム演奏に興味を持つようになった。それまでは、ライブでのドラムソロは、おトイレタイムぐらいに思っていた。でも、ザッパのライブ映像を観て、ドラムこそ、最高の楽器だと思うようになった。それ以来、音楽はドラムで聴くようになってしまった。ザッパバンドのパーカッショニストだったルース・アンダーウッドが、映画のインタビューで、「リズム楽器はオーケストラでは脇役だったが、ザッパの曲ではメインだったから、オーケストラをやめてザッパバンドに入った」というような趣旨の発言をしていた。まさに、ザッパはリズムの人だったんだ。

ここから、赤ワインClerc Milonにきりかわる。

ザッパは大統領選挙の年に必ずライブツアーをして、共和党をこきおろして歩いた。ぼくは、90年代のあるとき、翌年が大統領選挙であることから、ザッパがツアーをすると推測して、アメリカ在住の友達にチケットを入手してくれるように頼んだ。しかし、残念ながら、ザッパが癌に罹患したためツアーは中止になってしまった。ぼくはアメリカでライブを観る夢を諦めざるを得なくなった。そして、ザッパがその癌で死に至ったので、結局ライブを観る夢は叶わなかった。

ザッパの音感が半端ないことは、クラッシックのアーティストたちが注目していたことからわかる。例えば、クロノス・カルテットもザッパに作曲を依頼していた。ジュリアード出身の天才ギターリストのスティーブ・ヴァイは、ザッパの曲「ブラックページ」を「他にはあり得ない作曲」と述べた。同じく音大出身のルースが「ブラックページ」をピアノで記憶をたぐり寄せながら演奏するシーンは感涙ものだった。

 ぼくはザッパの音楽を聴いていたころ、ザッパ以外の音楽は退屈で聴けなくなり、長い間ザッパの曲しか聴かない日々が続いた。もうこんなことは二度とないだろうと思ったんだけど、それが再来した。それはバンド「ずっと真夜中でいいのに」を聴いている今だ。ずとまよのACAねさんの曲は、まさにザッパの再来で、彼女の曲にはまってしまうと他のいかなる音楽も、本当に退屈で聴けなくなってしまった。もちろん、ACAねさんはザッパなんか聴いたことがないかもしれない。でもぼくは、彼女の音楽のあり方に、ザッパの影を見てしまうのだな。

ザッパが諧謔的で猥雑な歌詞ではなくて、もっと普通の、ぐっとくる歌詞を書いていれば、ザッパの曲はビートルズなみの伝説になっていたと思うのだが、まあ、それではザッパではないから仕方なよね。

 

 

酔いどれ日記19

 今夜は、アイラウイスキーハイボールを飲んでいる。それは、焼肉を食べにいって、生ビールをしこたま飲んだので、ワインを経由せずに仕上げにかかっているからだ。

 さて、先日、庵野さんの映画「シン・ウルトラマン」を観てきた。非常に面白かった。堪能できた。ぼくは、もろにウルトラマン世代だ。小学校低学年のときにリアルタイムで観た。それこそ、外で遊んでいても、走って帰宅して観たものだった。

そんなぼくだからか、そんなぼくでもか、シン・ウルトラマンは楽しかった。「シン・ゴジラ」の感動ほどではないにしても、十分評価できる作品だった。その一番の原因は、「シン・ウルトラマンには、オリジナルのウルトラマンに欠けているものが補充されている」からだ。オリジナルのウルトラマンに欠けていたのは「SF的要素」だったのだと今では思う。ビームをかざすとなぜウルトラマンは巨大化するのか、ウルトラマンはなぜ空を飛べるのか、スペシウム光線とはいったい何なのか。これらもろもろのことに説明が成されなかった(たしか、記憶では)。でも、庵野シナリオではそれは逐一説明されていたのだ。ときに「ほほう」、ときに「それかい」という具合で。これにはまじで感心した。

 怪獣と星人のセレクトも申し分なし。最後も、「そうだよね、それ以外ないよね」というエンディング。全く文句なしですわ。

 さて、これだけで終わったらあかんので、少しだけ数学の思い出を書こうと思う。今回は、森嶋太郎「ふぇるまあノ問題」という本だ。

ぼくは、これまでこのブログでも、著作でも、ぼくが中学生のときに数学にはまったきっかけを「フェルマーの大定理」だと書いてきた。この定理は、「nが3以上の整数のとき、x^n+y^n=z^nを満たす自然数x,y,zは存在しない」というものだ。それに嘘偽りはなく、自分が生きているうちにこの未解決問題が解決したのは、最高の幸せだったと言わざるを得ない。しかも、数学ライターとして、その報道に関わることができたのも誇らしいことだった。

その「フェルマーの大定理」について、たしか、高校生のとき、森嶋太郎という数学者が「ふぇるまあノ問題」という本を上梓していることを知った。しかし、書店はもとより、通常の図書館にさえ、この本は置かれていなかった。どういうきっかけでかは覚えてはいないが、東大の総合図書館にはこの本が存在することを知った。それで、もしも東大に入学することができれば、真っ先にこの本を借りに行こうと、それを心の支えに、受験勉強に励んだのだった。

 森嶋太郎の本に書かれていたのは、「フェルマーの商」と呼ばれるアイテムだった。ご存じの人が多いと思うが、「フェルマーの小定理」というのがあって、それは、「p素数とし、apの倍数でない自然数とするとき、a^{p-1}-1pの倍数となる」というものだ(証明は、拙著『世界は素数でできている』角川新書、または、素数ほどステキな数はない』技術評論社で読んでね)。したがって、 (a^{p-1}-1)/pは整数となる。これを「フェルマーの商」と呼び、q(a)と記される。

