現代思想『特集ケインズー不確実性の経済学』

現代思想2009年5月号『特集ケインズー不確実性の経済学』がそろそろ書店に並んでいる頃だと思う。
この特集にはぼくも参加しているが、ぼく以外のメンバーがあまりにすごい。伊藤光晴、宇沢弘文小野善康、伊藤邦武、平井俊顕などである。めちゃめちゃ豪華メンバーである。まるで、ぼくが人選したみたいだが、もちろん違う。ってか、ぼくは、誰かが落とした原稿の穴埋めに緊急に談話を求められたぐらいだからね。笑い。
青土社

現代思想2009年5月号 特集=ケインズ 不確実性の経済学

現代思想2009年5月号 特集=ケインズ 不確実性の経済学

宇沢師匠と小野さんは、ぼくのケインズ観の元祖だからいうまでもないけど、実は非常に影響を受けているのが伊藤邦武さんの著作である。氏の『人間的な合理性の哲学』勁草書房ケインズの哲学』岩波書店は繰り返し読んだ。日本語の著作で、意思決定理論についてこれほどきちんとしたサーベイをした本は他に存在しないと思う。今回も「『確率論』のパースペクティヴ」というタイトルで、実に深い論考を書いていらっしゃる。それを読んで、実はぼくの認識のいくつかはちょっと間違っていたかも、などと気づかされた。いやあ、現代思想の編集部、すごい人選だね。ぼくのケインズへのコミットの仕方が、一つのラインとして整合性があることがこれで確信になったぜよ。
宇沢師匠が書いてらっしゃるのは、ケインズについてと見せかけて、実はベヴァリッジのことである。ベヴァリッジは、ケインズと弟子のミードの協力のもとで、イギリスの社会保障制度を作り上げた人だ。あの有名な「ゆりかごから墓場まで」を提唱する「ベヴァリッジ報告」を書いたわけである。(実は、情けないことに、初めて知ったのだ。いや、ばかにしないでちょ。理系だったからしょうがないじゃんか)。宇沢先生は、ベヴァリッジ報告が実現したナショナル・ヘルス・サービス(NHS)という先進的な医療制度が、その後どんな経緯をたどったかについて感慨を込めて綴っておられる。結局は、サッチャー政権によって改悪され、実質的に崩壊してしまったのだそうだ。宇沢先生はこのところ、日本の医療制度の問題に真摯に取り組んでらっしゃる。その意気込みがこのような記事を書かせたのだと思う。ぼく自身、医療制度の経済学は一度きちんと考えなければいけない課題なので、とても勉強になった。ケインズ特集にかこつけて、無理矢理、医療制度という社会的共通資本について論じるというのは、強引ともいえるが、ぼくには先生特有のおちゃめだと思える。宇沢先生には、なんというか、そういう憎めない発想のキュートさがある。今ぼくは、朝日新聞の火曜朝刊の科学面に、「小島寛之の数学カフェ」というのを連載してるのだけど、その二回目に、宇沢先生の発想「狭い日本の国土を広く使うには、すべての交通機関の速度を半分に落とせばいい」というのを書いたら、かなり評判だったらしい。宇沢先生には、何か人の心を揺り動かす発想の奇抜さと温かさがあると思うのだ。
 ぼく自身はいうと、「「時間」と「不確実性」の理論」という論考を談話の形で収録している。しゃべると口が滑る傾向があるので、かなりおおぼらを吹いているので、眉につばをつけつつ、色眼鏡をかけつつ、笑いながら読んで欲しいものだ。ただ、この中に、今まさに途上にある研究、これから着手しようとしている研究のアイデアを思う存分に語っちゃっているので、理論的なことに興味がある人は、経済理論の研究が構想の段階ではどんな姿形をしているのか覗いてみるにはちょうどいいんじゃないかな。まあ、たいした学者じゃないけれども。で、中でも重要なのは、「流動性とは何か」「それがどう不確実性と関わっているか」「どうモデル化するつもりか」という点である。今回は、この談話で初めて出した比喩があるので、そこのところだけ、ご試食用として、引用しておこう。

