パラモア、初日

今日は、待ちに待ったパラモアのライブの初日であった。(TOKYO! | PARAMOREオフィシャルブログ「PARAMORE official blog in Japan」Powered by Ameba)。つれあいと息子を引き連れて、家族で行ってきた。息子の中学入試が全滅していたりしたら、行かなかったか、行ったにしても、うわの空で楽しめなかったろう。そういう意味では息子のがんばりに感謝である。
ぼくがパラモアにはまった経緯は、アイドルぐるい - hiroyukikojimaの日記とか新しい革袋に古い音楽 - hiroyukikojimaの日記とかに書いたけど、こうしてライブに参加することができると感慨深い。とにかく、ここ数年ずっと首っ丈のヘイリー・ウイリアムスを生で観ることができた。二年前のライブのときは、華奢な美少女という風情だったけど、今回は、美人で屈強なパンクガールに変貌していた。
最初、声が完全には出きってない感じで心配した。彼女のブログによると、ちょっと前に咽頭炎で声が全くでなくなり、ライブをキャンセルしたという一件があったらしい。大丈夫かな、と思ったが、後半はかなりな声量になって安心した。曲目は、期待した通りの名曲揃いで、3枚のアルバムすべてからそれぞれ選曲されていたので、大満足の内容だった。
五十路を越えて、パンクロック(というか、エモというらしいんだが)のライブに参加するのも感慨深い。証拠はないが、明らかにぼくが観客の中で最高齢だろう。ひょっとすると息子が最年少かもしれないが、これは案外、下には下がいるかもしれない。こんな歳でロックのライブに参加すると、中高生の頃に友だちと語り合っていた未来像のことを思い出す。当時、ぼくらはプログレッシブ・ロックにはまっていて、それが史上最高の音楽だと疑わなかった。「大人にになっても、年をとっても、ぼくらはロックを聴いてるかなあ。変わらないかなあ」、ぼくらはそんなことを語り合った。その背後には、「きっと変わってしまうに違いない」というとらえどころのない不安があったのだと思う。大人になる、ということは、醜くて詰まらない人間になる、ということで、でも避けられないこと、そんな風に思っていた節がある。『ライ麦畑でつかまえて』の主人公みたいな感覚。もう、当時の彼らとは長く会っていない。どこでどうしているのかも知らない。でも、ぼくは今でもロックを聴いている。大事なのは、「当時のロックを今でも聴いている」という懐メロ派ではない、ってことだ。当時好きだったプログレッシブ・ロックのバンドで、いまだに追っているのは、キングクリムゾンだけである。なぜなら、彼らは(というか、ロバート・フリップは)今でも新しい音楽を生み出しており、単なる懐メロ・ゾンビ・ロックに堕していない。それ以外に今聴くのは、今のバンドである。パラモアはその一つ。そして、最も好きなバンドなのだ。
 そういえば、去年刊行したぼくの本『無限を読みとく数学入門』角川ソフィア文庫には、最後の章に、数学ロック小説が入っている。この本は、19年前のぼくのデビュー作『数学迷宮』の復刻版なのだけれど、小説はほぼ完全に書き換えてしまった。一番大きな理由は、『数学迷宮』を書いてた頃のぼくは、人生に対してとても後ろ向きで、それが音楽の懐古趣味に端的に表れていて、それが嫌だったからだ。それで、バージョンアップした「「この世界」という迷宮」には、架空のバンド、コート・レッドがただ一つ出てくるだけだ。まあ、勘のいい人は、これがキングクリムゾンをもじったものであることがわかるだろう。なんてったって、ギタリストの名前をボビー・フロッグにしてあるからね。旧作と新作を両方読んでくださって、見事な書評を書いてくださったのが、■書籍:無限を読みとく数学入門: ガスコン研究所である。いやあ、こんなにわかっている人がいると思うと、本を書く勇気が出るってものだ。(あ、そうそう、この本は最近増刷が決まったのだ。デビュー作であるばかりではなく、ぼくが自分の著作で最も好きな本だけに、このことはとても嬉しい。買ってくださった皆さん、ありがとうございます)。
ぼくは、頭が悪くて何事もすぐには飲み込めないし、怠け者で要領が悪いため、いろんなことで紆余曲折して回り道をしてばかりだ。でも、これだけは自分に課している。それは、ビビッドなものを追っかける、ということだ。あだ花でもいい。ニセモノでもいい。とにかく、懐古趣味にだけは安住したくない。ロックでも、小説でも、研究でも、新しいナニカを追えなくなるのは、自分そのものが失われる日なのだと思う。ヘイリー・ウイリアムスの歌を聴きながら、胸を熱くし、涙ぐみながら、そんなことを考えてた。
さて、明日の東京最終公演も楽しんでくるぞ。今日と全く同じセットでもかまわないけど、できれば、1、2曲、別の曲をやってくれると嬉しい。