この「フェルマーの商」について、驚くべき定理が得られたのだ。ヴェィフェリッヒという人が1909年に次の定理を得たらしいのだ。

「奇素数lについて、x^l+y^l=z^lの成り立つ自然数x,y,z(ただし、自然数x,y,z,lは互いに素)が存在するなら、q(2)lで割り切れる」

というものだ。ここで「q(2)lで割り切れる」というのは、2^{l-1}-1lで割った「フェルマーの商」は、もう一度lで割り切れる、というのだ。言い換えれば、2^{l-1}-1l^2で割り切れる、ということである。こんなことが簡単に起きるわけがない。これは、「フェルマーの大定理が正しい」という強い傍証となるように思える。何より、フェルマーの大定理フェルマーの小定理と結びつけられるのだから、こんな奇跡のような定理はないではないか。ぼくはこの定理を知って、非常に興奮したのを覚えている。

その後、フロベニウスとマリマノフが「q(3)lで割り切れる」も証明したとのこと。そして、このたぐいの定理が次々と更新され、森嶋もその拡張者の一人なのである。

森嶋太郎「ふぇるまあノ問題」を絶対入手したい、というぼくの想いはどんどん募っていった。一年の浪人の末、東大入学を果たした。総合図書館(本郷)の入館証を手に入れてすぐに、ぼくは意気揚々とこの本を手にしに行ったのだった。

請求番号を書いてわくわくしながら司書さんに渡すと、司書さんは本を一冊持ってきた。それは予想外に小さな本だった。そして、司書さんは「この本は持ち出しができないので、中で読んでください」とぼくに本と席番号の札を渡してくださった。ぼくは、いきなり書架に入ることになって面食らったが、とりあえず、あつらえられた机に座って、小さな本を開けてみたのだった。

本の中身を見て、非常に困惑することなった。それは明らかに日本語ではなく、数学書ですらなかった。何語かも全くわからなかった。少なくともフランス語やドイツ語ではないのはわかった。たぶん、ラテン語だったのだろうと思う。

一行たりとも読めなかった。数式も図版もなく、楽しみようはなかった。司書さんがいぶかりながら、この本を渡してくれた意味が判明した。こんな本、10年に一度も需要がないに違いない。いや、借り出したのはぼくが初めてだったのかもしれない。

ぼくは、30分ほどその本のページをぱらぱらめくってみたりしたものの、「これはどうしようもない」と諦め、司書さんのところに行って本を返した。事情を説明すると、司書さんはぼくの読みたい本と請求番号を見比べて、ぼくが請求の仕方を根本的に間違っていたことを発見してくださった。まあ、初めての利用だからしゃーない。司書さんが、森嶋太郎「ふぇるまあノ問題」を書架から持ってきてくださり、「これなら、持ち出してコピーできますよ」と教えてくれた。ぼくは、念願の、憧れの、悲願の、この本のコピーを手に入れることになったのだ。もう40年以上も前のエピソードである。

 結局、この本は、読まずじまいで今に至っているんだけどね。

 

 

 

 

 

酔いどれ日記18

 今夜のワインは、リースリングの白ワイン。Roche Calcaireというもの。爽やかで、今日の気候にはちょうど合う。

 それにしても、最近の民放のテレビ番組のつまらなさはとんでもない状態で、NHKしか観なくなってもうた。NHKにもいろいろ政治的な意味で問題の大きい部署もないことはないが、総じてすばらしいクオリティの番組を作っていると思う。昨夜にやってた初音ミクの特集とまふまふさんの特集はすばらしかったし、映像の世紀で特集したメルケルの回は感涙ものだった。NHKスペシャル「数学者は宇宙をつなげるか」は、テレビで最先端の数学を紹介する、という野心的な試みで、(成功か否かはさておき)、その志に拍手を送りたいと思う。中でも絶賛したいのは、ドラマ「しずかちゃんとパパ」だ。最初は何の予備知識もなく、単純に、吉岡里帆ちゃん目当てで観始めたんだが、回が進むごとにその見事なシナリオと演出に感動するようになった。聾唖の親を持つ子供たちが背負うさまざまなことをテーマにしてた。非常に丁寧な制作で、ドラマとはこうあるべしというものだった。

 さて、今回は、「ラマヌジャンのL関数」のことを書こう。参考書は小山信也『素数からゼータへ、そしてカオスへ』日本評論社だ。

ラマヌジャンは、「2次のオイラー」というものすごい発見をした。オイラー積とは、その名の通り、オイラーが発見したもので、自然数のs乗の逆数和

\zeta(s)=\frac{1}{1^s}+\frac{1}{2^s}+\frac{1}{3^s}+\dots

が、全素数の式として、

\zeta(s)=\frac{1}{1-\frac{1}{p^s}}素数pすべてにわたる積

と表される、いうものだ。これを真似て、ディリクレがL関数というのを考えた。L関数とは、

\zeta(s)=\frac{a(1)}{1^s}+\frac{a(2)}{2^s}+\frac{a(3)}{3^s}+\dots

というタイプのゼータ関数である。例えば、簡単なL関数として、

L(s)=\frac{1}{1^s}-\frac{1}{3^s}+\frac{1}{5^s}-\frac{1}{7^s}\dots・・・(1)

