『使える!経済学の考え方』が出ましたよ

 いよいよ、ぼくの新著『使える!経済学の考え方〜みんなをより幸せにするための理論』ちくま新書、が書店に並びはじめた。アマゾンにも入荷されたようだ。待ちに待ったこのときがきた。なぜなら、やっと経済学と銘打つ本で、自分で納得いく本を出すことができたからだ。8月に出た『無限を読みとく数学入門〜世界と「私」をつなぐ数の物語』角川ソフィア文庫(デビュー作の復刊)が、ぼくの数学本の最高傑作なら、このちくま新書が、今のところぼくの経済学の本の最高傑作になると思う。

まずは、目次をみてください。

序章 幸福や平等や自由をどう考えたらいいか
第1章 幸福をどう考えるかーーピグーの理論
第2章 公平をどう考えるかーーハルサーニの定理
第3章 自由をどう考えるかーーセンの理論
第4章 平等をどう考えるかーーギルボアの理論
第5章 正義をどう考えるかーーロールズの理論
第6章 市場社会の安定をどう考えるかーーケインズの貨幣理論
終章 何が、幸福や平等や自由を阻むのかーー社会統合と階級の固着性

ね、ぼくのブログの読者のかたは(一部の人を除けば)、ぼくの本には見えないでしょう。小島寛之ってそういう人だったっけ、って思うでしょう。自分でもちょっとそう思う。笑い。見てわかる通り、この本は、「幸福」や「平等」や「自由」などが、社会の中でどんな特性を持っていて、人々の嗜好(選好)がどのようなものなら是認されるか、そういう議論を紹介している。つまり、人々の思考様式や推論の方法を明確化したうえで、そこにどんな仮定を入れれば、これらの社会のあり方を積極的に受け入れられるか、そういうことを論じた本なのだ。いやあ、実に、経済学の王道って感じの本だと、我ながら思う。
 この本は、「よい社会ってどういう社会?」という疑問に答える営為であり、言ってみるなら、現状のありかたに対するミクロ経済学からの逆襲なのだ。
このところの日本では、経済学というとマクロ経済学がイメージされるのではないか、と思う。実際、テレビに出てくる経済評論家が論じるのは、やれ株価がどうだ、為替がどうだ、景気がどうだ、雇用がどうだ、と言ったものばかり。ネットを見てみても、単にぼくがそういうページしか見てないのかもしれないが、マクロ経済についてばかり論評されているように見える。先日など、ゼミを担当している世田谷区の市民大学で、社会人であるゼミ生の一人が、「先生、ミクロ経済学マクロ経済学の違いは何ですか」と唐突に質問するので、大学の学生に答えるのと同じ定番の説明をした。すると、その人は、「先生、今読んでいる本には、ケインズ以前の経済学がミクロ経済学で、ケインズ以降の経済学がマクロ経済学だと書いてあります」というので、のけぞってしまった。そういういいかたもわからないでもないが、なんとも大胆な言い切りだな、とその本を見せてもらったら、なんと! 稲葉振一郎『経済学という教養』の文庫版だった。うわ、稲葉さん、そんなこと書いてたっけ、書いてても不思議はないが、と思いつつ、帰宅してから単行本のほうをざっと眺めたが、う〜ん、みつからない。44ページの言説をそういう風に理解したのか、あるいは、文庫版で稲葉さんが遂にミクロ経済学を葬り去ったのか。まあ、それは笑い話として、とにかく、世の中ではミクロ経済学って、すごく影が薄くなってるんじゃないかな、学会ではそんなことないんだけどな、とか思いながら、この本を書いた。ミクロでもこういうことは議論できるのだ、と。あるいは、こういう議論は、マクロではできないでしょうよ、という気概で。
 この本のテーマは、一言で言えば、「幸福」や「自由」や「公正」や「平等」をどうやって、そして、なぜ、数理的に議論するか、それをわかっていただくこと。そのために、ピグーやハルサーニやセンなどの有名な天才の議論をできるだけわかりやすく解説した。そして、全体を貫くのは、「公平無私の理想的観察者(impartial observer)」という概念だ。これは、「生まれてくる前の人間」という超越的な概念で、ミルからハルサーニ、多少形を変えてロールズへと継承され、いまだに議論されているものである。これをキイワードにして、社会が「幸福」や「自由」や「公正」や「平等」などを受け入れるための条件を検討するわけである。
 一部の読者は、「あまりに観念的だ」、と批判するかもしれない。ぼくも「観念的」という評価には賛成する。だが、それは、ぼくには揶揄ではなく誉め言葉である。なぜなら、それをいうなら、マクロ経済学を含め、すべての経済学は観念的なところに土台を持っていると考えているからだ。マクロ経済学は、データや統計を基礎にしているから、観念ではなく「現実」だというかもしれない。ぼくは、残念ながらそうは思わない。統計学は、「無限母集団」という概念装置の上で展開されている。ぼくは、無限母集団というのを見たことがないし、触ったこともない。これは単なる「観念」だと思う。統計学を理論的にきちんと勉強すればするほど、それがいかに抽象的な観念の上に成り立っているか実感されるばかりだ。回帰分析では、経済現象を直線(を含むn次元ユークリッド空間)に回帰する。しかも、誤差項は、正規分布という特殊な数学的な確率分布だ。これって、観念以外の何なの?これが「現実」なんですかいな??もちろん、これを「現実」だというのなら、それはそれでいい。人が何を信心しようが、それはその人の自由だから。でも、ぼくは、マクロ経済学も、それが理論の上に立脚すればするほど、それは観念の上に構築された抽象理論だと思う。(統計的推定を使わず、単なるデータの数字の羅列だけに意味を見いだそうとしているなら、それはサイコロの出目や競馬の勝ち馬に理屈をつけようとしているような単なる「占星術」に他ならないと思う)。ぼくは、現実の分析が、観念に土台を持つのはあたりまえのことだし、有意義なことだと思う。存在しない理想物でしかない点や直線や平行などを基礎にして論理的に演繹を行う幾何学が、やがて、宇宙を解き明かす物理学に発展していったのだから。(ニュートンの『プリンキピア』が幾何学で記述されていたのは有名)。
 さて、そんなわけで、観念の世界にみんなで旅だって、そこで「よい社会ってナニ?」ってことを議論しようぜ、というのが、この本なわけさ。あと何回か、この本の紹介をブログに書くつもりなので、今回はここまで、以下序文をさらしておくね。

