資本主義の二つの顔

 プレジデントロイターというところで、ぼくの「ケインズ再降臨!」という連載が始まった。その第1回はhttp://president.jp.reuters.com/article/2009/03/02/A4C5F0AC-03E2-11DE-AB58-C2F93E99CD51.phpである。要するに『容疑者ケインズ』プレジデント社の紹介記事なのだけど、中身の一部抜粋の「ご試食」に加えて、ぼくの特別書き下ろしも掲載される。毎週更新されるらしいので是非ともその都度チェックしてみて欲しい。書き下ろし部分は、刊行後の世界経済のドラスティックな変化を踏まえて、本には書ききれなかったことを補足する、という感じになると思う。

容疑者ケインズ (ピンポイント選書)

容疑者ケインズ (ピンポイント選書)

 とにかく、この経済危機の、急激にどんどん悪化する様子をみるだに、資本主義経済とはどんなものなのか、腕組みして考え込まざるを得ない。
実は、ずっと以前、竹田茂夫さんの『思想としての経済学ー市場主義批判』青土社という本の書評を引き受けて書いたことがある。普通、ぼくは書評は引き受けないのだけど、(なぜなら、少ししか本を読まないし、引き受けてから本を読むのは精神衛生上良くないので)、何かと縁のある青土社の本だったから引き受けたのだ。そのときぼくは、次のようなことを書いた。つまり、資本主義経済には二つの顔があり、それはあたかもジキルとハイドのようなものだ、ということである。そのときは多少違う文脈で言ったのだけれど、今回の世界同時経済危機を見るにつけ、この表現はむしろ今回の問題にこそみごとにあてはまるのでのはないか、と思えてきた。
 今の経済危機を踏まえていうなら、「資本主義の二つの顔」とは、完全均衡と不完全均衡のことである。
通常の経済状態では、働く意欲のある人はほとんど雇用され、機械や設備も最も効率的に稼働している。これが完全均衡であり、ジキル氏の顔をしている。ところが、何かのきっかけで今回のようなおかしな状態に陥る。働く意欲も能力もある人がたくさん失業し、りっぱに動く機械や設備が遊休し、土地やオフィスが余ってしまう。これが不完全均衡であり、ハイド氏の顔である。大事なのは、ジキル氏とハイド氏は、同一人物に現れるけれど全く別の人格であり、ハイド氏のふるまいを理解しようとするとき、ジキル氏の人となりに依拠してはいけない、ということなのだ。書評を書いたときには、ぼくはまだ駆け出しの経済学徒で、単なるかっこいいフレーズとして編み出したことばにすぎないが、そのときに比べれば、今のぼくはだいぶ知識を蓄えており、この適当に口をついて出たことばが、とても経済の本質を突いたことばに思え、思わず自画自賛してしまう。(笑)
 現在の経済危機について、いろいろな議論がなされている。バブルを生み出した金融界への断罪や、経済政策の有効性に関することなど。だが、そういう議論の多くに感じるのは、その根拠をジキル氏のロジックのほうに立脚しているのではないか、ということである。ハイド氏について論じるとき、ジキル氏のときのことはほとんど参考にはならない。それは全く別の人格だからである。
一般の人、つまり経済学のトレーニングを受けたことがない人が、経済政策について論じるとき陥る誤りは、「会社型精神論」のようなものに立脚してしまう、というものだ。特定の会社では、いつでも何かの問題は起きており、賢い経営者や従業員はそれをさまざまな知恵で切り抜けているだろう。この「会社型精神論」は、ジキル氏のロジックとは親和的であり、そんな大きな齟齬を持つことはないように思う。でも、そういう知恵は、ハイド氏には通用しない。マクロ経済全体では、一つの会社と違い、解雇されても人はそのまま同じ場に居続ける。稼働させる用のない機械も、売却したって別の誰かが買うわけだから、目の前からはなくならない。つまり、会社には「外側」があるけど、マクロ経済にはそれがない、ということである。有能な経営者は、会社をみごとに立て直すのだろうが、そうした発想法はマクロ経済の立て直しにはほとんど役には立たないように思う。
他方、経済学のトレーニングを積んだ人が陥りがちな誤りは、「完全均衡で成立する性質」をついついベースキャンプにして考えてしまう、というものだ。経済学の学習では、まず、「需要と供給が一致する均衡」を求めることを徹底的に仕込まれる。そういう均衡において、価格はどうなるか、賃金はどうなるか、利子率はどうなるか、そういった思考を徹底させられる。こういう訓練を積めば積むほど、ほとんど条件反射で、完全均衡での経済のふるまいが思い浮かぶようになってしまう。つまり、ジキル氏がどうふるまうか、そういう発想をしてしまうのである。もちろん、ぼく自身だって例外ではない。いろいろな政策について、その是非や功罪を考えようとすると、そこに通常の価格や賃金や利子率の決まりかたを持ち込んでしまいがちになる。用心してそういうジキル氏の姿を排除しようと心がけないと誤ったありていな結論につい行き着いてしまう。
 今回のような不況は、経済がハイド氏の人格を発現させたのでなくては、決して生じ得ない類のものだろう。そして、このような経済の混乱の背景には、ジキル氏とは全く異なったハイド氏の性癖とロジックが働いているのである。つまり、価格や賃金や利子率の決まるメカニズムは、通常のものと違うと念じなければならない。だから、我々は、ジキル氏とのつきあいの日々を努めて忘れさり、ハイド氏の固有性を理解し、そいつと上手につきあいながら、ジキル氏に戻していく試みをしなければならない。

 なんだか、だいぶん抽象的になっちまった。詳細はいずれ。待てない、というせっかちな人は、拙著『容疑者ケインズ』プレジデント社を読もう。