背理法を使うとき忘れてはならないこと

 週刊東洋経済の9月1日号に載る(はずの)原稿を書き終えた。
 その中に、キドランドとプレスコットノーベル賞を受賞することとなった「動学的不整合性理論」の解説を書いた。(この理論については、週刊東洋経済9月1日発売号をちゃんと買って読んでくださいな)。そこで実は、筆がすべって、よせばいいのに、ちょっと「リフレ派」批判的なニュアンスを書いてしまった。打ち合わせをしているとき、編集者がどうしても書かせたいらしく、何度も焚きつけるので、ついついその尻馬に乗ってしまった、というのが正直なところだ。
「リフレ政策」というのは、不況のときに、中央銀行が「ある目標のパーセントのインフレになるまでは断固貨幣供給を続ける」とコミットして、人々に「インフレになるならモノを買わなきゃ」と決意させて、消費を刺激し、景気回復をはかる政策のことで、「インフレターゲット論」とも呼ばれる。(もちろん、高すぎるインフレ率を下げるときにも、逆方向で用いる)。
 さて、ぼくはその記事の中では、基本的に小野善康さんが『不況のメカニズム』中公新書の中にちらっと書いた反論を、ややゲーム理論寄りに表現にした論理を使った。で、それを書き終えたとき、とても気になることが出てきた。「リフレ」といえばつきものの「バーナンキのなんちゃら」というのがあったなあ、と思い出したのだ。どこかの掲示板か飯田泰之さんの本あたりで見かけた記憶があった。それで検索をかけてみた。まず、Wikiを読んでみた。こう解説してある。

バーナンキ背理法
「もし、日銀が国債をいくら購入したとしてもインフレにはならない」と仮定する。すると、市中の国債や政府発行の新規発行国債をすべて日銀がすべて買い漁ったとしてもインフレが起きないことになる。そうなれば、政府は物価・金利の上昇を全く気にすることなく無限に国債発行を続けることが可能となり、財政支出をすべて国債発行でまかなうことができるようになる。つまり、これは無税国家の誕生である。しかし、現実にはそのような無税国家の存在はありえない。ということは背理法により最初の仮定が間違っていたことになり、日銀が国債を購入し続ければいつかは必ずインフレを招来できるはずである。

これにはちょっと焦った。ぼくの書いていることと食い違ってしまう。普通の経済モデルの感覚でいうと、「インフレが本当に起きるか起きないか」といった推論を整合的に取り込んだモデルを作れば、多かれ少なかれコモンノレッジの様相が現れて、「自己実現的な」複数の均衡が生じるはずなのだ。(コモンノレッジによる自己実現的な均衡についての詳しいことは、拙著『数学で考える』青土社を参照のこと)。なぜ「誰もそれを信じず、インフレなど起きない」という均衡が、何の追加的条件もなく消えてしまうのだろう。焦ったぼくは、検索を続けたが、この「バーナンキ背理法」に関する反論がみつからない。これは絶対の真理なのか?東洋経済の原稿にストップをかけないといけないのか?
 でも、がんばって細かいものを丹念に読んでいるうちに、池田信夫さんがどこかでコメントしている反論に出会い、なるほどそうだね、それだね、と溜飲が下がった。ゲーム理論的に納得できる直感(決して、プラクティカルとかいう意味ではなく、あくまで整合的な標準理論として、ということ)が手に入ったので、安心し、原稿にはストップはかけなかった。
ここでは、ぼくの溜飲の下がった(ゲーム理論的ミクロモデルの)結論の詳細は書かない。かなり理論的にテクニカルなことになって面倒だからだ。(というより、ちゃんと緻密にモデル化してないからあくまでアバウトな直感だし)。でも、一度溜飲が下がり、落ち着きを取り戻すと、直接の批判ではないけど、みんなも知っておいたほうがいいだろうな、と思う背理法で起きがちが誤謬」のことに思い当たったので、そちらのほうを書いておくことにする。けっこう知られていない背理法の誤謬が、読者にちびっとぐらいは有益だろう、と思うからだ。まず次の「迷題」を読んで欲しい。

(迷題)
最大の自然数は1である。

(証明)
最大の自然数をMと記す。
Mが1ではない、と仮定して矛盾を導こう。
Mが1でない自然数とすれば、Mの2乗はMより大きい。
したがって、Mより大きい自然数が存在するので、Mは最大の自然数ではない。
これは矛盾である。
よって、最初の仮定が間違っており、M=1が証明された。

(念のための註:1以外の自然数Mについて M

以上は、数学者・寺坂英孝の名著『綜合初等幾何学』で読んだ「数学でよくやる誤謬」の例であり、「存在しないものを扱って背理法をする怖さ」を示したものだ。寺坂さんがこれを注意したのは、有名な「等周問題」の次のような証明においてである。(記憶をたどって書いているので、そのままの表現ではないことをお断りしておく)。

(定理)
一定の周を持つ平面図形で面積が最大のものは円である。

(証明)
最大の面積を持つ図形をMとし、それが円でないと矛盾することを示す。
まず、Mは凸図形である。そうでないなら、へこんだ部分を裏返して
面積を大きくできるからMが最大の面積を持つことに矛盾する。
次にMの周を二等分するような二点AとBを打つ。このとき、線分ABで分けられた
二つの図形はどちらも同じ面積でなければならない。
もしちがっているなら、小さい面積の図形のほうを大きい面積の図形に
作り直してMより面積の大きい図形が作れるから矛盾である。
したがって、周の半分の長さを持つひもABで図形をつくり、ひもと線分AB
で囲んだ凸図形の面積だけで考えれば十分である。
このような図形で面積最大のものについて、ひも上の任意の点Pについて、
角APBは90度でなければならない。そうでないなら、APとBPにひもをくっつけた
まま三角形PABだけが変化するように図形を動かして、角APBが90度になるようにすれば、
ひもで作った図形の面積をもっと大きくできるからである。
(PAとPBが決まった三角形で面積が最大のものは角APBが90度のもの)
さて、定点AとBについて、任意の点Pに対し常に角APBが90度であるような図形は円である。
以上によって、Mが円であることが証明できた。

寺坂さんは、この証明が間違い(というより、不完全)であることを、先ほどの「迷題」を使って指摘したわけだけど、この「迷題」の間違いを理解できた人なら、上記の定理の証明の間違いも理解できるだろう。ちなみにこの定理自体は正しい定理であり、この証明に欠けている部分は、別の技法(例えば、コンパクト集合上の連続写像あたり)で埋めることができるが、めっちゃハードなことになることは疑いない。

そんなこんなを考えていて、昔、大学院に在籍している頃、ぼくが自分の思い描く経済モデルの直感を述べると、先生方が、「それって、均衡が存在するの?」とすかさず釘を刺してくれたことを思い出した。当時はあまり気にならなかったが、「存在証明」というのは、少なくとも数学的には、めっちゃ大事なんだなあ、と再認識した今日であった。