がある。ちなみにこの式では、プラスとマイナスが交互になってて、4で割った1余る奇数ではプラス、4で割って3余る奇数ではマイナスになっている。ディリクレはこのL関数のオイラー積を考えた(オイラーも知ってたらしいけど)。この式のオイラー積は、

L(s)=\frac{1}{1-\frac{a(p)}{p^s}}の奇素数pすべてにわたる積 ・・・(2)

ここで関数a(p)は、p4n+1素数のときは14n+3素数のときは-1となるもの。どちらのオイラー積も、分母がp^{-s}=1/p^sの1次式になっているから、「1次のオイラー積」と呼ばれている。

 さて、ラマヌジャンはどうやって「2次のオイラー積」を発見したか。それは、

f(q)=q\Pi_{k=1}^{\infty}(1-q^k)^{24}

という式を展開することから出てくる。この式は、愚直に書くと、

f(q)=q(1-q)^{24}(1-q^2)^{24}(1-q^3)^{24}(1-q^4)^{24}\dots

これをq多項式として展開して、q^nの係数を\tau(n)と定義する。すなわち、

f(q)=\tau(1)q+\tau(2)q^2+\tau(3)q^3+\tau(4)q^4+\dots

ということ。\tau(n)を求めるには、f(q)を途中までで打ち切って展開し、それ以降には出てこないq^nに対して、係数を決定して行けば良い。

実際に求めてみると、次のようになる(らしい)。

\tau(1)=1, \quad \tau(2)=-24, \quad \tau(3)=252, \quad \tau(4)=-1472,

\tau(5)=4830, \quad \tau(6)=-6048, \quad \tau(7)=-16744, \quad \tau(8)=84480,

\tau(9)=-113643, \quad \tau(10)=-115920, \dots

ラマヌジャンは、この係数\tau(n)たちを分子に乗せて、L関数を作った。すなわち、

L(s, \tau)=\frac{\tau(1)}{1^s}+\frac{\tau(2)}{2^s}+\frac{\tau(3)}{3^s}+\dots=\frac{1}{1^s}-\frac{24}{2^s}+\frac{252}{3^s}+\dots

という関数だ。そして、このL関数が「2次のオイラー積」を持つことをラマヌジャンは見つけちゃったんだね。以下のようなものだ。

 L(s,\tau)=\frac{1}{1-\frac{\tau(p)}{p^s}+\frac{1}{p^{2s-11}}}素数pすべてにわたる積

この分母は、1-\tau(p)p^{-s}+p^{11}(p^{-s})^2だから、p^{-s}の2次式になっている。すなわち、「2次のオイラー積」というわけだ。

 なんで「2次のオイラー積」が出てくるんじゃろ、と昔から不思議だったけど、この度、小山先生の素数からゼータへ、そしてカオスへ』を読んで、初めてそのからくりを理解できた。

まず、「1次のオイラー積」が出てくるからくりは、関数の性質「乗法的」と「完全乗法的」にある。a(n)が互いに素なm,nに対して、a(mn)=a(m)a(n)を満たす場合が「乗法的」、任意のm,nに対してa(mn)=a(m)a(n)を満たす場合が「完全乗法的」と定義される。上のほうで紹介したL関数では、a(n)は、nが偶数なら0、4で割ると1余る奇数なら1、4で割ると3余る奇数なら-1と定義される。このとき、a(n)は「乗法的」かつ「完全乗法的」となる。だから、(2)は(1)と一致する。なぜなら、無限等比数列の和の公式から、

\frac{1}{1-\frac{a(p)}{p^s}}=1+\frac{a(p)}{p^s}+\frac{a(p)^2}{p^{2s}}+\frac{a(p)^3}{p^{3s}}+\dots

だから、例えば、45^sが分母の分数は、45=3^2 \times5から、a(3)^2/3^2a(5)/5の積で出てくるが、「完全乗法的」から、a(3)^2 \times a(5)=a(3^2 \times 5)=a(45)=1となってうまく行く。これが「1次のオイラー積」をつかさどるからくりなのだ。

 一方、ラマヌジャン\tau(n)は「乗法的」だが、「完全乗法的」ではない。実際、例えば、互いに素な2と3については、上に書いた数値から、\tau(2)\tau(3)=-24 \times 252=-6018=\tau(6)となるが(これはめっちゃ不思議だ)、\tau(3)\tau(3)=252^2=63504\neq-113643=\tau(9)である。

(この辺で、赤ワインに切り替わった)。

では、「完全乗法的」が成り立たない代わりに何が成り立つのか。これを発見したのがラマヌジャンの天才性だと言える。それは、j=1,2,3,\dotsに対して、

\tau(p^{j+1})=\tau(p)\tau(p^j)-p^{11}\tau(p^{j-1})・・・(3)

が成り立つ、というのである。例えば、\tau(2^3)=\tau(8)=84480\tau(2)\tau(2^2)-2^{11}\tau(2^1)=\tau(2)\tau(4)-2^{11}\tau(2)=(-24)\times (-1472)-2048 \times (-24)=84480である。よくこんなことに気づいたと驚嘆する。