新古典派はそもそも「セイの法則」を前提とし、「供給余り」など考えなかったので、貨幣の役割を非常に限定的に考えていた。そこがケインズ新古典派の発想が根本的に違うところです。私のイメージでは、新古典派の考える貨幣はモノを取引するときの単なる「約束事」です。例えば温泉に行くと、必ず「浴衣を着て、下駄を履いてください」ということを言われますよね。服を着ては浴場に入れないので、皆仕方なく浴衣を着ます。その時の浴衣を貨幣と考えればいい。つまり浴衣に意味はないし、欲しくもない。しかし浴衣がないと温泉に入れないから着ていくだけです。温泉に何回、何時間入りたいかということは事前に決まっていて、その行為を成立させるために浴衣を着るだけなのです。浴衣が二枚配られたらどうなるかというと、二枚重ね着するか、あるいは一枚は置いていくかもしれませんが、それだけの話で何の意味もないのです。浴衣は、入浴する、という経済行動には影響力を持っていない。
ところがケインズは浴衣に対する執着心というか、浴衣に魅力を感じてしまった状態を考えたわけです。そうすると、浴衣を汚したくないので置いておく、という可能性が生じる。このような人は風呂に行かず、風呂が沸いたまま使われない、という非効率が起こる。つまり、購買力が、「浴衣」という無意味なものに吸収されてしまったわけです。では浴衣に対する執着とは具体的には何でしょうか。そこでケインズが言っているのが「流動性」です。つまり、貨幣を持つことで、モノを買うことに対して、タイミングとか、何を買うとかいったことを留保することができるという効能がある。普通ならば留保などしたくないはずです。あのような紙きれを持っていてもうれしくないですからね。普通はモノが欲しいわけですから、それを手に入れるための約束事として、あたかも浴衣を着るかのように、ただ貨幣をいったんポケットに入れるだけのはずなのです。ところがやはりモノより欲しいものが出てきてしまう可能性がある。それが何なのかが実は問題なのですが、しかしとりあえずそれを流動性と呼ぶならば、それを手にいれたくなるということです。

これは大学のマクロ経済学の講義でした喩え話で、他にも、パチンコ屋のパチンコ玉とか、ゲーセンのコインとか、いろいろ「取引の約束事」として貨幣を説明したのだけど、この浴衣が妙に受けたので、談話ではこれを使った。なんのこっちゃ、という感じもしないでもないが。笑い。そんでもって、このあとに、ケインズの秀逸な喩えにつなげるわけだ。

ケインズはそれを、「月への欲望」と呼んでいます。つまり、人々は月という地球にないものを欲しがっていると言う。月に購買力が向かってしまえば、地上のモノは余ってしまいます。それが月への欲望です。だからケインズは、これも有名な言葉ですが、「中央銀行はグリーンチーズを月だと思わせなければいけない」と言うのです。つまり、貨幣を印刷して配れということです。その言い方を考えるならば月は貨幣ではないということになります。そうではなくて、流動性という名で呼ばれる抽象的な欲望なのです。そして、その代わりに貨幣を人々は持つのです。だからグリーンチーズをいっぱい作るならば、人々の月への欲望を解消してくれるだろうというのが、ケインズの言いたかったことなのでしょう。
多くの古典的ケインジアン、特に政策を提言するような人たちは、貨幣=流動性だと誤解しています。だから貨幣を大量に発行すれば、ものごとは解決すると考えている。しかし、ケインズのもともとの主張は、人々が欲しいのは、月、つまり流動性と呼ばれる抽象的なものだということです。ただそれが一般の状態では、貨幣に憑依しているわけです。ですから一般の状態では貨幣が流動性を持つと考えて問題がないのですが、それは「貨幣=流動性」ということではない。流動性と貨幣とは異なる概念です

このあと、それじゃこういう「流動性」というのを、意思決定理論からどう基礎付けることができるのか、その着想について大上段に語っているわけなんだけど、それは本誌のほうで読んでちょ。そして、もちろん、これを存分に語っている拙著『容疑者ケインズ』プレジデント社も併せて読んでくれるのが一番であることはいうまでもない。

容疑者ケインズ (ピンポイント選書)

容疑者ケインズ (ピンポイント選書)

 今回、何よりも嬉しいのは、宇沢師匠が論考を書いている、その同じ号にメンバーとして存在している、ということである。宇沢師匠のこと - hiroyukikojimaの日記に書いたけど、ぼくは30歳の頃、まだしがない塾の先生の頃に、宇沢先生がおっしゃってくださった「小島くんは、あと5年くらいしたら、いい仕事をするんじゃないかな」ということばを心の支えにここまで来た。5年どころか、もうあれから20年もたってしまったけど、やっと師匠と同じ雑誌でケインズを語るまでにはなった。これはものすごく嬉しいことである。人生というのはすばらしいものだな、と思う。自分の努力が報われたこともそうだけれど、何より、宇沢先生の単なる励ましのための麗句を、多少は真実に変えることができたことが嬉しいのだ。