経済の動向を「内部から」観測するということ

 リーマンショック以来の経済危機を、固唾を呑んで見守って来て、今、思うところがある。それは、経済の動向を「内部から」観測することと、「外部から」解釈する、言葉を変えるなら、「後付けする」ことの違いである。
 例えば、シラーの本『根拠なき熱狂』には、「株価の暴落がさしたる特別のニュースのない日に起きている」と書いてあった記憶があるが、昨年から今年にかけての株の動きを見ていると、そういう風には思えない。もちろん、今から数年経ったあと、誰か分析家が、この現在の新聞や雑誌やネットの日記を集めて解析した場合、シラーと同じ結論に陥るかもしれない。でも、それは、現在の我々と直面する情報が同じではないからであろう。我々は、十数年あとの分析家には決してわからない「何か」に対峙している・・・ような気がする。それは、今ふうに、「空気をよめ」の「空気」と言えばわかりやすいかもしれないが、これだと同語反復になりそうなので、あえて思想界の用語「内部観測」という言葉を使うとしよう。「内部観測」とは、「複雑系」などに依拠する概念であり、おおざっぱに言うと、「系の内部にいる存在の行動が、外部からの観測からは明確に捉えられない」、と主張する思想である。生物学や歴史学などに取り入れられている。
 このようにみるとき、シラーの論理は、典型的な「内部観測」の問題に直面しているようにも見える。すごく手前みそな例で申し訳ないが、今ゲーム理論を中心に猛烈に発展してきている概念「共有知識(コモンノレッジ)」は、その典型的な例を与えている。これは、拙著『確率的発想法』NHKブックスで解説したものだが、ハートとタウマンの論文が示唆的だと思う。

確率的発想法~数学を日常に活かす

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このモデルでは、二人の人物が、全く一定の戦略で、株を売り買いしている。本当は、経済環境が悪く、株を売り抜けるのが正しい状況なのだが、情報を的確に知っていないため、売買が成立している。しかし、「売買が成立する」ということが続くと、次第に二人の「知っていること」(情報構造)を変えていく。ここで大事なのは、外から入手される情報(更新される情報) というのが、単に、「売買が成立した」ということだけである。それ以上の情報はびた一文ない。にも関わらず、二人の持つ情報は、取引のたびに精緻化されて行く。そして、ついにある日、二人は「悲観的な経済情勢にある」という知識を共有知識として成立させ、取引をやめ、株価は暴落するのである。
もしもこの現象を、数年後、当事者でない分析家が、入手できる文献だけから分析したとしたら、「ある日、前触れも根拠もなく、株が暴落した」と結論するだろう。なぜなら、取引者の中にある「情報構造の変化」は、多くの場合、文献や痕跡に残るものではないからである。それどころか、取引者本人も自覚していない可能性さえある。
このような「内部観測的」状況というのが、本質的であると仮定してみるなら、現在の経済危機という情勢の中にいることを鑑みるにつけ、経済学者としてこれを「内部から」観測できるのは、非常に貴重な体験であると思われる。願わくは、この経験をばねにして、新しい不況理論の構築に貢献できたらな、と思う。
 そんなことを前提として、今回紹介したい本は、吉川洋『いまこそ、ケインズシュンペーターに学べ』ダイヤモンド社だ。この本は、同年(1883年)生まれの二人の天才経済学者、ケインズシュンペーターの業績を、その時代の「空気」の中に位置づけながら明らかにしていく、という本である。どちらも、19世紀終わりに起きた「大不況時代」を知見・問題意識として持っており、その上で、1929年に勃発した世界大恐慌を「内部観測」しながら、独自の理論を構築して行った。吉川さんは、彼らの仕事を、当時の問題意識の発掘と、現在我々が直面している経済危機とを重ね合わせながら、分析して行っている。吉川さんにとって、「現在」は内部観測であるが、大恐慌は外部観測である。しかし、それを重ね合わせて、二人の当時の経済学者をイタコにして不況を考える、というのは、これぞ「歴史学」という態度ではないかな、と思う。ぼくの目に入る経済論説が、皆、「現在の経済指標の折れ線グラフと大恐慌時などの折れ線グラフの比較」ばかりで、なんだかなあ的感想を持っていたので、吉川さんのこの本にはとても共感するものがあった。さきほど論じた通り、折れ線グラフの比較は、典型的な外部観測であり、そこから我々が現在持っているいくつかの経済モデルの優劣を判断するには力不足であるように思えるからだ。経済というのが、物質現象ではなく、歴史的事象である限り、完全には無理であるのは当然にしても、できる限り「内部観測」に漸近するよう努めるのが正しい態度に思える。吉川さんの本には、そういうスタンス、というか、そういう気概がみなぎっている。
この本を読んで、いろいろ得るものがあった。「需要の縮小」という「有効需要理論」の発想が、必ずしもケインズの独創ではなく、すでにロバートソンによって提唱されておりその影響を受けたに違いない、という推測は面白かった。ちなみにロバートソンは、「需要の飽和」、すなわち「買いたいものがない」的不況論を主張しており、小野善康さんの発想と根を同じくしている。また、ケインズワルラス一般均衡理論を理解していなかったのではないか、いう指摘にもびっくりした。それが本当なら、ケインズ『一般理論』の中に良くも悪しくもある「予算制約式の欠如」は、これに起因するのかもしれない。無知ゆえに無謀な(野心的な)モデリングができた、ということか。それから、ケインズ自身は当時の計量経済学に批判的だった、という指摘も興味深い。ケインズ経済学の理論的不備を擁護したのが、その後の計量経済学だったことを考えるとこれは皮肉なことだと思う。吉川さんは次のようなケインズのことばを引用している。