\tau(p^{j+1})=\tau(p)\tau(p^j)なら「完全乗法的」になるが、p^{11}\tau(p^{j-1})を引いている分だけ、ズレが生じている。このズレが、「2次のオイラー積」を生み出す源になっているというわけなのだ。おおざっぱに言うと、\tau(p^k)/p^{ks}の総和を作る際、上記の(3)を使って変形をほどこすと、ズレの部分に再び\tau(p^k)/p^{ks}の項が現れ、それを左辺に移項することで2次の部分が生成されることになる。似た現象で言うと、積分計算で部分積分すると右辺に同じ積分が出てきて左辺に移項すれば値が求まっちゃう、みたいな感じ。詳しくは、素数からゼータへ、そしてカオスへ』で勉強して欲しい。繰り返しになるが、「完全乗法性」から少しだけズレることが、高次のオイラー積という魔法を作り出す呪文の役割を果たすわけなのだ。すごすぎるね。

 \tau(n)が「乗法的」であることと(3)を満たすことは、ラマヌジャンが見抜いて「予想」したのだけど、それを証明したのは、モーデルという数学者だ。予想の翌年(1917年)のことだった。その証明の武器は、モーデル作用素というものだ。

 ラマヌジャンf(q)は、「保型形式」という性質の関数に属する。f(q)を一般化したものが「マース波動形式」というものらしい。マース波動形式に対しては、モーデル作用素を発展させたヘッケ作用素というのを使って、「2次のオイラー積」を持つことが証明できるとのこと(これも素数からゼータへ、そしてカオスへ』で確認しよう)。すばらしすぎる。

 関係ないけど、ぼくが初めて「マース波動形式」という名称を目撃したのは、たしか黒川信重さんの本だったと思う。そのときは、「これは、黒川さん一流の冗談だな」と誤解してしまった。だって、「マース波動」なんて、宇宙戦艦ヤマトに出てくる「波動砲」を想起させたから(笑)。いやあ、ほんまものの数学用語と知ったときはまじでのけぞった。

 さて、L関数の「1次のオイラー積」とそれが何に役立つかについての、それなり詳しい説明は、拙著『素数ほどステキな数はない』技術評論社を読んで理解してくれたまえ。(販促、販促)

 

 

 

 

 

酔いどれ日記17

今夜はシャンパンを飲んでいる。DRAPPIERというやつで、そんなに高価ではないが、なかなか美味しい。いい具合に酔っ払っている。

今回は、数学における「完全系列」のことを書いてみたいと思う。

完全系列というのは、 0 \rightarrow A \rightarrow B \rightarrow C \rightarrow 0というふうに、集合A, B, C準同型写像( f_1:0 \rightarrow A, f_2:A \rightarrow B, f_3:B \rightarrow C, f_4:C \rightarrow 0)で繋がれているもので下で述べる条件を満たすものを言う。ここで「準同型」とは、代数的構造が保存される写像のことである。例えば、A, Bが群なら、積が保存される写像(すなわち、 f(x \circ_A y)=f(x) \circ_B f(y))で、A, Bが環なら、和と差と積が保存されるような写像のことだ。これらの準同型 f_1, f_2, f_3,f_4が、すべて、「(f_iの像)=(f_{i+1}の0の逆像)」を満たすものが「完全系列」なのである。正式に書くと例えば、Im (f_2)=Ker( f_3)などとなる。

 f_1,f_2 f_3,f_4に対しては簡単になる。Im(f_1)=f_1({0})=0だから、0=Ker(f_2)となり、これは f_2単射であることを意味する。また、Ker(f_4)=f_4^{-1}(0)=Cだから、 Im(f_3)=Cとなって、 f_3全射であることを意味する。だから、わかりにくい条件は、Im(f_2)=Ker(f_3)ということだ。

 この完全系列は、少し進んだ数学をやると多くの分野に登場する。高校から大学2年ぐらいまでは、多項式微分やベクトルが数学の「言語」だったのに、いきなりこの完全系列があたかも現代数学の「日常語」のように登場することになるので、多くの数学徒はひるまされる。

 ぼくが完全系列を最初に目撃したのは、数学科に進学が決まった2年後期だったと記憶している。演習の授業で、学生それぞれに問題が割り当てられて黒板で解答させられた。そのとき、ある同級生が、すごく簡単な問題を完全系列を使って解答した。別に完全系列なんて使わなくても、普通に定義通りに考えれば解けるような問題だった。でも、演習の教官は、「すごいですねえ」と絶賛した。その光景をぼくは、95%の羨望と5%の反発で眺めていたものだった。その後、親しくしていた数学科の友達たちとは、完全系列をばりばり使う人々を「矢印遣い」というあだ名で呼んだものだった。

 結局、完全系列とは馴染めないまま、数学科を卒業した。

ところが、執筆する本の企画のためにこの歳で完全系列に再会することとなった。企画の参考のために数論の本を読んでも、代数幾何の本を読んでも、完全系列がふんだんに出てくる。しかも、どの本でも、最初のほうに登場する場面では、「そんなもん、定義通りに計算したほうが早いやん」と思うような証明を完全系列でわざわざやっている。またまた、「5%の反発」とも再会することとなった。

 でも最近、いくつかの定理の証明を読んで、「完全系列って、本質的な道具なんだな」と感じられるようになった。例えば、リーマン面に関する「リーマン・ロッホの定理」というのがある。これは、例えば、リーマン面(球とかトーラスとか)に定数でない有理型関数があるかないか、とかがわかっちゃう定理なんだけど、証明の重要な部分に完全系列が使われる。それはおおざっぱには、次の原理を使う。

先ほど例に出した完全系列 0 \rightarrow A \rightarrow B \rightarrow C \rightarrow 0で考えよう。ここで、A, B, Cがベクトル空間としよう。すると、

(Bの次元)=(Aの次元)+(Cの次元) (すなわち、dimB=dim A+dim C)

