数学への恋心

 今週末に、数学者の黒川信重先生と二度目の対談をする。
 一度目は、数学のフィロソフィー - hiroyukikojimaの日記で書いた通り、雑誌『現代思想』での数論の特集号でだった。今回は、雑誌ではなく、書籍を作ろうという企画である。リーマン予想誕生150周年を記念した本の予定なのであるが、黒川先生は、リーマン予想解決の直前本になるだろう、と驚くべきことを言っている。まあ、黒川先生も加藤和也先生も、かなりおちゃめな人なので、発言についてはジョーク部分をだいぶ割り引いて受けとらなくてはならないだろう。
 黒川先生が、リーマン予想解決の鍵になるであろう、といっている「1元体(F1)上の数学」というのが、今回の対談の話題の中心となると思うので、ほんのちびっとだけは話について行きたい、という思いから、その要となる「スキーム理論」の入り口のところを勉強してみた。スキームというのは、「代数幾何学」という分野において、グロタンディークという天才が独力で打ち立てた遠大な抽象理論である。何冊かの解説書で読んでみたのだけど、こっれがまた歯が立たない。めちゃめちゃ抽象的で、いったい何のためにそんな険しい道を上らなくてはならないのか、とへこたれてしまうほどである。
 実は、数学科に在籍していた若造時代、数論を専攻したいと考えていたので、当時にもスキーム理論を修行しなくてはならなかったのだが、やはりその抽象性にへこたれて投げ出した前科がある。30年弱経過した今も、その修行の辛さは変わらない。ただ、その頃に比べて、今回はずいぶんわかるようになった部分もある。細かい機微を理解できないのは同じなのだが、おおまかに何をしようとする理論なのかは、ぼんやりとわかるようになったのだ。「ああ、高次連立方程式の解を図形として扱うとき、各点を極大イデアルとして扱うのは自然なんだな」とか「でも極大イデアルは扱いにくいところがあるので、むしろ、素イデアル全体を扱ったほうがいいのだな」とか「素イデアルに位相を導入して幾何的に見ることが有力なんだな」とかそんな漠然としたイメージはつかめるようになったのである。それで、どうして今はそんな風になったのか、ちょっと考えてみた。そこではたと思ったのは、「数学への恋心のありかた」が変わったんじゃないか、ということだった。
 ぼくは中学1年生のとき、同時に二つの恋をした。一つは数学への、もう一つは、ある女子への恋である。そして、その女子への恋は五年間ほど継続し、数学への恋はもうちょっと長く続いた。
 その女子は、医者の娘で、中学生になってから我が町に引っ越してきた。明らかに、ぼくら下町の少年少女とは、考え方もものの見方も、そして匂いそのものが違っていた。美人で、早熟で、頭がよく、字も絵も音楽も得意で、おまけに政治的でとある政治運動に参加していた。(だいぶ昔、東大生が内ゲバを阻止した話 - hiroyukikojimaの日記にその辺の政治の話を書いた)。ぼくは、彼女の「字」が欲しいがために、「数学班」という交換ノートのグループを組織して、すぐに彼女を勧誘したが、「数学は嫌い」、と言われて、慌てて「文学班」に鞍替えして、彼女に参加してもらった。それが、ぼくが文学に触れるようになったきっかけだった。思い出すだに不純な接触の仕方であった。その交換ノートを情報源にして、ぼくは、彼女の読んだ本を読み、聴いている音楽を聴いた。そんな風に、ぼくは一方的に彼女への自分の思いを募らせていったのだが、ずいぶんたったあるとき、彼女にこんな趣旨のことを言われた。つまり、「自分はあなたが思っているようなタイプの女の子ではない」という風なこと。たぶん、ぼくの恋心の終わりに近い局面だったと記憶している。そのとき、ぼくは女子のいわんとすることがわからなかったのだが、今はとてもよくわかる。そう、ぼくは彼女に「こうであって欲しい女の子」のイメージを身勝手に押しつけていたのだと思う。彼女の人間としての実像を理解しようとはせず、自分の恋心の偶像を彼女にかぶせていたにすぎなかったのだ。だとすれば、彼女にはとても迷惑だったろうと、今では申し訳なく思う。
 回り道が長くなったが、ぼくがいいたいのは、その「身勝手な恋心」というのを数学にも抱いていたに違いない、ということだ。
 ぼくにとっての数学は、中1のときにフェルマー予想に、そして数論に恋心を抱いた、そのありかたのまんまで進歩をしなかった。本当の数学は、生臭くて、厳しくて、わがままで、冷酷な、そしてだからこそ進化していく実体であるにもかかわらず、ぼくは数学科に進学してもまだそう見ることができなかった。ぼくの中で数学は、いつまでも、ロマンティックで美形で心優しくて妖艶なもののままでいた。だから、思うように勉強できず、理解もできず、かといって諦めることもできなかったんじゃないか。今ではそう感じられる。その証拠にぼくは、大学1年のときの特別講義で、セール『数論講義』の輪読に出席しようとでかけたとき、教員が「数学セミナーなんか読んで数学やろうと思った人はお帰りください」と酷いことをいうのを聴いたとたん、一人だけ退出した。また、数学科では、「数論をやりたいなら代数幾何とか保型形式とかを勉強しなさい」と教官にいわれたのに、「古典理論」にこだわって勉強しようとしなかった。今思えば、その代数幾何と保型形式が憧れのフェルマー予想を解決したのだから、教官のいうことが正しかったのだ。けれども当時のぼくは、自分の「身勝手な恋心」にこだわった。そして、実体の伴わない恋は、終わりをつげることになったのだ。
 今回のぼくの俄仕込みの勉強で、それなりの成果を得られたのは、もう数学がそういう「身勝手な恋心」の対象ではなくなったからなんだと思う。今のぼくはひどく冷静に数学を値踏みすることができている。それなり美しいし、みごとなものだけれど、それ以上の対象ではない。ミニスカでニーソックスの女子は、眺める分にはいいが、ぼくが焦がれた女子とはぜんぜん次元の違うものだというのと似ている。(どういう喩えじゃね)。
 ただ、それだけ、というのでもなく、数学の専門書というのが、当時とはずいぶん変わった、というのも大きいと思う。当時の数学書は、ただただ事実を列挙したようなものが大半であったが、現在では、とても親切で、わかりやすく、イメージを与えてくれて、情念もこもった数学書、というのがけっこう刊行されているのだ。スキーム理論も、上野『代数幾何1』、石田『代数幾何学の基礎』、小林『代数幾何学入門講義』の最初のほうを読んだのだけど、それぞれが「著者にとってのスキーム理論への想い」のようなものを込めてくれていて、得るものが大きかった。
 スキーム理論の本ではないが、加藤・黒川・斉藤『数論1』はあまりに衝撃的傑作であった。

