『1Q84』はどんな位相空間か

 ずいぶん、ブログを留守にしてしまった。明日あたりからぼちぼち、ぼくの新著
『使える!経済学の考え方〜みんなをより幸せにするための論理』ちくま新書
が店頭に並ぶと思う。これは、ぼくの経済学の本の中では、今までで一番力作であると自負してるのだけど、内容については店頭に出回ったあたりで、ぼくの想いも込めて紹介したいと思うので、数日後に。
 今は、愛するパラモアの新譜『Brand New Eyes』を聴きながらこれを書いてる。待ちに待ったヘイリーの新しい曲たち。発売日に何軒も店頭を回ったが、配給元のせいでどこの輸入店も入荷が遅れていたので、急遽、アマゾンの「お急ぎ便」で買った。「お急ぎ便」はつれあいが契約していたので、土下座して注文してもらい、出先からしつこく「届いた?」というメールを出して、「うるさい」と叱られながら、手に入れたものである。正直、最初は「なんだかなあ」感があった。ヘイリーの歌い方が変わってしまった気がして受け入れにくかった。でも、繰り返し聴いていくうちに、かなりの傑作であることが実感できた。このバンドは着実にスターダムに向かっている。ぼくが惚れちまった「美少女ヘイリー」はどこか月にでも帰ってしまったけれども、妖艶でセクシーなアメリカの歌姫に成長したヘイリーが今ここにいる。とりわけ、4曲目の「Brick By Boring Brick」のヘイリーの声は胸をしめつける。「エモ」は、ぼくらオヤジにはよく理解できない概念であるが、背伸びして使ってみれば、とてもエモっぽい曲ですばらしい。
 ブログを留守にしがちだった大きな原因は、朝日新聞の連載コラム『小島寛之の数学カフェ』にあったと言っていい。これは、毎週月曜夕方に降版で、火曜朝刊に掲載された。たった500字程度とはいえ、新聞掲載だから神経を使う。事実誤認や間違いは許されない。内容もある程度のレベルを維持しなければならない。優秀な新聞記者が一人、編集者として担当についてくださったけれど、それでも毎週の連載をまわしていくのは 容易な作業ではなかった。
その半年にわたる連載が、やっと、先週の火曜で終わった。今は安堵と寂しさの気持ちが同居している。

最終回は、『村上作品愛せれば冒険できる』と題して、村上春樹の小説を数学的に読みとく試みを行った。このアイデアは、だいぶ前に出したのだが、「これは最終回に持って行きましょう」と担当がいうので、最終回向けのものとして校正を重ねた原稿だった。案を出した段階では、ぼくはまだ村上春樹の新作『1Q84を未読だったが、この小説について論じることで見切り発車した。ずいぶん、思い切ったことをしたと今では思う。でも、結果的に、ぼくはついていた。なぜなら、『1Q84』には数学についての記述が何回も出てきたからである。
実は、ぼくは村上春樹を論じるのは二度目である。最初のは、文芸誌『文學界』に「暗闇の幾何学〜数学で読む村上春樹と題した評論を寄稿したものだった。これは、『文學界』の当時の編集者が、ぼくに別件でインタビューしてくださった際に、「村上春樹の小説って数学チックだよね」、という意見が一致して盛り上がったので、原稿を依頼してくれて成立したものである。ぼくは、文学には少年の頃から(そして、いまでも)憧れがあり、リスペクトしてるので、『文學界』に寄稿できたことはとても嬉しい一件だったのだ。
 「暗闇の幾何学〜数学で読む村上春樹では、村上文学は位相空間に似ている、ということを徹底的に論じた。位相空間というのは、空間における点の連なり方を分析して、その空間の「すがた・たかち」を解析するものである。とりわけ、非常に抽象的な数学素材を「空間化」することができ、その上で微分積分を展開できるようになる。大胆に言うなら、「数」や「関数」の集合のような抽象的な世界を「空間」にしたてて、その世界に入り込み、よじのぼったり、登頂したり、転がり落ちたりできるようになるのである。村上春樹の小説が描く世界は、このような位相空間に似ていると思う。我々の「現実」を、ものすごく抽象化した上で、そこに通常とは別の「位相」を導入しているように見えるのだ。「暗闇の幾何学〜数学で読む村上春樹は、以下に収録してあるので、是非読んでみていただきたい。