が成り立つことになる。これをうまく使うとリーマン・ロッホが出てくるんだな。

この定義の証明は、完全系列に慣れるとそこそこ簡単になる。準同型f_3に注目すれば、準同型定理から、BKer (f_3)で割った商集合B/Ker (f_3)が、Im (f_3)と同型になる。上に書いたようにf_3全射だから、Im (f_3)=C。したがって、商集合B/Ker (f_3) Cと同型。一方、完全系列だからIm (f_2)=Ker (f_3)であるから、商集合B/Ker (f_3)B/Im(f_2)と書き換えられる。ここで、 f_2単射であることを思い出せば、Im( f_2)Aと同一視できる。まとめる、B/A Cと同型だということになる。ここで次元を考えれば、dimB-dim A=dim Cとなるから、証明が終わる。

 こういうことだと理解すると、「なんだ、ベクトル空間の話やん。だったら、線形代数のときに、もっと意識的にこれをやっときゃいいやん」という思いに至った。もちろん、線形代数は数学科以外の理系でも必須アイテムだから、完全系列を意識的に投入するのはうまくないだろう。でも、「数学徒向けの専門書では、まず線形代数の解説の中で完全系列を初歩から書いて、その上で先に進みゃいいやん」とは思うのだ。まあ、これに類する目的で、世の専門書では簡単なことをわざと完全系列で証明してみせているんだと思うけど、「新しい素材」+「新しい武器」は、凡庸な人間にはハードルが高すぎる。だったら、「よく知っている線形代数」+「新しい武器」のほうがずっと適切だ。

 などと不平不満を述べてたら、そういう本を見つけてしまった。有木進『加群からはじめる代数学入門』日本評論社がそれだ。

この本は、ベクトル空間からはじめて、多項式環、有理整数環、非可換環加群の世界を進んでいく。秀逸なのは、第1章で、線形代数を完全系列という「日常言語」で再現してくれていること。こういう本こそ、求められている本だと思う。例えば、この本には、さきほどのdimB=dim A+dim Cを、準同型定理を使わずに、ベクトル空間の素朴な表現を使って証明してくれてる。至れり尽くせりだ。

 奇遇なことにも、有木さんはぼくと数学科の同期だった(と思う)。しかも、バイト先も一緒だった。同期がこういう待望の本を書くとは巡り合わせだと思う。ついでながら、有木さんは、最初のほうに書いた「矢印遣い」同級生ではないので、誤解なきようにね。

 まだぼくは完全系列とか準同型についての本は書いていないけど、抽象代数の本は上梓しているので、販促しておこう。以下である↓。(面白い本だじょ)

 

 

 

酔いどれ日記16

 このところ、ずっと小野善康さんの『資本主義の方程式』についてエントリーしてて、まだ、1,2回、論じたいことがあるんだけど、今夜はまた、酔いどれ日記のほうに戻ろうと思う。(書評は、書くのに緊張感が必要なので、疲れるんだよね)。

 今夜は、カオールの赤ワインを飲んでる。甘みがあって、濃厚。色の深いルビー色。ぐびぐびは飲めないけど、値段の割に豊かな味わいだと思う。

 今日は、「集合と位相」について戯れ言を書こうと思う。

ここのところ、「集合と位相」を勉強し直している。その理由は、今書いている本の次に書く本に、必要になるアイテムなので、自分の理解を深めることとどういうアプローチが最も読者にわかりやすいかを探求するためなのだ。

「集合と位相」というのは、集合論位相空間論を解説する分野だ。ぼくは、数学科に進学が決まった2年生の後期に(駒場で)講義を受けた。そのときぼくは、講義を聞きながら何か参考書も併用しようと思った。当時は、岩波基礎数学の彌永昌吉・健一『集合と位相』を持ってたんだけど、(というか、基礎数学は全巻持っていた)、どうも読みこなせる気がしなくて、松坂和夫『集合・位相入門』岩波書店を主に使ったように記憶している(実は曖昧な記憶なんだけど)。この松坂本は非常に名著で、今でもたぶん、初学者が「集合と位相」を勉強するのに最も良い教科書ではないかと思う。

ところが今、両方を読み直してみて、彌永本を非常に面白いと思うようになったのだ。ここで皆さんに強くお伝えしたいことは、「自分にとって最良の教科書」というのは、時期によって、それからモチベによって異なる、ということだ。自分というのは常に同じではなく、時とともに変化する。知識も興味も忍耐力も立場も変化する。だから、それらの変化によって、今の自分にフィットした教科書や専門書というのは当然異なることになるのだね。

今回、久しぶりに彌永本を読んでまず興味をひかれたのは、位相空間の構築の仕方だった。通常は「開集合」の導入から始めるのが定番だと思う。開集合を知らない人は、周を含まない円をイメージすれば良い。それらを合併したり、共通部分をとったりしてできる図形が開集合だ。それに対して、彌永本では「閉包」から導入している。閉包というのは、点集合Sを変形する操作で、おおざっぱにいえば、Sの点列が密集している場所にある点をSに付け加えてできる点集合のことだ。Sの閉包(密集部にある点を付け加えた集合)をcl(S)と記す。ここで、「密集」というのは、普通の平面ならイメージできるけど、一般の空間ではなんだかよくわからない概念なので、むしろ、閉包の持つべき性質を定義することによって特徴づける。それが、以下の4つの性質だ。

