やっぱり高校生への講義は楽しいの巻

 今日は、茨城県の高校生向けの公開講座をしてきた。興奮さめやらぬうちに感想をば。
 茨城県の開催する「午後のMathematics Cafe」という企画で、県全体の数学に関心のある高校生を対象にした啓蒙的なレクチャーだ。100人もの高校生が聴きに集まってくれた。
 今日のぼくのレクチャーは、「ガロア理論超入門」と「リーマン予想の近未来」をテーマに予定していた。ちょうど、昨日、黒川信重先生と対談して、F1上の数学(絶対数学)とそれを用いたリーマン予想攻略プログラムのお話を聴いたので、それをそのまま現役高校生にフィードバックしたいと目論んでいた。でも、時間がなかった。ガロア理論の話で、ほぼ3時間を使い果たしてしまって、ちょびっとだけしかリーマン予想には触れられなかった。とはいっても、「この予想は、解決に近づいてるはず。それを解くのは、今攻略中の数学者かもしれないし、そうではなく、ここにいる君たちかもしれないし、いや、ぼくかもしれない」などとあおっておいたので、それで成功だったと思う。ぼくが伝えたいのは、数学をすることの意義は、勝ち負けではなく、何か間接的にでもわずかにでも歴史に貢献することにある、ということからだ。
 高校生に講義したのは久しぶりだった。しかも、数学の講義だから、それも久しぶり。今回の講師を引き受けたのは、大学の宣伝業務でも謝金のためでも、ましてやコネ作りのためでもない。純粋に、中高生に講義をするのが好きだし、それはぼくに与えられた何か「使命」のようなものだ、と感じているからだ。そして、その100人の中に、もしも、もしもだよ、「孤独な数学少年少女」(孤独な数学少年 - hiroyukikojimaの日記参照)が1人でもいるなら、ぼくはその子のために全身全霊で講義をしなくちゃならない宿命にあるのだ。その子の眼差しは、何十年も前のぼくの孤独な眼差しだからだ。
 でも、だからこそ、ありていな講義をするのは嫌なのだ。そうである限りは、こっちも何かチャレンジングな、無茶な、無謀な講義を試さなくてならない、と思っている。それこそが、単位にもならず資格にもならず受験に役立つわけでもない講義を聴きに来る高校生への礼儀だと思うからなのだ。一昨年、日本監査役協会というところで、2000人のステイタスな人々に講演をしたけど、もちろん、それもとても良い経験だったのだけど、力の入れ方は申し訳ないけど今日の100人へのほうが何十倍も大きい。それは仕方がない。すでにステイタスがあり、だからこそこれからの成長には限界のある「大人」と、すべて不確定の未来の中で、不安定な現在を生きる高校生とは存在のありかたがあまりに違う。ぼくは、後者には、そういう立場に応えるエネルギーを蓄えて話さなければならない。それが「使命」だと思うのだ。
 それで、今回のぼくの「チャレンジング」は、まず、ガロア理論をぎりぎりまで初等的にしかしエッセンスが伝わるように話す、ことであった。そこで企んだのは、2次方程式の解法と判別式と解の公式だけを使って、ガロア理論のアイデアをコンパクトにまとめる」ということである。もちろん、無茶だ。それはわかっている。でも、だからこそ、やってみたかったのである。このためには、「循環的な議論」もある種の「ごまかし」も必要になる。でも、そこに高校生諸君が、何かの期待感をわくわく感を見いだしてくれれば、あとは自分で溝を埋め、「ごまかし」を越えていけるはずだ。ぼくの仕事は、「渡ってみたくなる橋」を架けることであり、それを渡るのはあくまで彼らの力なのだから。2次方程式でエッセンスを話したあと、それが3次方程式の解の公式とどう関連するかを再現してみる。今度は、ここには「飛躍」が避けられない。基本的には、数学のフィロソフィー - hiroyukikojimaの日記で紹介した数学者・伴くんの解説を援用した。あとは、もうなし崩し的に、4次、5次と行く。そこはもう、ガロアの人生(栄光なき天才たち - hiroyukikojimaの日記参照)の華々しいほどの切なさに頼るしかない。そうやってねじこんでしまった。当然、準備の段階で見落としてしまった数々の失敗が起きた。でも、それはそれでいいのだ。ぼくの経験では、寸分の隙もないような完璧な手慣れた講義をしたときより、チャレンジングだけど失敗だらけの講義をしたときのほうが、子供の満足はぜんぜん大きい。子供には、教師の熱意はそのまま伝わるのだ。それこそが教師をする喜びである。塾の先生をしていた頃、周囲には、「腕自慢」な講師がけっこう多かった。彼らは、根っからの受験問題マニアで、見栄えの良い別解を披露したり、カッコイイ解き方をすることで悦に入っていた。ぼくは彼らがすごく苦手だった。彼らは、そりゃあとても楽しい人生を送っているに違いないのだろうが、ぼくの幸福はここにはない、と感じていた。でも、子供たちはちゃんとわかってくれた。チャレンジングだけど破綻気味の講義をしでかす先生の気持ちをストレートにくんでくれた。ぼくは子供たちから勇気をもらってここまでこれたと思う。当時のぼくの生徒たちには、それは今でもとても感謝している。
 今日、講義を聴いてくれた100人の高校生は、当時のぼくの生徒と同じ瞳の輝きを持って、同じ熱意で、ぼくの講義を聴いてくれているのを感じられた。ぼくは彼らの未来を呼吸することで、ぼく自身の未来を拓くことができる。子供に触れる大人側のメリットはそれだ。そして、とりあえず次になすべきことは、今日のレクチャーの失敗点を改良し、いずれこの手法でガロア理論を中高生に手渡せる本を書く道すじを作ることなのだ。ありえないほど不良で、そのせいでありえないほど不幸に落ちた数学者ガロア少年の、そんなガロアにだからこそ宿った理論は、中高生こそが吸収し、夢を持つべきものだと思うからだ。実は、『高校への数学』東京出版の次号から始まるぼくの今年の連載では、ガロア理論を中学生にレクチャーすることに挑戦する。今日は、そのモニター版という意味もあった。
 今日お話しさせていただいた数学の先生の1人が、「なんとか東京に匹敵する教育をということでこのようなレクチャーを開催している」と、おっしゃっていたが、東京の少年少女だって、そういう点で恵まれているとはあまり耳にしない。むしろ、教員たちの手弁当の努力で、こういう企画を享受できる茨城県の高校生は幸せだとさえ思える。
 おっと、興奮さめやらぬので、こんな書きっぷりになってしまったが、ま、いいか。
 あ、それとついでに。これをもしかして読んでるうちの大学の学生くんがいた場合、君たちへの講義も、もっちろん楽しいからね。経済の講義は経済の講義で楽しいのだ。実はぼくは、経済学を高校生にレクチャーするのには多少のためらいがある。なぜなら。経済学はどうしたって政治的であり、生臭いからである。生ものを食べるのはやっぱり大人になってからでしょうよ。だから、大学生への経済学の講義は、それはそれで楽しいものなのだ。(弁解がましいし、多少のウソもある) 。