孤独な数学少年

 芹沢正三さんから、新著を献本いただいた。それは以下。

数論入門―証明を理解しながら学べる (ブルーバックス)

数論入門―証明を理解しながら学べる (ブルーバックス)

今回は、数論をまっこうから書いてくださったようで、またまたすばらしい本に仕上がっている。芹沢さんとは、サイエンスライター吉永良正さんを仲立ちにして知り合い、(とはいっても手紙だけの間柄で面識はないが)、お互いに新著を献本しあう仲である。ぼくは、中学生のときから、芹沢さんの本にお世話になっている。ぼくが数学の世界に迷い込んだのは、ある意味、芹沢さんのおかげ(せい?)だといっていい。だから、芹沢さんの知り合いになれたのは、光栄至極である。
 ぼくは、中1のとき、数学に目覚めた。
忘れもしない、学年の合宿旅行に行ったとき、山歩きの途中で数学教師といっしょになり、そのとき教師は、「小島、素数を作る式を発見したら、ノーベル賞だぞ」といったのだ。ぼくは、「なんだ、簡単なことでノーベル賞が取れるんだな」と思って、それから1ヶ月の間、寸暇を惜しんで素数ばかりをいじくっていた。素数が夢にまで出てくるようになったが、うまい式はみつからなかった。結果的に、これは実は非常に難しい問題かもしれない、という嫌な予感を持った。この教師に二重の意味で騙されたことを知ったのは、その直後である。第一に、「素数を作る式」というのは、2千年も考え続けられてきた問題で、未だに解決していないこと。(実は20世紀のマチアセビッチが発見しているが、変数が多すぎて実用的ではない)。第二に、ノーベル数学賞というのは存在しないことである。これを知ったときは、「やられた」と思ったが、もうすでに遅かった。ぼくは引き返すことができなくなっていた。
 それからぼくは、素数や数論に関する初等的な本を探し回っては、見つけるとむさぼるように繰り返し読んだ。ぼくにとって、最も影響の大きかった本は、以下の本で、これは芹沢さんの翻訳によるものだった。
ゼロから無限へ―数論の世界を訪ねて (ブルーバックス)

ゼロから無限へ―数論の世界を訪ねて (ブルーバックス)

ぼくは、この本に取り憑かれたようになった。この本ほど繰り返し読んだ本は他にないだろう。ページをめくるたび、そして、そこに書かれている「整数の性質」を読むたび、胸がドキドキして、まるで恋をしているような気分になった。この本は、0の話、1の話、2の話、・・・、9の話、と続き、そのあと自然対数の底eの話が挟まり、最後の∞の話では、カントールの無限集合論を紹介している。とりわけ好きだったのが、3の話での素数の紹介、4の話での4平方数定理の紹介、5の話でのオイラー分割数と母関数の紹介、そして最後の無限集合論であった。ぼくは、フェルマーの真似をして、この本の余白に、自分の発見した(とても稚拙な)法則を書き込んだりした。
 そのあとに手に入れて、とても好きだった本が、ク・セ・ジュ文庫の数学書だった。これは、フランスの文庫を翻訳したシリーズで、とりわけ、社会や思想系に名著が多い。ぼくが読んだのは、イタール『整数論』とボレル『素数』だった。どちらも素敵な本で、やはりぼろぼろになるまで読んだ。後者は、芹沢さんの翻訳である。
Q272・素数 (文庫クセジュ 272)

Q272・素数 (文庫クセジュ 272)