(i) cl(\emptyset)=\emptyset 空集合の閉包は空集合

(ii) cl(S \cup T)=cl(S) \cup cl(T) 合併の閉包は閉包の合併

(iii)  S \subset cl(S)  閉包は元の集合を含む。

(iv) cl(cl(S))=cl(S)  閉包の閉包をとると、変化しない。

閉包を「密集している点(近づいていく先)を取り込む」だとイメージすれば、上記の4つは当然そうなるだろうな、と受け入れられるだろう。位相空間論では、逆にこの4つがなりたつとき、cl(S)Sが密集する点を取り込んだ図形だと定義している。その空間に固有の「密集」を定義している、ということ。そして、このcl(S)から、開集合とか閉集合とか近傍とかを順次定義していくことになる。例えば、cl(S)=SとなるS閉集合で、閉集合の補集合が開集合というあんばいである。ちなみに、このように位相空間を構成するのは、クラウスキーという数学者の流儀らしい。

ぼくは、大学生のときは、この構成法にまったく親近感を持てずに、定番の開集合から導入する構成法で理解したのだけど、今回彌永本でこれを読んで、新鮮な気持ちで受け入れることになった。理由はいくつかあるが、(その中には専門の経済学の観点もあるけど、それは面倒なので説明しない)、ひとつは「無限概念が表向きには混入していない」ということ。例えば、開集合から導入する場合には無限概念が出てくる。すなわち、開集合は無限個の開集合を合併しても開集合で、有限個の開集合の共通部分は開集合、と設定される。無限個を許す場合と許さない場合に分かれる。もうひとつの理由のほうが大事なんだけど、それは「関数の連続性の定義がとても自然だ」ということだ。

開集合を主役とした定番の教科書では、「空間Xから空間Yへの関数fが連続」ということが、「空間Yの任意の開集合OfによるXへの引き戻しf^{-1}(O)Xの開集合」と定義されるんだけど、「引き戻し」というのがどうにも違和感がある。なぜなら、「関数が連続」の定義は、雑な言い方だけど、「xaに近づくなら、関数値f(x)f(a)に近づく」というものだから、「引き戻し」で語られてないからだ。

ところが閉包を使って連続関数を定義するなら、「空間Xの任意の部分集合Sについて、Sの閉包の関数値の集合が、Sの関数値の集合のYにおける閉包に含まれる、すなわち、f(cl_X(S)) \subset cl_Y(f(S))」となる。この定義は、さきほど書いた「xaに近づくなら、関数値f(x)f(a)に近づく」とまんま同じだと解釈できるように思える。「周辺の点を周辺に写す」ということだからだ。以前は、全くそんなことを考えもしなかった。でも今は、「何が自然だと思うか」ということに当時と違う感覚があるんだね。

 あと、彌永本で感心したのは、順序集合における「ツォルンの補題」の証明の方法だ。「ツォルンの補題」というのは、「順序集合の任意の空でない全順序部分集合が上限を有するとき、極大元が存在する」という定理。数学全般で利用される汎用性のある定理だ。普通はたぶん、「整列集合」(任意の空でない部分集合が最小元を持つ集合)と「超限帰納法」(数学的帰納法の拡張版)と「選択公理」(無限個の集合の族から1個ずつ元を取り出していい)を利用するんだと思うけど、それだと証明がめっちゃ長くなる。それに対して、彌永本では、「選択公理」だけからかなり短い証明を与えている。これは、これはHalmos(ハルモス?)という数学者の証明らしい。この証明は、単に極大元の存在がわかるだけじゃなく、それがとある全順序集合の最大限であることまでわかる。非常に抽象的な証明だけど、短いし、鋭い証明だと思う。

 彌永本は、形式的な自然数論とか実数論から開始されていて、大学生のころのぼくにはその意義がわからなかったけど、今はとても頭にしみる。とりわけ、実数の集合の構成をコーシー列の集合をとある極大イデアルでの商集合で実行して「体」に仕立てるあたり、感動すら覚える。人は変わるものなのだ。

 駒場の2年後期の数学科(進学内定者向け)の講義は、たしか、「代数」「複素関数」「集合と位相」だった。「代数」では、たぶん、単因子論かなんかやっていて、複素関数論はコーシーの積分定理をやっていたと思う。どちらもあんまり興味を持てなかった。でも、「集合と位相」だけは面白く受講してた記憶がある。特に、教員がなかなかユニークな人で、「ツォルンの補題」と「チコノフの定理」(コンパクト空間の集合の直積空間はコンパクト)については、「教えちゃうのはもったいないから、レポート課題にします」と仰って、宿題に課された。なのでぼくは、普段の講義はそんなに理解してなかったけど、この二つの定理は自分なりに必死に理解して、教科書を写すのではなく、自分なりに再構成してレポートを出した記憶がある。期末試験も、他の二つに比べればよく解答できた。(なんと、「代数」は追試になってもうた)。

 一応、販促すると、「集合と位相」については、拙著『数学入門』ちくま新書にかなりわかりやすく、かなり文学的に、かなり直感が得られるように解説しているので、手に取ってみてほしい。

 もう一度言うけど、年齢とともに人は変わる。興味もモチベも変わる。だから、今は頭が受け付けなくても捨て去ってはいけない。頭の片隅においておくと、いつか「その日」がやってくるかもしれないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

ケインズ消費関数のどこが間違いか?

