数学のフィロソフィー
今並んでいる『現代思想』2008年11月号は、テーマは「<数>の思考」、要するに整数論の特集なのだ。「現代思想」という雑誌の性格上、かなり冒険的な特集だと思う。ぼくは、企画段階でちょっとアイデアを出し、あとは数論専門家の黒川信重さんの聴き手を務めた。
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伴さんの論説は、数論を含む代数学で欠かすことのできないツールである「ガロア理論」について、できる限り平明な解説を試みたものである。しかも、ぼくが知っている限り、このような視点でガロア理論を解説したものは皆無といっていいほど、フィロソフィーがある解説だ。ガロア理論については、ガロアの定理をわかりたいならば - hiroyukikojimaの日記でもちょっと解説したけど、薄命の天才ガロアが発見した理論で、5次以上の方程式には、システマテックに解を求める手続き(詳しくいうと、係数の四則演算と2乗根、3乗根などのべき乗根だけで解を求める手続き)が存在しないことを証明した方法論だ。伴さんの論考は、その証明のおおざっぱなあらすじだけではなく、むしろ、そこに潜むフィロソフィーを解説しているのが、あまりに画期的なのである。
たとえば、高校数学ではほとんど解説されない次のような事実を挙げている。
複素数を考えるときにはしばしばー1の平方根を一つ決めて、それを虚数単位 i で表します。(中略) 。むろん、はじめに決めたー1の平方根 i には選び方が二通りあり、しかも二つの平方根は区別がつかないので、私が決めますといった i とあなたが決めますといった i が一致するかどうか判断することもできません。しかし、 i を決めてしまえば、二つの平方根のうちどちらを i としていたかに関わらず同じ数学が展開されます。(中略) 。i を決めずに議論を続けていくうちに、一方を i として決めた数学と他方を i として決めた数学が二重に重なって現れるということまで起こります。
そして、このことがガロアの定理を理解するために、もっとも重要な視点であることが明らかになってくる。それは以下の文章でわかる。
実数からその正体であった順序を取り去ってみたらどうなるでしょうか。すると案の定実数は有理数から一通りに決まりません。それどころか、有理数から見ると実数は区別のつかないものだらけなのです。
この視点に立てば、√3とー√3は、どちらも2乗すると3になる数であり、有理数からはせいぜい掛けるとー3で足すと0になることくらいしかわからない、ということになります。2数の区別は実数の順序によってなされていたのだから、さもありなん。(色強調は、ぼくによる)
伴さんの論考では、2次方程式の解というものが、(実数の順序構造を無視する場合)、2乗がいくつ、和がいくつ、積がいくつ、という情報しか与えていない、というフィロソフィーを与えている。それはまさに「対称性」であり、だとすれば、「解を入れ替える」ということの効果を見る必然性が生まれてくる、ということになる。引用を続けると、
この「区別がつかない」は「交換しても有理数からはわからない」ということで、解の持つ対称性として理解することができます。αとβを交換するというのは、α、βと呼んでいたものを名前を付け替えてβ、αと呼び直すことです。また、「対称性」という言葉は唐突かもしれませんが、「左右対称」が「左右を入れ替えても分からない」という交換可能性と説明されることに注意すれば納得できるでしょう。
あまりにすばらしいフィロソフィーなので、全文引用してしまわないうちに、笑い、この辺でやめておこう。このように伴さんは、解を入れ替える必然性を与えた上で、まさにそういう「何が区別がついて何が区別がつかないのか、ということが、ガロア理論の本質である」、ということに展開して行く。このような視点、というか、フィロソフィーからガロア理論を見れば、それが位相幾何学における被覆空間の理論に発展することは「なるほど」と理解できる。というか、「まるで同じことじゃん、大感動!」となること請け合いである。(←あまり、真に受けないよーにね)。まあ、詳細は、伴さんの論考で読んで欲しい。
位相空間の被覆空間のガロア理論は、とてもこのブログには書けないが、( だって、図を入れるスキルがないし。とほほ)、それを知りたいなら、次の名著がある。宇沢先生の親友であった数学者・久賀道郎の『ガロアの夢』日本評論社である。
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実は、伴さんとは、一時塾の同僚であった。そのとき、ぼくは中学数学の主任として、テキストをすべて創っていたのだが、その仕事で何度も伴さんと議論した。当時はまだ、伴さんが生意気な若造大学生にすぎなかったが、シャープにしてディープなフィロソフィーを持っていて、不覚ながらぼくは大きな影響を受けた。彼との議論の中で、ぼくの数学や数学教育についての考え方に、大きな変革がなされたのである。持つべきものは、無礼千万ながらフィロソフィーのある若造の同僚である。
吉田さんの論考にも、非常に貴重な、というか、スリリングな数学についてのフィロソフィーが満載である。この論考は、彼が専門の非可換類体論というものについて解説をしたものだが、ところどころに、吉田さんが、若いなりにも数学界の現状をどう感じているか、ということが書かれている。例えば、次に引用することなど、「わかいみそらでそんなこと言っちゃっていいの?」というような際どい発言である。
貴族が暇潰しで数学をやっていたフェルマーの時代と違って、今は一般庶民の我々が大学教授とか偉大な学者とかいうステータスを目指して研究するのだから、いきおい業績や名誉にこだわることになる。この重要なアイデアは誰々によるものだ、といったクレジットにみんな神経を使う。実際は数学のアイデアなんて、数学者どうしが会話をしたり講演を聞いたりしているうちに何となく凝集している。その宙に浮いているものをほとんど無意識にアンテナで受信して、それをもとにいろいろ計算してみると何かができる、といったようなもので、個人の所有に帰することに何ほどの意味があるのか、とも思う。逆にだからこそ個人の名誉にこだわる文化になってしまうのかもしれない。
うーん、すごい。若いからゆえの冒険的な発言ともいえるが、ここに吉田さんのある種の「数学のフィロソフィー」があるのだ、と思う。今ぼくは、ある論文集に投稿するために、「社会的共通資本としての数学」という論文を書いているのだが、吉田さんのいいたいことはまさにそのまま引用できるほどだ。数学は、社会の共通の財産であり、個人に帰属するものではなく、また、私的利益のために利用していいものではないのではないか。吉田さんのこの論考にも、数学の解説を含めて、パズラーたちとはちがった「数学のフィロソフィー」が溢れている。特記すべきことは、伴さんも吉田さんも若いみそらで文章が上手である、ということだ。実にうらやましい。
この「数学のフィロソフィー」ということばは、先日、友人の数学者と話したときに彼の言ったことばである。彼は、かなり大きな難問に取り組んでおり、かなりぎりぎりまで追いつめているとのこと。だが、細部で、ぎくしゃくが起きて、なかなか「落ちて」くれないのだそうだ。彼は、そこで「方法論は、数学のフィロソフィーとしては間違いないのだけど、細部でワークしないところがある」といっていた。難問が解ける最後の段階で経験する苦悶なのだろうと思う。
ぼくは、経済学者となった今、数学そのものより、数学のフィロソフィーに関心がある。それは、明らかに経済理論の研究にも活かせるものだからだ。ぼくの数学のフィロソフィーは、いまや、数学に内在するものではなく、数学がその外部の自然や社会とどういうリンクを持っているか、ということである。その問題意識を現段階で追求した本が、ぼくの新刊本『世界を読みとく数学入門』角川ソフィア文庫なのである。(これだけがいいたいだけなのに、こんなに書いてしまったじゃないか・・・)
世界を読みとく数学入門 日常に隠された「数」をめぐる冒険 (角川ソフィア文庫)
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