数学者が数学を「語る」ことの良さ

 数学者・黒川信重さんと、ぼくとの共著、リーマン予想は解決するのか?』青土社、がそろそろ書店に並び始めてる頃だと思う。これは、フェルマー予想が解決し、ポアンカレ予想が解決してしまった今、最も解決が待望され、しかも、解決にかなり肉薄している予想だ。この予想について、「そもそもリーマン予想とは何か」、「どんな意義を持っているのか」、「攻略のための最強兵器、F1スキームとは何か」、「今、何合目まで来ているのか」、を縦横無尽に解説した、ものすごくホットな本なのである。

リーマン予想は解決するのか? ―絶対数学の戦略―

リーマン予想は解決するのか? ―絶対数学の戦略―

この本の特徴は、数学書としては異色の形式をしている、ということだ。最初の章に、黒川さんとぼくとの対談が二本載っていて、真ん中にぼくのリーマン予想に関する初等的解説「リーマン予想まであと10歩」があり、そのあとに、黒川さんのみごとな解説論説「ゼータの旅」と「絶対数学」が載ってる。つまり、最初に鮮やかな前菜と魚料理、途中で口直しのシャーベット、そしてそのあと血も滴るミディアムレアのステーキ、というメニュでフルコースを楽しんでいただけるようになってる。
 最初の対談は、本当のところは、専門家でない人が完全に理解するのはけっこう難しいと思う。そのことで嘘をついて買ってもらおうとは思わないので、本当のところを言った。ぼくが聴き手を務めて、黒川さんがほとばしる情熱をこめて、リーマン予想について語りまくってる形式なのだけど、正直に言うと、聴き手のぼくさえもついて行けてないところがところどころあった。でも、ぼく自身は、完全にはわからないところがあっても聴いていてめちゃめちゃ楽しかったのだ。これは本当だ。
 例えば、ぼくは、将棋名人戦や将棋竜王戦をよくテレビで観戦する。プロ棋士の解説をじっくりと聴く。もちろん、わからない。わかるわけがない。だって、ぼくは将棋についてはたぶん、そこらの小学生にも勝てない。実際、大学生のとき、小学生の従兄弟に連敗して、呆れられたぐらいだ。旧友のプロ棋士と飲みに行って、彼の書いた将棋の定跡書のサイン本をもらったとき、「君には一生わからないから読まなくていい」と言われた。彼は、親切で言ってくれたのだから、ぜんぜんむかつかなかった。でも、「語られる」ってのは違う。テレビで将棋解説を聞くと、わからなくとも、その棋士の情念のありかたはわかる。その棋士が、羽生や郷田の将棋をどのように感じ、どのように尊敬し、どのように愛しているかがわかる。それがわかるだけでぼくは、将棋が好きでいられる。ぼくは、「自分にわからないから好きじゃない」という人には、何かの傲慢さを感じる。世の中、わからないことだらけだ。でも、わからないことには二種類あると思う。「自分の人生とは関係のないわからないこと」と「わからなくても、自分の人生を豊かにしてくれるから、触れていたいこと」の二種類だ。ぼくにとっての将棋は、後者にあたる。でも、さすがに定跡書は読む気になれない。なぜなら、将棋の定跡を知ることはぼくの将棋が好きな部分と無関係だから。ぼくの将棋への憧れは別のところにある。例えば、羽生さんのインタビューを読むと、次のようなことが書いてある。「Aという手とBという手を、何百手も先まで読んで、どちらが有利かわからなくなって迷ったら、読まなかったCという手を指す」。これには痺れた。めちゃめちゃ痺れた。屋上まで言って、町中に向かって叫びたいほどに痺れた。でも、こういうことは、たとえ羽生さんでも定跡書には書かない。「語り」だから、つい口がすべって、こんなかっこいいことを言うのである。
 「語り」を聴くことには、こういうメリットがある。「語り」には、厳密さや緻密さ以上に、その人の情念や意志や希望が現れるものだ。
 黒川さんの「語り」の聴き手を務めていて、ぼくは黒川さんから、ひしひしと、そういう情念とか意志とか希望を感じとることができた。黒川さんの数学への愛から、ぼくは元気をもらうことができた。いったんは数学を諦めたぼくだけど、やはり、数学への未練を自分のなかに感じ取った。未練は恥ずかしいものじゃないと思う。異性への未練は、相手には迷惑だけど、数学への未練は、数学への迷惑にはならない。そしてそれは、ぼくの中にエネルギーが残っていることの証明になる。もう、人生の半分を終えているけど、これからもう一度、数学の世界に歩みを進めていこうかな、などという意志が勃興してきている。これも、「語り」の持つ力なんだと思う。
 「F1スキーム」というのは、グロタンディークの開発したスキーム理論をさらに発展させたものだ。黒川さんの話では、そもそもグロタンディークがスキームを考え出したのは、リーマン予想を解くためだった。合同ゼータという、普通のリーマンゼータの類似形で、リーマン予想の類似が証明された。その端緒は、コルンブルムやハッセやヴェイユの業績なんだけど、その方法論を拡張するには、空間概念を革新する必要があった。それをグロタンディークがやったってことらしい。そして、それを利用して、ついにドリーニュがすべての合同ゼータの場合を解決した。
 しかし、この手法では、残念ながら、リーマンゼータには届かない。それには、もっと空間を拡張する必要がある。というか、空間から、空間の何かが消えるほどの、ぎりぎりを狙わなければならない。それが「F1スキーム」であり、「絶対数学」というもの。それを黒川さんがだいぶ昔に提唱し、それが今、急激に進展し始めた。それは、フィールズ賞を受賞したコンヌという数学者が、この方法論に参戦し、華々しく成果を上げつつあるから、ということらしい。本書の最後に載っている黒川さんの論説は、この「絶対数学F1スキーム」について2000年時点で解説したものであり、もしも仮に、これでリーマン予想が解決されたりしたら、これは予言的な記念碑的論説になる、ってことだ。
 あーあぁ。こういう「語り」を聴いていたら、ぼくは数学科に在籍した30年前、スキームから逃げなくて済んだのにな。(ほんとかよ) あの頃は、本当に勉強が苦しかった。数学は若い人に有利な学問だと言われるけど、ぼくについては、むしろこの壮年になった今のほうがスキーム理論に向かい合うエネルギーがあるように思えるから不思議だ。
 最後に、ぼくの書いた「リーマン予想まであと10歩」について、そのウリを書いておこう。いやあ、自分でいうのも何だけど、これは自分にしては、今までになく、数論について、数式最小限で、とても上手に書けたように思う。10歩手前「素数」→9歩手前「数列の収束」→8歩手前「ゼータ関数」→7歩手前「複素数」→6歩手前「解析接続」→7歩手前「ガウス整数とガウス素数」→4歩手前「イデアル理論」→3歩手前「実数とp進数」→2歩手前「オイラー積」→1歩手前「リーマン予想」という具合。
気に入ってる喩えを一個だけ引用しておこう。「解析接続」を喩え話で解説している場所だ。

