女子系数学書の誕生〜「式で書けること」と「計算できること」は違う

 昨日(12月20日)の日経の朝刊に、ぼくの書いたマーシャ・ガッセン『完全なる証明』文芸春秋社の書評が掲載されたのだけど、読んでいただけただろうか。ぼくの新聞書評デビューとあいなった。これは、ポアンカレ予想ペレルマンによる解決にまつわるルポルタージュなんだけど、我ながら良く書けたと思う。アマゾンの在庫がいっぺんになくなったのは爽快だった。しかし、そんなに人の本を売ってどうするね。とほほ。
この頃、書評の才能があるかも、などとほのかにうぬぼれることもあるけど、アフィリエイトとやらはやってないのだ。どうやれば申し込めるかわからない、というのが大きな理由だけど、笑い、それよりも書評で金を稼げるようになると、詰まらない本まで躍起になって薦めそうで、自分のせこさが露出するようで嫌なのだ。ここでは、(自分の本の宣伝以外には)邪心なしに、ほんとに気に入った本だけを紹介したいと思ってる。楽しみのために書いてるブログだからね。
『完全なる証明』については紙面に書ききれなかったこともあるので、いずれこのブログで補足を書こうと思うけど、今日は違う本を紹介する。それは、前回に引き続き、数学界のマドンナ新井紀子さんの本だ。前回紹介した『数学は言葉』に引き続いて、『計算とは何か』東京図書を読破した。それで、頭にほのかな閃きが生じた。もしかしたら、ひょっとしたら、という予感のようなものだ。それで、この本の元本であろう、新井紀子『生き抜くための数学』理論社を読んでみたのだ。

生き抜くための数学入門 (よりみちパン!セ)

生き抜くための数学入門 (よりみちパン!セ)

小説家が人の小説を読まないように、ラーメン屋がよそのラーメンを食い歩かないように、数学ライターのぼくは、数学啓蒙書をほとんど読まない。だって、書かれているネタはたいてい知っていることだし、人の手あかのついたアイデアは、自分ではもう使えないからね。だから、ぼくの読む数学関係の本は、専門書がほとんどだ。専門書には、まだ啓蒙レベルには降りてないネタがざくざく埋まってるから。もちろん、経済学の研究のためもある。だから、新井紀子『生き抜くための数学』理論社は、今の今まで読んだことがなかった。でも、それはある意味で正解だったと思う。だって、ここに書かれているテーマは、拙著『数学でつまづくのはなぜか』講談社現代新書に非常に近いものだったからだ。新井さんの本は2007年2月刊行、ぼくの本は2008年1月刊行だから、新井さんのほうが先だ。もしもぼくがこの本を読んでいたら、いくつかのネタを差し替えたかもしれない。そうすると、ぼくの本は多少、異なる雰囲気になったかもしれない。それはそれで良かったかもしれないけど、いずれにせよ、新井さんの本を読んでなかったから、ぼくは迷いなく自分の本を書けたことは疑いない。
新井紀子『生き抜くための数学』理論社には、冒頭からもう、衝撃的な告白が書いてある。

というか、学校で習った科目のうち、一番苦手で一番嫌いだったのが、数学なのです。
どれくらいきらいか、というと、
ピーマンよりも、カメムシよりも、校庭10周マラソンよりも、数学が嫌い。数学なんか、この世からなくなったらいい。

ぼくは、もうこのくだりで、うるうるしてしまった。だって、数学が嫌いだった数学者なんて聞いたことないよ。すべての数学者は、たいてい子供の頃から数学が好きだったものだ。ぼくのように、数学が好きで好きで仕方なかったのに、数学者になれなかったカワイソウな人もたくさんいる。なのに、数学者の新井紀子は、数学嫌いだった、というのだ。この文を読めば、彼女がピーマン、カメムシ、校庭10周マラソンがどのくらい嫌いか思いやられる。それより数学が嫌いだ、というのだから、相当なものだろう。
なのに、なぜ、彼女は数学者になったのか。
この疑問に答えるのが、この本のモチーフなのだ。ここのところを読み落とすと、本書に埋まっている宝を掘り当てないまま読了してしまうことになるだろう。まったく、あさっての感想を持ったまま終わってしまうことになるに違いない。本書は、数学嫌いから数学者に転じたからこそ書ける全く新しい啓蒙書なのであり、大胆に言うなら、「女子系数学」という新ジャンルの誕生の本なのである。
秘密は、先の文につながる次の文にある。