        よい社会って、どんな社会?

 本書は、「よい社会とはどういう社会なのか」について論じる本です。
 読者の中には、「自由」で「平等」で「公正」で「安定」な社会こそが「よい社会」に決まってる、と素朴に言われるかたもおられるでしょう。実際、この問題については、あちこちで盛んに議論がなされています。教室でも、酒場でも、集会場でも、はたまた街角でも、そしてなんといってもテレビや新聞などマスコミではしばしば。
 でも、思い出してみてください。それらの議論で納得できたことが一度でもあったでしょうか?ここでお尋ねしているのが、「共感を抱いたか」ではなく「納得したか」という点であることに要注意です。
 多くの人の答えは、NO、でしょう。なぜなら、それらのたいていの議論では、結論先にありきで、「論理」がほとんどないからです。
 もちろん、理屈抜きで共感することが大事な場面はあります。そういう情や信念が本当によい社会を築くこともしばしば起きます。でも、一方では、それが諍いや暴動やテロや戦争の誘因となることもまたありうるのです。なぜなら、自由や平等や公平や安定は、多くの場合、利害の衝突を引き起こすからです。
 この本で読者の皆さんに提案しているのは、「無条件で何かを信じる」のではなく、「どんな条件の下でならそれが正当化されるか」、そういう風に考えましょう、ということです。つまり、「結論」を急ぐのではなく「前提」を明らかにすることが大事だ、ということです。非常にまどろっこしい迂遠な作業ですが、利害の衝突を和らげるために、ものごとを相対的に考え、紳士的な議論をするには、「前提」を明らかにする道こそが近道なのです。そして、意外に思われるでしょうが、それを最も可能ならしめるのは、「数学を使って議論をする」ことです。数学ほど、無味無臭で情感に訴えない「言語」は他にないからです。
 実は、このような議論の方法こそまさに、現代の経済学の考え方です。経済学というと、「金儲けの学問」だと理解しているかたが多いか、と推察しますが、経済学の考え方は、自由や平等や公平や安定といった抽象的な概念を議論することにも、十分に使えるのです。この本は、これらの問題を通して、経済学の考え方を知っていただくための本です。
 前もって言ってしまうなら、本書を読んでも、冒頭の問いへの結論は何も得られません。本書でお約束できるのは、どんな前提のもとでなら、この問題へ私たちの抱く素朴な解答(冒頭の解答)が成り立ちうるのか、それへの答えを与えることだけです。しかし、それがかけがえもなく貴重な解答であることを、読後に皆さんがずっしりと受けとめてくださることを、著者として祈ります。