拙著『確率的発想法』の韓国語版に感動した。

 今回は、拙著『確率的発想法』NHKブックスに関する話。この本を読んだ人だけにしかアピールしないと思うので、あしからず。
つい最近、この本の韓国語版が刊行された。タイトルは『確率の経済学』。こっちのタイトルのほうが、内容をよく表している、と思える。オリジナル版は、日本の市場動向を見据えて、編集者がつけたものだ。ぼくは、「社会」か「経済」ということばを入れて欲しい、とお願いしたのだが、最終的に取り入れられなかったから、韓国語版のこのタイトルはすごく嬉しい。ぼくの本の翻訳は、『数学の遺伝子』の台湾版、『マンガでわかる微分積分』の韓国語版、『使える!確率的思考』の韓国語版に続いての4冊目だから、「外国で翻訳されたぜ!」っていう興奮は、薄いのだけど、そのかわり、この翻訳版で初体験となる「韓国の読者の皆さんへ」という特別寄稿の序文というのがあって、それはとても楽しいことだった。どういう文面を書いたかは、最後に引用しておくので、そちらで。
 このような体験ができたのは、ひとえに、翻訳者の金京媛さんが、とても優秀で、そして熱意のあるかただったおかげだった。オリジナル版よりも詳しいリファレンスを作るためにコンタクトしてくださって、その上、新たな序文も注文してくださったのだ。(翻訳者の仕事が増えるにもかからわず、である)。そこでぼくもずうずうしく、翻訳者のあとがき(本書の推薦文) を日本語に翻訳して送って欲しい、と頼んだら、ちゃんと送ってくださった。それがあまりにすばらしい紹介文なので、ご本人の了解を得て、ここに全文を紹介したい。

訳者のあとがき
挑発的問題意識に満ちた確率理論の面白さ

いまやぼんやりした記憶さえも定かではないのだけれど、どうやら学生時代、数学の授業で厭々習わせられて以来、これまで、確率について、ただの一度として(!)関心を持ったことがなかったと言える。それほどまでに、確率の世界、さらに数学の世界は、私とは縁のない、あの水平線の向こうの遠い国の話に過ぎなかった。そのくせ、『確率的発想法』の翻訳に手を出すことになったのは、ひとえに、著者の小島寛之の‘確率的発想法’から、新鮮な知的刺激と共感を得ることができたからである。
門外漢の僭越な感想であるが、本書によって確率理論が様々な学問の境界を越え、統合学問的研究であるような気がしてきた。最近、話題にされることが多い、いわば「統摂(consilience)」への実践がそれである。著者が取り上げている確率理論に目を向けると、確かに、各分野の孤立的な発展を追い求めてきた近代学問の限界を乗り越えようとする姿勢を読み取ることができる。実に、本書は、数学、統計学はもちろんのこと、経済学、論理学、社会思想など、幅広い分野を横断しているのである。
また、本書によれば、確率理論が、教室や象牙の塔に閉じ込められた理論や概念ではなく、天気、恋愛、株式、保険、賭博、売上げなど、われわれの日常生活のいたるところ、度々遭遇する事柄や、具体的現象と結び付けられている。不確実性と選択の行為には、可能性の数値を‘比率〔比〕で確定する〔確〕’確率が、必ず付きまとってくるということである。もちろん、確率の計算の結果のまま行動するか、あるいは確率に反するにもかかわらず、気ままに行動するかは各個人の思い次第で決める問題だけれども。
果たして人々は、当たりやすさは同じなのに、くじを引く時に、人より先に引こうとして大騒ぎを起こしたり、確かに不幸の予感がするにもかかわらず、欲望に目がくらんで無理な賭けをしたりもする。いかに緻密な計算で正確な予測を提示しても、確率は指標であるだけで規範ではない。このように確率をめぐって人間の行動や心理を覗き込めることも、本書を読む妙味の一つである。
しかし、本書について、何よりも興味深い点を敢えていくつか挙げるならば、市民の権利を保障するという前提で、車の社会的費用を算出していた宇沢弘文の発想、偏見が差別を生み出すのではなく、差別が偏見を生み出すことを論証した金子と松井のゲーム理論、一番不幸な人に一番有利な分配が与えられるべきだというロールズの社会原理などである。計算の正確さそのものよりも、いかなる前提によって、いかなる発想で計算を遂行するのかが大事であるとしたなら、確率理論で資本主義の矛盾と問題点を解明し、代案を提示することができるということに深い感銘を与えられた。さらに、本書全体に一貫している著者の挑発的問題意識が際立つ。とりわけ、過去の責任を論じる部分は、日本の進歩的知識人に現れる姿勢を非常に明らかに表明していると思われる。
最後に、私の経験から言うと、数字に弱い人、計算の苦手な人、数学と言われるだけでうんざりして首を横に振る人でさえも、何ら苦痛を味わうこと無く、本書のページを捲ることができる。本書には回避すべきリスクがない。