著者のエミール・ボレルという人は、ボレル集合(開集合の族)などに名を残す天才数学者であるから、こういう人が、中学生にも読める数学書を書いてくれている、というのは、さすが数学大国フランスだと、今にして思えば、拍手喝采である。
 しかし、この後が困ったのだ。
なぜなら、このあと、中学生のぼくが独力で読んだり勉強したりできる本はほとんどなかったからだ。「いかなる自然数nに対しても、n以上2n以下には必ず素数が存在する」というめっちゃめちゃ素敵なチェビシェフの定理の証明が知りたくて、内山三郎『素数の分布』というのを買ったけど、自然対数関数とその微分積分を駆使する何ページにも及ぶ証明は、中学生にはとても歯がたたなかった。かといって、それを噛み砕いて教えてくれる教師も身近には存在しなかった。最初に出てきた数学教師は、一応、数学科の卒業生であったけど、ちょっとたつと、正直、中学生のぼくのほうが、数学を理解する力が上になってしまっていた。ぼくに理解できない証明が、その先生に理解できようはずはなかった。
 こんな風に、ぼくは、「孤独な数学少年」になってしまったのだ。もうちょっと、詳しくいうと、「数学」と「レイブラッドベリ」と「キングクリムゾン」に首っ丈だけど、どこにも活路がみつからない孤独な少年、という感じである。
 興味を持った整数論にも、無限集合論にも、ガロア理論にも、ゲーデルの定理にも、さきほど挙げた本たち以外に、適切な教科書はみつからなかった。本当は、急がば回れで、コツコツと高校数学、大学初級の数学と、独学で進んで行くべきだったのだろうけど、当時のぼくは、ただただ憧れに早く触れたいという気持ちが空回りして、時間の浪費をしていた。この浪費は、あとあとのぼくの人生を考えると、(悪い意味で)非常に本質的な役割を担ってしまったと思える。あの頃、芹沢さんの今回の本『数論入門』が出てくれてればなー、と思う。この本には、「平方剰余相互の法則」とか、「フェルマー・ペル方程式」とか「ガウスの整数」とか、当時のぼくの焦がれていた内容が満載で、しかも、平明に解説してあるからだ。あるいは、
素数入門―計算しながら理解できる (ブルーバックス)

素数入門―計算しながら理解できる (ブルーバックス)

とか、はたまた、芹沢さんの訳した
現代数学の考え方―だれにもわかる新しい数学 (1981年) (ブルーバックス)

現代数学の考え方―だれにもわかる新しい数学 (1981年) (ブルーバックス)

とかが、刊行されて、中学生だったぼくが読むことができたら、ぼくの人生は(良し悪しはともかく)だいぶ別のものになっただろう。

 そんなわけだからぼくは、数学書を書くようになってから読者として意識しているのは、「中学生のときのぼく」である。つまり、編集者用語でいうところの「想定読者」と考えているのは、「孤独な数学少年」たちであり、ぼくは常に、「中学生のときのぼくこそが読みたかったような本」を書くように心がけているのである。
ところが、最近、このスタンスに迷いが出てきてしまった。なぜなら、「孤独な数学少年」なんて、いったい世の中に何人いるんだろう、という疑問が浮上してきたからだ。ぼくの数学本を読んだ人のブログやアマゾンの評を読むと、ぼくが「孤独だったぼく」に向けて書いた部分について、「難しすぎて頭がくらくらする」とか「蛇足だった」とか「いったい誰に向けて書いているんだ」とか言われている。それで揺らぎはじめてしまったのだ。そうか、「中学生のときのぼく」のような読者は、ものすごいマイノリティなんだ、そういう対象に向けて書いても、マジョリティを満足させることができないじゃないか、などという迷いである。
 で、今、次の新書を書いているんだけど、それは「数学を使って幸福・平等・自由を語る本」で、そして、「保守的な大人に反抗的で、その上焦がれるほどの数学ファンな中学生だったぼくだったら、きっとウハウハいって読むだろう」本なんだけど、ぐらぐらとその自信の土台が揺らいでしまっているってわけ。
 うああ。どんどん話がそれて、収拾がつかなくなってきてるので、今日の日記はこれまで。結論としては、芹沢正三さんの本は、どれもすばらしいなあ、ああ、中学生に戻りたい、っちゅう、そういうこと。