化学や物理など自然科学では、実験の目的は方程式や公式に表されるさまざまな量や係数が現実にどのような値をとるのか確定することである。そうした仕事が為されればそれはそれで完了する。しかし経済学においては事情はまったく異なる。モデルを数量的な公式に転換してしまうと、考えるための道具としての理論モデルの有用性がかえって失われてしまうことになるのだ。

さらには、次のような文も引用している。

経済学は、理論モデルを通して考える科学と、現実の世界を理解するうえで適切なモデルを選ぶ技術が結びついた学問だ。経済学はこうしたものにならざるをえない。なぜなら自然科学と違って分析対象が多くの点で時間とともにその性質を変えてしまうからだ。理論モデルは、ほぼ一定の要素を、一時的あるいは変動する要素から分離することにより後者について論理的に考え、またそうした要因がそれぞれ個別のケースでどのように現れてくるかを理解する道順をつけるところにある。優れたエコノミストがほとんどいないのは、注意深い観察を通して適切な理論モデルを選ぶ能力を持つ人が、特に専門的な技術を必要とするわけではないにもかかわらずほとんどいないからだ。

これらのケインズの言説を読むにつけ、ケインズの発想には、「内部観測」的なものがあるように感じるのだけど、それは言い過ぎだろうか。吉川洋『いまこそ、ケインズシュンペーターに学べ』ダイヤモンド社は、とにかく読み応えのある本だったし、現在の経済危機を「内部観測」するのに、とてもよいナビになる本だと感じた。こういう本を、理論が専門である吉川さんが書くというのが意外だ。本来なら、経済史とか経済学説史の人がするべき仕事なんだろうし、まあ、ぼくの不勉強のせいで、そういう良書がぼくのアンテナにかかってこないのだと思うので、そういう専門家の良書にめぐりあえることを願いたい。
 でも、この本を読んで、一番痛快だったのは、序文にある吉川さんの次の一言だった。

思えばマクロ経済学は過去30年ずい分と迷走したものだ。極めつけは「実物的景気循環理論」(リアルビジネスサイクル理論)と称される有体に言うならば「妄想」だが、そのことについて語るのは、この本の主題ではない。

さきほどのケインズの引用を合わせて読むと、吉川さんの批判はより明確になる。というか、この本全体に漂う批判性は、「主題ではない」といってのけたこのことばを全編にわたって論証しているようにも思える。(いや、それこそ「妄想」か。笑い)。ともかく、このところ、RBC(リアルビジネスサイクル理論) とそれを下敷きにしたニューケインジアン理論の不評をよく目にする。たとえば、

動学的確率的一般均衡理論はそれ自身、知的に破綻した事業計画であった。
(レィヨンフーヴィッド「ケインズと恐慌」(『現代思想2009年5月号』所収)

などもそうである。なぜ、RBCやニューIS-LMがこんなに嫌悪されるのか、その確執のありかはよくわからない。ぼくは、RBCという「ランダムウォーク(正規分布)を確率期待値(合理的期待)で推理する」的期待理論を、ぜんぜん面白いと思わず、現実的にも妥当だと思わなかったので、(だって、我々の推測ってそんな風じゃないでしょうよ)、ほとんど全く研究しなかったが、いつのまにかこれが、新古典派でもケインジアンでも教典のようになったいたのか、と驚くばかりだ。長くなってしまったが、なにはともあれ、この「内部観測的」旅のおともに、冷凍ミカンと吉川さんの本はいかが、ということなのである。