数学で考える

数学で考える

1Q84』は、そういう村上春樹の手口を存分に活かし、みごとな位相空間に作り上げていると思えた。この小説は、偶数章と奇数章が別の主人公によって描かれている。奇数章の主人公は妖艶な女性の殺し屋・青豆、偶数章の主人公は予備校で数学を教えながら小説家を目指す天吾。この小説の一つの興味は、この偶数章と奇数章が同じ一つの空間を描いているのか、それとも異なる隔絶した世界を描いているのか、という点なのだ。
天吾は、小説の中で二度ほど、「数学と小説は似て非なるもの」ということを語っている。そんなわきゃあるわけないが、「ぼくの『文學界』での論考に対する村上春樹さんのリプライかな」というぐらい、みごとに「小説は数学とは違う」とお返事をいただいた気分である。でも、ぼくはそれでもなお、この『1Q84』を読んで、自説の正しさを確認してしまった。村上春樹さん、あなたの小説は、位相空間そのものだと思うのですよ、あなたの意図とは異なるのでしょうけれど。
1Q84』の位相空間性を「数学カフェ」の最終回で論じるために、ぼくは久々に位相空間論を勉強し直した。そのため、何冊か本を買い集めた。いやあ、中でも、次の本は秀逸だった。
意味がわかる位相空間論

意味がわかる位相空間論

これは、とにかく抽象度の高い位相空間をなんとか具体的なイメージでわからせようと努力しててすばらしい。例えば、連続写像は「開集合の逆像が開集合となる」と定義されるわけなんだけど、こんなワケワカラン定義を、次のように下世話な喩えで突破してる。

大胆に言えば、単身赴任は不連続、家族も連れての転勤なら連続、という感じである。

こういう喩えは、数学者にとって、「言い過ぎ」「口が滑った」の類になる場合があって危険だから、勇気のある人しかやらないのだが、この著者はそういう勇気ある数少ない数学者の一人である。
脱線したが、それでは『1Q84』はどういう位相空間か。それは、簡単に言えば、連結だが道連結ではないような空間と思える。ここで、「連結」というのは、ひとつながりで二つ以上に分離できないような空間のこと。「道連結」(弧状連結ともいう)というのは、空間のどの二点も「道」でつなぐことのできるような空間のこと。『1Q84』の偶数章と奇数章は、分離できずひとつながりの空間である。つまり「連結」だ。それは、混濁している共通の「現実」を描いているからだ。けれども、この二つの世界に別れて存在する二人の主人公の間を道でつなぐことは、たぶん、できない。つまりこの小説空間は「道連結」ではないのである。こんな奇妙な、ある意味、できそうもないような無理難題を、村上春樹は「夜空の月」などのいくつかのアイテムを使って構成している。一方、位相空間論では、数学者たちは、「開集合」とか「区間の連続像」とかを利用してつむぎ出す。おおざっぱにいうと、歯が無限にある櫛から1点を取り除いて構成するのである(具体的な構成方法は、前掲の『意味がわかる位相空間論』などで勉強してちょ)。違いはあるにしても、非常に似たような抽象空間を、数学と村上春樹文学は、それぞれの方法で生み出している、そう思えてならないのである。
 ここでぼくは、『1Q84』が傑作かどうかを論じるつもりはない。というか、それは、できない。なぜなら、ぼくにとって村上春樹の小説は「消費財」ではないからだ。ぼくにとって、村上春樹の小説を読むことは、「時間の流れを自覚する」のに近い。良し悪しではなく、時代が、世界が、つつと動いたこと、自分の中で何かが消えそして現れたことの確認に近い。「そこにあり、そして変化する」ことの確認。U2レディオヘッドの音楽を、ぼくが良し悪しで聞かないのと同じなのだ。彼らがどう同じで、どう変化したか、それをものさしに、「自分の時空間の中での位置」を確認する。村上春樹の小説もそういう存在なのである。
 今は、とにかく、パラモアの「Misguided Ghosts」を聴きながら、『1Q84』の最後の数章の主人公たちの切ない切ない恋愛を思い返し、感傷的な気分に浸っている。