数論〈1〉Fermatの夢と類体論

数論〈1〉Fermatの夢と類体論

今回の対談の参考になれば、と読んだのが、途中からわくわくしながら読み進む自分に気がついた。久しぶりの感覚だった。数論はおろか他の数学分野でもこんな風に書いた数学者は皆無だと思う。とにかく、すべてが画期的だ。普通の数学書は、定義→例→補題→定理→系→定義→例→補題→定理→・・・と進んで行くのだけれど、この本は全くそういう標準的な構成をとっていない。まず最初に、「数論とはどんな分野かテーマは何か」ということをぶちかましている。そこには、まだ定義していない用語や証明していない定理などが登場するが、とにかく予告編を見せてしまおう、という工夫である。ここだけでわからないなりにワクワクしてくるから不思議だ。それから本論に入るのだけど、定理の厳密な証明はあとまわしにして、その定理がどんな意義をもってるのかを例などを使って先にたっぷり提供する、という工夫をしている。数学書の忌々しさは、「それがいったい何なのかわからないままに進んでいく」というところにある。だいぶ先に行くと、目的が見えてくるのだが、大抵それまでにへこたれてしまう。この本では「山の麓の段階で山の頂上からの風景をとりあえず見せる」ということをしているのだ。その風景をみたからもういい、という人は登山をはしょればいいし、本物の風景を見たい人は登頂すればいい、そうなっている。一般の人にはどうかわからないが、一度専門の数学のトレーニングを受けたことのあるぼくには、この本での略証のパートは、ひどくツボをついている。厳密化したいなら、きちんと本証を追えばいいし、専門家でないからいいや、というなら、美味しい部分だけを試食できるようになっている。
それより何より、加藤・黒川ネオピタゴラス学派の本領である、めちゃくちゃ「踏み外した」説明というのが随所で炸裂しているのがすばらしい。例えば、以下のようなものだ。

たとえば、xの2乗+yの2乗=−1に有理点がないことは、実数の世界に解がないことからわかる。xの2乗+yの2乗=3に有理点が無いことは、実数の光をあてただけではわからないが、素数2や素数3の光をあてれば、これが2進数や3進数の世界に解を持たないことからわかるのである。

この章の題が「ζ関数」でなく単に「ζ」となっているのは、ζ関数を調べていくと「ζ関数は関数以上の何者かである」と感じられるため、あえて「関数」の語を付さなかったのである。

こんなバカな記述をした数学書がかつてあったろうか。ぼく自身も、数学書は、定義→例→補題→定理→系と書くのが一番の型式だと思いこんでいたのだけれど、このすばらしい本を読んで、その固定観念が大間違いであることを実感させられた。物書きとして、本書の書き方に今後大きな影響を受けると思う。
 さて、この『数論1』を若い頃に読んでいたら、ぼくの不遇な数学青年時代は救われただろうか。そういう気もするし、それでもダメだった気もする。それほどにぼくの恋心は、思いこみの激しいものだった。「完全なる失恋」を経験したからこそ、今の感覚を持つことができたのかもしれない。今では、こんなすばらしい数学書を読んでも、当時のような甘酸っぱい恋心は湧いてこない。とてもリアルで効率的な実感を得るだけである。これは寂しいといえば、とても寂しいことだ。世の中に恋することにまさる幸福があるだろうか。その女子のことは、その後しばらくの間、夢で見た。大人になっても幾度となく見た。夢の中に出てくる彼女は、ぼくの身勝手なイメージを体現する女神のままだった。でも、そういえば、このところもうずいぶん彼女の夢は見ていないような気がする。二つの恋は両方とも遠い遠い過去のものとなってしまった。

ちなみに、p進数の文系向け解説と数学に挫折した話は、以下の拙著でご賞味あれ。

文系のための数学教室 (講談社現代新書)

文系のための数学教室 (講談社現代新書)