このニュアンスを掴むためには、「象を触っているコビトたち」を想像してみるのがいいだろう。尻尾にさわっているコビトxは、「こいつはヘビのような生き物だぞ」というが、鼻をさわっているコビトyは、「いやいや、こいつはホースのような生き物だ」という。触っている部位によってコビトの思い描く生き物の形は全く異なっているが、実体はそれらの形を「つなぎ合わせた」ものなのである。尻尾を触っているコビトxには、「ホースのような生き物」というコビトyのことばが意表を突いた想像を絶するものであるように、複素数s=a+biでaが1より大きいような部分しか見えない我々にとっては、ζ(−2)=0は想像を絶するものであるが、それは象の全体像が見えないせいなのである。

実は、一番笑ったのは、帯だ。タイトルをリーマン予想Xデー、とするのを嫌がった黒川さんを、(当事者なら当然だね) 、ぼくと編集者が説得してリーマン予想は解決するのか?』で妥協してもらったんだけど、出版されてみたら、帯の背に、「解決しそう。」って、入ってた。やらかしたな、編集。でかしたぞ、編集。ってかんじ。しかも、「モーニング娘。」みたいに、まる、が入ってるのがステキだ。
うなわけなので、是非是非、皆さん。黒川さんの語りから元気と夢をもらってくださいな。