数学の授業の何が一番いやかって、それは、例題を見ながら練習問題をまちがえずにたくさん解かないといけない、っていうところ。練習問題をたくさん解いていると、自分が機械になっちゃったような気がするんだもの。そして、計算まちがいをして×がつくと、不良品になった感じがするんだもの。

ここを簡単にスルーしてはいけない。さりげないこの一言に、著者の数学観が全部入っている。こんな彼女が向かったのは、まさに「計算とは何か」「数学とはいったい何をするものか」という根本的な問いだったのだ。だから、それだからこそ彼女は数学者になった。しかも、数理論理学・数学基礎論・計算論という「メタ」世界の住人に。
この本では、この言葉にいつわりなく、すべてが疑問として発せられる。「円周率とは何ですか、どうすれば計算できますか」「掛け算とは何ですか、筆算の掛け算はなぜそういう方式でやればいいんですか」「ルート2って何ですか、どうやったら小数点以下10位を計算できるんですか」。これらはすべて学校で習うものだが、たいていの教師は「なぜ」のほうには答えてくれない。「いいから、黙って従え」という。つまり、機械になることを命じるわけだ。新井紀子という女子は、そういう「命令」に反発していたんだと思う。そして、心の中ではきっと、教師もその答えを持っておらず、その教師もまた自分が習った教師に仕立てられた機械にすぎないことを見抜いていたのだ。だから、カメムシよりピーマンより数学を嫌いになってしまった。彼女は機械になることを受け入れなかった。だが、ここからが彼女が常人とは違うところだ。彼女は、その大嫌いな数学の専門世界に向かうこととなった。計算とは何かを、機械とは何かを理解しきることを求めて。
実はこの本には、登場人物がいる。男子と女子とブタくんと宇宙人である。かれらと著者との会話で、本が進んで行く。この数学書としてのユニークさは、もちろん、本のあたりを柔らかくするためであるが、もう一つ重要な意図が隠されている。それは読んで発見してもらいたいから、ここでは詳しく述べないが、ヒントをいうなら、この登場人物の中の誰に著者は肩入れし、誰を苦手だと思っているか、ということだ。そういう観点でいうなら、注意して読むべきなのは、数学を「解説」している場所ではなく、どちらかというと、数学とは何かを「語っている」場所なのだ。いくつか、引用してみよう。

教科書を読んでいると、数学の世界は、自然の摂理に基づいて構成されている絶対的な存在にみえます。ですが、定義、というのは、基本的にだれがどう定義したてかまわないのです。(中略)。数学の世界では、毎年新しい定義が提案され続けています。しかし、その中で10年後に生き残る定義は、ごく一握りなのです。
ブタ:ロックのアーティストの運命みたいだな・・・・・

自然なものだけが残る、という意味では、数学の定義は自然にも似ていますし、ひとりよがりでは相手にされない、という意味ではロックにも似ているかもしれません。ですから、つぎの教科書に、
「○○のかけ算をつぎのように定める」
というフレーズが出てきたら、ただ暗記するのではなく、よく注意してみてください。きっと、「かけ算らしさ」がこわれないように細心の注意をはらって拡張されているはずですから。

これは、冒頭に引用した著者の「教科書」に対する反発だととることができるだろう。教師が君臨し、生徒を機械として屈しさせ、価値観を押しつけ、偉そうに否定的な烙印を押すことに対する逆襲なのだと思える。そんな著者が思う「数学を学ぶ意義」とは何か。それは端的に、こう答えられている。

小学校・中学校・高校を通じて、どうして週に何時間も数学をしなければ、ならないか。数学そのものを身につけるため、というのもありますが、もっと大きな理由があるんです。それは、「数学的な構え」を身につけるためなんです。

では、「数学的な構え」とは何か。これを、著者は、本一冊分で説明していくことになる。「生き抜くため」とは、まさにそういう意味なのだ。最も重要なメッセージ、著者の真摯な訴えとは、次の文だろう。

