世界を読みとく数学入門

 明日あたりから、ぼちぼち、ぼくの新著が並び始めるので、ここで告知しておこう。
タイトルは、『世界を読みとく数学入門〜日常に隠された「数」をめぐる冒険』角川ソフィア文庫

これは、2003年に刊行された『数学の遺伝子』日本実業出版の文庫化で、ぼくにとっては、単著の初の文庫である。(監修本ならすでに文庫がある)。
文庫化といっても、相当に筆を入れてあるので、かなり違う読後感を与えることと思う。「そうやって騙して、元本を読んだ人間にも買わそうとしてるな」とかんぐってると思うが、そりゃ、まあそうで、下心みえみえなんだけど、でもそういわず、ちょっと聞いて欲しい。
ぼくは、元本を書いたとき、執筆人生でただ一回のきょーれつなスランプに陥った。その経緯は、文庫のあとがきで読んでもらいたいが、とにかく、あれほど原稿が書けなかったのは初めてだった。だから、元本のほうは、内容には自信があったんだけど、文章とか構成とかではいろいろ失敗をしていた。何より、全体に、「スランプだよ〜ん」という暗いムードが漂いまくっていたのが嫌だった。( 読者は気づいてなかったかもしれないんだけど)。だから、今回の改訂では、思いっきりリベンジをしたかったのだ。そんなわけで、単なる文庫化とはレベルの違うめちゃめちゃ大変な改訂作業を行った。時間が限られていた中でだから限界はあったけど、とにかくそこそこに納得できるまでがんばって書き換えたのだ。そして、その改訂作業に、東大物性研究所准教授の加藤岳生くんが真摯に助っ人をしてくれた。おかげで元本でのいろいろな誤りや解釈違いを修正することができ、その上、新しいエピソードを付け加えることができた。例えば、ゼータ関数の話では、カシミール効果という物理現象との関係を導入することができたし、最後の量子コンピュータがRSA暗号(ネットのパスワードとかに利用されている暗号)を打ち破る、という「ショアの定理」のおおざっぱな証明方針も、元本よりずっとわかりやすく改良できた。(加藤くん、ありがとう、持つべきものは物理学者の親友だ)。そういうわけで、今回の文庫化で最も嬉しかったのは、「スランプでない自分」で書けた、ということなのだ。
 しばらくは、このブログで、この本のキャンペーンを張っていく予定だけど、第一弾の今回は、まずは序文をさらしておこう。実は、元本は台湾版と韓国版がすでに刊行済みなんだけど、この序文は韓国の読者向けに書き下ろした序文をアレンジしたもので、元本とは完全に異なるもの。

    数ってスゴイ! だって、数を使えば、世界をナビゲートできるのだ。
 もしかして、あなたは、数とか数学というものに、これまで相当に苦い思い出をお持ちじゃありませんか?「分数でつまずいた」、「無理数が悪夢だった」、「虚数に出会うまではなんとかしのいで来たのに」・・・ はい。その気持ちよくわかります。そんなトラウマのせいで、あなたが数とか数学といったものに対して、すこぶる印象を悪くしてしまった不運には、心から同情いたします。だって、これは「学校数学」という特殊分野の弊害なんですから。
 現代の学校数学は、人間生活にとっての基礎的な知識を育む、といった本来のあり方を逸脱して、子どもを競争させて甲乙をつけるための熾烈な競技場と化してしまいました。そのせいで多くの人は「勉強というのは受験のためだけのもの」と思いこんでしまい、数学を、「ひどく面倒な操作を忍耐強く覚え、いかにそれを素早く正確に実行できるかを競うゲーム」だと誤解してしまっていると思います。そういう人は、受験が済んだら、数学を忌々しい過去として忘却のかなたに葬ってしまう(しまった)ことでしょう。でもそれはとても残念なことです。なぜなら、数学は、人間の日常生活や思考様式から切り離すことができないくらい、人間に密着したものだからです。数学は怖いものでも、難解なもの、無用の長物でもないのです。むしろ数学は、この世界を豊かでファンタスティックに見せてくれるパノラマなんです。
 私たちは、ものごころついたときはすでに「数」を知っていて、「数」を操作しています。それは、「数」が私たちにプレインストールされている証拠です。そうして、学校で教わる中で「数」は、「整数」、「分数」、「無理数」、「複素数」と、着々と進化を遂げていきます。ともするとこのことは、「だんだんゲームの難度を高めて、負けた子どもを振り落としている」、と受けとられ、気分を滅入らせる原因となるでしょう。でも、これは正しい受け取りかたではありません。そうではなく、次のように受けとるのが正しいのです。つまり、「数」の進化は、人間のコミュニケーションの道具が、「会話」、「手紙」、「電話」、「eメール」、「携帯メール」という風に進化して来たことと全く同じ、ということです。
 これらは、ことばを伝えるメディアの技術進歩を表しています。人間に本来備わっている「ことばでコミュニケーションする能力」を活かすべく、ことばを伝える新しい道具がどんどん開発された、ということです。技術そのものは難しく高度になっていっていますが、それは人間の持つ「人とコミュニケーションしたい」という本来的な欲求をかなえるための必然であったのです。「数」の進化も、実はそれと全く同じなのです。人間に生来備わっている「数認識」というものを上手に活かし、人間の「自然界の営みを理解したい」という本来的な欲求をかなえるために、「数」は必然的に進化して来た、といえるわけです。「数」は、自然界や社会と私たちをつないでいます。私たちは誰もが、現代生活の中で、常に「数」にアクセスしているといえるのです。そう考えれば、「受験に成功するために仕方なくつきあうもの」という拒否感から脱出することができると思います。
 この本のウリは、「数」の進化と人間の認識の進化をオーバーラップして語ることです。整数の章では、コンピュータ・テクノロジーと、分数の章では、不確実性のコントロールと、無理数の章では不確実性を一歩進めたカオスや複雑系と、そして虚数の章では、ミクロの物質・量子たちの力学と、オーバーラップさせます。「数」がわたしたちの世界といかに活き活きとリンクしているかわかることでしょう。この本のもう一つのウリは、最初の章と最後の章に暗号技術の話を配置していることです。具体的には、現代のIT技術欠かせないRSA暗号とそれを打ち破る量子コンピュータの仕組みの解説です。現在のインターネット上のさまざまな情報交換やネットビジネスにおいては、RSA暗号は欠かすことのできない日常の道具になっています。これはまさに「数」のテクノロジーで成立しているのです。でも、近い将来、量子コンピュータが開発されれば、これらの暗号はすべて破られてしまいます。その原理もまた、「数」のテクノロジーなのです。
 この本によって、読者の皆さんが、人間が生まれつきもっているはずの「数を使って世界をナビゲートする」という感覚を思い出してくだされば本望です。