2008年2月3日 金京媛

ぼくの本の趣旨をなんとよく捉えてくださっていることか。そして、なんと魅力的に紹介してくださっていることか。とりわけ、最後の一文のユーモアは抜群である。翻訳者だから当然だろう、という人がいるかもしれないが、そうではない。ぼくは、以前、ある人が翻訳した本を熟読して、その本のレポートを書いて、翻訳した人に読んでいただいたことがあったが、「小島くんのレポートを読んで、この本にはそういうことが書かれていたのか、と初めてわかりました』といわれたことがあった。冗談半分として割り引くとしても、翻訳者が本の主張を100パーセントきちんと理解しているとは限らないものだな、とそのとき思ったのだった。そうしてみると、金京媛さんの理解は、この紹介文を読むだけで、ものすごくシャープであることが著者として強く実感される。数学からは縁遠い人のようなのに、それだけにその知性と読解の努力には頭が下がる。
そして、中でもちょっと気になったのが、「とりわけ、過去の責任を論じる部分は、日本の進歩的知識人に現れる姿勢を非常に明らかに表明していると思われる」という部分だ。「過去の責任を論じる」というのは、ぼくが、「確率を未来だけでなく過去にも適用し、未来の最適化だけではなく、終わってしまった過去の最適化、というのも視野にいれるべきだ」とした、ある種の「暴論」すれすれの部分を指している。この翻訳者の指摘は、なんとなく、(アジアにおける) ある重要な「問題」を示唆しているようにも読める。(違うかもしれないけどね)。だとすると、ぼくは、この本を書いたときには、全く念頭になかった(しかし、本の外側では重要な問題と意識している) そういう問題を、翻訳者がぼくの主張から演繹したことになる。そういう意味では、期せずして、原作者と翻訳者とのある種の連携プレイ、もっときわどくいうなら、共犯関係、が成立したということになるだろう。
いずれにしても、『確率的発想法』NHKブックスは、最高の翻訳者を得たわけだ。きっと、韓国語版のほうでは、オリジナル版では舌足らずで語り切れていない部分をも、翻訳者のみごとな文章によって、クリアに読者に伝わるようになっているのではないか、そんな予感がする。
 ぼくは、この本を、ひょっとするとデビュー作の『数学迷宮』(版切れ)を乗り越えた作品になるかもしれない、と感じている。長い間、デビュー作よりも斬新な本を書くことができずに悩んでいたから、この本に対する思い入れは深い。そういう本が、こういうすばらしい翻訳者に出会ったことは、やはり、本の「生命力」なのだろう、と思う。
 最後に、ぼくが韓国の読者向けに書いた序文を引用しておこう。なんとなく、オリジナル版の序文よりもこっちのほうがいいのではないか、とさえ思えてきている。
 