見えない抽象的なものを見る方法は、禅や詩などほかにも方法があるでしょう。けれども、見えないものを見て、それを誤解なくどの文化に属する人とも共有する、ということになると、それは論理であり数学なのだろうと思います。
見えないものについて「だから」「どうして」「どうなる」か、を考える力は、毎日の暮らしにさほど重要ではないように見えます。だから、そんな訓練を進んでしようという人は多くないでしょう。けれども、見えないもの、例えば、権利やリスクや未来について、「だから」「どうして」「どうなる」を考えることができなければ、この社会で幸せになれる確率は相当低いのです。それは、現代社会が、情報量と選択肢の多い、民主主義社会だからです。

ここが、本の中で、ただ一カ所だけ、ひどく強靱で語気の強い表現の場所だけど、このメッセージに、法学部から数学へ転身した著者の強い思いが表出していると思う。「生き抜くため」とはそういうことなのだ。世界は、みんなが思っているより、ずっと抽象的で、ずっと狡猾で、ずっと暴力的、ということだ。それに対抗するのは、情緒ではなく、アートでもなく、それは論理だ、ということなのだ。
そして、この本の後半は、著者の数学観の結晶である「式で書けるからといって計算できるわけではない」「定義できるからといって計算できるわけではない」というテーマに突入していくことになる。数学の教師は、何か関数を定義したことで、あたかもそいつが存在しているのはアタリマエだ、的な態度をする。そんなことを疑いもしない。しかし、女子系理屈っぽさの新井紀子は、そいつを「ふふん」とばかり疑い、ツッコミを入れる。「定義できても、計算はできないでしょうよ」と。実際、高校数学では三角関数で計算できるのは、15度の系列とか18度の系列だけで、ほぼすべてのサインやコサインの値はどうやって計算するのかわからない。ほとんどすべて計算できないようなものが「存在する」と言えるのか。もちろん、教師はそれに答えてくれないばかりか、そんなことを疑問にも思わないのである。新井さんは、ここで、何の準備もなしに唐突に、サインやコサインのテーラー展開を持ってくる。テーラー展開を使えば、どんなサインやコサインも近似的には計算可能であることを示してみせる。そして、関数電卓やパソコンの三角関数の計算が実はこの方法で行われていることを暴く。新井さんにとって、ここではテーラー展開の理屈そのものはどうでもいいのだ。彼女が問題にしているのは、「サインやコサインには計算する手段がある」ということなのである。そして、サインやコサインが計算できることの背後にどんな秘密があるか、を問いかけている。これは「どうして定義と一致する数値が出るか」ではなく、(その答えはまさに「微分」だ、そうではなく)、「なぜ、原理的に計算できちゃうか」という根源的な問いなのだ。この答えも、本書の最後に書いてあるから、その驚くべき解答は、本を買って自分の目で読んでもらいたい。それは、まさに、数理論理学者だからこそ言える解答なのである。こうやって、本書が向かう最終章「博士が愛した数式に挑戦!」にたどり着くと、著者のいいたいことは明白になる。それは、ぼくにとって、非常に溜飲の下がる結論だった。それは、多くの数学ライターの奉る「オイラーの公式:eのi×π乗が-1」ってそんなにステキかなあ、という反発である。これは、ずっとぼくも思ってきたことなので、「よくぞ言ってくれた」という気持ちになった。
 さて、いったい何が女子系数学なのか。こんなことを言うと、フェミニストに叱られるだろうが、女子は意外とアンチロマンティストである。P.K.ディックの名作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』(これも機械とは何かを問いかけた小説だ)のラストで、ロマンティストの夫が一人でめっちゃ盛り上がっているところに、冷徹な判断から水を差す妻の、超がっかりのシーン、を思い出してくれればいい。ともすると、ロマンや情に流されて数学を奉る男子体育会系数学に対して、新井紀子はみごとにクールに反旗を翻している。その真骨頂が本書新井紀子『生き抜くための数学』理論社なのである。しつこいようだが、繰り返せば、本書はこれまでなかったタイプのアンチロマンな数学啓蒙書であり、情におぼれないクールさを持った女子系数学というものの誕生の本なのである。
ああ、長くなった。疲れたよー。

計算とは何か (math stories)

計算とは何か (math stories)

数学でつまずくのはなぜか (講談社現代新書)

数学でつまずくのはなぜか (講談社現代新書)