今回も、前回に引き続いて、小野善康『資本主義の方程式 経済停滞と格差拡大の謎を解く』中公新書の紹介をする。ただし、説明の重複によって長くなるのを避けるため、前回のエントリーは前提として書くので、読者は前回のエントリーと行きつ戻りつしながら読んで欲しい。

 

今回は、本書の中で、ぼくが最も感動した部分について紹介したい。それは、「ケインズ消費関数のどこが間違っているか」という説明だ。

ケインズ消費関数」というのは、旧ケインズ経済学に導入された仮定の一つである。ちなみに小野さんは、本書で一環して、「ケインズ経済学」という用語を用いている。これは、いわゆるニュー・ケインジアン経済学を「新ケインズ経済学」としたいからかな、と思う。ご自分の経済学を「新ケインズ経済学」と呼ぶつもりである可能性もないではないが、とりあえず、前者だとぼくは解釈しておく。

ケインズ経済学では、消費関数からIS曲線と呼ばれる曲線を描き、貨幣需要関数からLM曲線を描き、その交点を均衡とする。すなわち、交点によって総生産と利子率が決まるのである。どちらにも、生産側の都合が入っていないのが特徴だ。

小野さんの本では、ケインズの消費関数を旧消費関数と呼び、c=c(y-t+s)と表記している。ここで、右辺は関数記号c(x)であることに注意。つまり、数学でよく使うf(x)の一種として、c(x)を投入しているということ。左辺のcは(実質)消費量、右辺のy, t, sは、順に、(実質)総需要、(実質)総税額、(実質)総給付額を表す(「実質」の意味は、前回のエントリー参照)。したがって、y-t+sは、いわゆる可処分所得(家計が同時点で自分が使える所得)を意味することになる。だから、式c=c(y-t+s)が意味するのは、「各時点における人々の消費は、同時点で自分が使える所得に応じて(関数c(x)に従って)決まる」という仮定だ。

マクロ経済学の教科書で、旧ケインズIS-LMモデルを扱うときは、関数c(x)をよく1次関数に設定する。すなわち、c=\beta+\alpha(y-t+s)とする。このとき、総需要yは、消費需要と投資需要と政府需要を合わせたものc+i+gだから、それを代入し、c=\beta+\alpha(c+i+g-t+s)が得られる。これを、消費cの1次方程式として解けば、消費cが、投資需要iと政府需要gと税金tと給付金sの式で表されることになる。したがって、総需要c+i+gも投資需要iと政府需要gと税金tと給付金sの式で表される。できた方程式は、投資需要iが利子率の関数だと見なすことで、総生産(=総需要)と利子率の関係式となる。これがIS曲線を描く。

ちなみに以上の導出は、総生産yc+i+gと一致することから、cのところに関数c(y-t+s)を代入し、c(y-t+s)+i+gとしておいて、これを総生産yを変数とする関数と見なして、その値が再びyと一致する場合を解くのと同じことである。関数c(y-t+s)+i+gのいわゆる「不動点」を求めているわけである。グラフの言葉で表現するなら、「45度線と関数のグラフの交点を求めること」なので、「45度線分析」とか「ケインジアン・クロス」と呼ばれる。

小野さんの本のすばらしさは、この旧ケインズ経済学と同じ方法で、小野さんの基本方程式から新しい消費関数「新消費関数」を導いてみせていることだ。以下、ざっと解説する。

前回のエントリーで説明したように、小野さんの基本方程式は、

 \gamma(m,c)+\delta(a,c)=\rho+\pi

 where \pi=\alpha(\frac{y-y^f}{y^f})

である。ここで、左辺のcmaはそれぞれ実質消費量、実質貨幣量、実質資産量で、 \gamma(m,c)は貨幣保有から得られる便益、\delta(a,c)は資産保有から得られる便益を意味する。右辺の\piは「インフレ率」(物価の変化率)で、\rhoは「時間選好率」。また、y^fは供給能力。(詳しくは前回参照のこと)。

特に、モノも資産も豊富になった「成熟経済」での方程式は、上記の左辺が変わって、

\bar{\delta}(c)=\rho+\pi

となる。ここで、左辺の\bar{\delta}(c)とは、資産量aが十分大きくなって、基本方程式の貨幣保有から得られる便益 \gamma(m,c)が0に収斂し、資産保有から得られる便益\delta(a,c)が、同じcに対して不変(aに影響されず一定)な、cだけの関数\bar{\delta}(c)に収斂してしまったことを表している。

ここで、基本方程式から、インフレ率 \pi\alpha(\frac{y-y^f}{y^f})と表されることから、インフレ率は総需要yと生産能力y^f(の開き)によって決まる、ということが仮定されている。上の「成熟経済」の方程式\bar{\delta}(c)=\rho+\picについて解けば、消費関数c=c(y; y^f)を導出することができる。これも総需要(=総生産)yの関数となっているので、旧消費関数と同じく、関数c(y; y^f)+i+g不動点が総生産yを決めることになる(ここで投資iは、消費が低迷しているため、減価償却の分のみのほぼゼロと考えてよい)。言い換えると、「45度線分析」(ケインジアン・クロス)によって総生産が決まる。小野さんは、この消費関数c=c(y; y^f)を「新消費関数」と呼んでいる。

 小野さんは旧消費関数と新消費関数について、その決定的な違いを説得している。それは「旧消費関数では、人々はその時々で手にする可処分所得だけを見て消費を決めると仮定しているが、新消費関数では、人々は物価変化を見ながら、消費と貯蓄の便益を比較して消費を決めることを示している」ということ。さらに小野さんは、この違いをもっと明確に、こう述べている。「ケインズ経済学では、所得が総需要を決める、と考えているが、基本方程式では、総需要が所得を決める、となる」。この点の説明を本から引用してみよう。