「確率的発想法」韓国版序文
確率は「幸せ」と関係が深い

 韓国の読者のみなさん。はじめまして。著者の小島寛之です。本書が韓国語に翻訳されることは大変嬉しいことです。なぜならば、本書は、ぼくが最も想いを込めた本であり、現時点でのぼくの代表作だからです。サルリム社および翻訳者の金京媛氏に改めて御礼を申し上げます。
 みなさんは、「確率」というとどのようなイメージを浮かべられるでしょうか?
 日本での韓国についての報道で、韓国はとても受験競争の厳しい国だと聞いております。それからすると、韓国国民には、現在の日本国民よりも、ずっときちんと数学を勉強されている人が多いだろう、と推測されます。しかし、そうであってもやはり、というかそうであるからなおさら、「確率」というものに対するイメージは、日本人同様にあまりかんばしくないのではないか、そう想像します。なぜなら、確率を学校教育で教えれば教えるほど、確率嫌いが増える傾向が強くなるからです。学校で教わる確率は、「サイコロを投げる」とか、「ツボから球を取り出す」とか、おおよそ現実離れした設定のものばかりで、多くの学生はその「ただ単にややこしいだけ」の勉強に嫌気がさしてしまうものです。本書でぼくが企てているのは、そのようなみなさんの確率に対するネガティブなイメージを払拭することなのです。
 確率というのは、ある意味で、人生そのものです。
 わたしたちの日常に起きるであろうあらゆるできごとはすべて、確率現象と呼べるものです。明日、大怪我をするかもしれないし、職場を解雇されるかもしれないし、資産を失うかもしれません。このようなリスクは、いうまでもなく確率現象の一種です。また、幸運にだって遭遇することでしょう。明日、大好きな人に告白されたり、宝くじが当たったり、商売に成功したりすることだってあります。これらももちろん確率現象です。このように見れば、確率現象というのは、わたしたちの「幸せ」と密接な関係を持っている、ということを痛感されることでしょう。みなさんは、こういった「人生における幸せ」と「学校で教わる確率」とに関連性を見出すことができますでしょうか。ほとんどのかたは無関係だと思っておられることでしょう。しかし、このような「人生における幸せ」について考えるのにも確率の知識は有効なのです。ただ、そのためには、学校で教わった確率そのままの形では通用しません。本書は、「学校の確率」からスタートしますが、それを上手に改良して、わたしたちの人生を考える道具に仕立てて行きます。
 二つほど例を挙げてみましょう。韓国では、昨年末に、大統領選挙という重要な政治的イベントがありました。「選挙によって誰が大統領に選ばれるか」、ということには、たくさんの確率現象が関わっているといえます。なかでも選挙において最も不確実なことは、「他の有権者がどう考えているか」、ということでしょう。多くの有権者は、「自分が誰を大統領にしたいか」、を考えるのはいうまでもありませんが、その上で、「他の多数の有権者が誰に投票するか」、それも予想し、最終的な投票の意思決定をすることでしょう。このような「他人が何を考えているかを推測する」というものを一種の不確実現象として捉える、ということが、最新の確率理論によって可能になりました。このことは、第6章に書いてあります。
 また現在、アメリカの住宅ローンに端を発した「サブプライムローン問題」が、世界中の金融システムを揺るがしています。みなさんも毎日報道される株価の暴落に注目されていることと思います。これは、アメリカの破綻の多い住宅ローンを組み込んだ金融商品のリスクをきちんと評価できないことから起きている混乱だといわれています。このような特殊な金融商品が引き起こす世界同時株安などの現象は、これまでの確率理論ではうまく説明することができなかったのですが、最新の「ナイトの不確実性」理論によって、ある程度、本質が解明されるようになりました。「ナイトの不確実性」とは、「確率のわからないような不確実性」のことであり、本書では第5章で詳しく解説しています。
 このような「わたしたちの人生」や「わたしたちの幸せ」と最も関係が深い数学知識である確率理論と、本書によって、みなさんが慣れ親しんでいただけることを、著者として切望しております。
                       2008年 2月 小島寛之