総需要が物価変化率を決め、それが人々の消費を決めるとすれば、消費と投資と政府需要の合計は、もとの総需要と一致しているはずである。(中略)。総需要がこのように決まってしまえば、生産能力が余っていても実際に売ることができる量は総需要の水準までなので、所得もその水準になってしまう。つまり、資産選好を持つ人々の行動を考えると、「総需要が所得を決める」ことがわかる。ところが、旧ケインズ経済学では、その時々で所得が入るから消費をすると仮定しており、「所得が総需要を決める」と考えている。このように、旧ケインズ経済学では、総需要と所得の因果関係を反対に捉えているのである。(p80)。

(上に注意したように、投資iがゼロに近い一定値であることを踏まえよ)。

この違いは、経済政策の効果について、全く対照的な結論を導くことになる。ここも直接に引用しよう。

可処分所得が消費を決めると考える旧ケインズ経済学が正しければ、定額給付金地域振興券などのばらまき政策は、税金を取らずに赤字財政によって行われる限り、可処分所得を増やして消費を増やすはずである。ところが、消費が人々の資産選好と物価変化率で決まるなら、ばらまき政策で家計の可処分所得を増やしても、新規需要を作らないからデフレ・ギャップは埋まらない。そのため、消費は刺激されず、総需要もGDPも増えない。(p81)

これを数学的に見るには、旧消費関数c=c(y-t+s)に変数s(=給付金)が入っているが、新消費関数c=c(y; y^f)には入っていないことからすぐわかる。また、日本の「失われた30年」の間の経済政策の無効性の経験(同書にいくつかのデータが掲載されているので参照こと)からも、旧消費関数が間違っていることが推測される。

 この議論がぼくにとって非常に重要だったのは、積年の疑問が晴れたことだった。大学院で経済学を勉強しているとき、計量経済学も教わった。計量経済学の教科書に必ず「消費を可処分所得で回帰した回帰直線」が例としてあげられており、それがあたかも旧消費関数の証拠のように登場していた(不思議なことに「証拠」だとは書いてないのだけど)。確かに、非常に当てはまりがよく、例えば蓑谷『計量経済学東洋経済では、決定係数が0.9873と非常に大きい数値になっている。ぼくは、これらを見たとき、「旧消費関数は正しい、だからきっと、旧ケインズ理論は正しいんだ。でも、感触的には何かおかしいぞ」と思ったものだった。今回、小野さんの本を読んで、「因果関係が逆だ」ということがわかった。「消費(総需要)が所得を決める」場合でも、同じく高い当てはまりが出るはずだからだ(単に、説明変数と被説明変数が逆になるだけだから)。これを理解してはじめて、「実証にはモデルの善し悪しが大事だ」というよく耳にする批判の意味を実感として身にしみた次第である。世の中には散布図だけを示して、何かの因果を吹聴している人々をよく見かけるが、そういうのはダメじゃん、という決定打を得たと思う。

 最後に、「増税が景気を冷やす」という俗説に関する小野さんの反論を引用しておこう。以下である。

消費税を引きあげると景気を悪化させるという主張は多い。本当にそうか。

消費税増税はその率だけ消費者物価を引き上げるため、景気に及ぼす効果は、物価上昇がもたらす実質金融資産の減少効果である。したがって、消費意欲の大きな成長経済においては、貨幣mや資産aが減って人々の流動性プレミアム \gammaや資産プレミアム \deltaが上昇し、貯蓄意欲が高まるから、消費を減らしてしまう。ところが成熟経済では、資産プレミアム\bar{\delta}は実質金融資産に反応しないため、消費は変化しない。このように、消費税増税が消費を引き下げるという主張が正しいのは成長経済だけであり、成熟経済では成り立たない。(p84-p85)

このことに関して、本書では、「消費税が高い国は景気が悪いか?」という点に関する解答の実証データとして、散布図をあげている(p86)ので、是非、それも参照してほしい。

 ぼくは勤務校で、長い間、マクロ経済学を教えている。最初は、旧ケインズ経済学のIS-LM分析を教えていた。しかし、教えるたびに、自分がでたらめな論理を組み立てているような「気分の悪さ」に襲われ、結局、この手法をやめてしまった。今は、ソローモデルを簡易化した動学モデルを講義している。小野さんの本で、その「気持ち悪さ」の所在がはっきりした。ケインズは、(新古典派に比べれば)、いい線まで行っていた。勘は良かったんだ。やはり、天才だったのである。でも、その後の経済学者が(ケインジアンが)、ちゃんとケインズの論理の欠陥を正そうとせず、そのまま請け売りを教えてきたから、ずっと「気持ち悪い」でたらめの、そして、現実とも食い違いがある理論が継承され続けてしまったんだと思う。

 ここで声を大して言いたいのは、「もう、大学で、IS-LM分析を教えるのは、いいかげんやめたらどうか」ということだ。そのためには、公務員試験とか経済学検定とかでIS-LM理論を出題するのもやめるべきだ(実際、出題しているかは知らないんだけど)。そうしないと、学生の受験のために、間違った理論を仕方なく教え続けなければならない。特定の経済理論を、公的試験とか検定試験とかに入れるのは、経済学というものの社会における地位を保つ(悪口を言えば、利権を保つ)ためには有効な手段なのは理解できるが、それは結局、サイエンスから道徳へと落ちぶれることを意味しており、自壊の道なのではないかと思うのだ。