「内容」と「形式」

パラモアがグラミーの映画音楽部門を逃したのは残念だった。Decodeはとてもいい曲だったんだけどな。嬉しいのは、新曲のプロモが最近公開された(“The Only Exception”ミュージックビデオ | PARAMOREオフィシャルブログ「PARAMORE official blog in Japan」Powered by Ameba)こと。これがまったまた、意味深な、良い映像作品に仕上がってて感激してしまった。ヘイリーちゃん七変化という感じですばらしい。
とかいって、今日書こうと思うのは、ぜんぜん別の話。はい、懲りもせず、ゲーデルです、ゲーデル。最近、実は次の本をほぼ読破したのだ。

数学基礎論入門 (基礎数学シリーズ)

数学基礎論入門 (基礎数学シリーズ)

この本は、前書きにも述べてある通り、

悪く言えば、本書は、ゲーデルの論文の非常に間伸びした解説にすぎない、と言えないこともない

というそのままのタイプの本である。もちろん、「間伸び」というのは著者の謙遜である。ゲーデルの原論文をそのまま理解できる人間はそういない。そういう意味で、それをステップ・バイ・ステップで噛んで含んでくれるこの本の価値は計り知れない。何より、この本の解説には、前原さんの基礎論に込めた「情念」のようなものがそこかしこにかいま見られ、とてもじーんと来てしまう。
そういえば、前原さんがむかーし書いた論理学入門のような本を高校生のときに読んだのが、ぼくの基礎論ことはじめであった。高校の数学の授業で、記号論理学を教師が講義してるとき、あまりにそれが退屈だったので、ぼくは教師の真ん前の席で、堂々と前原さんの本を読んでいた。ぼくがマンガでも読んでるのか、と思った教師は、それを得意げに取り上げたんだけど、タイトルを見てそのまま返してくれ、それ以降ぼくが何をしていようともう何も言わなかった。何か言ったら、ゲーデルの定理についてでも質問してやろうと、いじわるな身構えをしてたんだけど、教師もなかなか賢かったようで、ぼくにちょっかいを出そうとはしなかった。思い出してみれば、ほんとに「嫌な高校生」だったな、と我ながら思う。
ゲーデルの「不完全性定理」に関する啓蒙書はいくつかあるが、それはどれを読んでもわかったような気がしなかった。もちろん、数学ミーハーとして楽しむならそれで十分なんだけど、現在のぼくは、ゲーデルの方法論を経済学の研究に活かしたいと考えているから、生半可な理解で済ますわけにはいかない。それでしばらく前から、勉強をしているのだけど、専門書でなかなかいい本にめぐり合わなかった。その行き詰まりの突破口になったのが、田中一之『数の体系と超準モデル』だ。この本の評価は、以前、憧れの超準解析 - hiroyukikojimaの日記に書いたので参照して欲しい。この本は、不完全性定理の解説も実にすばらしい。ゲーデルそのままではなく、チューリングマシンの方角から「再帰的に枚挙可能」という概念を使って攻めるので、その本質がイメージしやすい。拙著『無限を読みとく数学入門』角川ソフィア文庫での不完全性定理の解説は、この本の方法論を簡易化したものだ。だけど、この本にも難点がいくつかあって、それは、「数値別に表現可能」いうものすごく大切な概念に例がないとか、「公理の集合Tが再帰的に枚挙可能なら、それらから導かれる定理たちのゲーデル数の集合もそうである」いう不完全性定理にとって命のような部分が、「ちゃんと考えればわかる」みたいな風にみごとにはしょられちゃっているので、ぼんやりとしか理解できないもやもや感が残る、とか、そういう難点だ。
でも、前原さんの本は、田中さんの本ではしょってる部分を、けっこう執拗に解説していて、補完してもらえる。もちろん、最初からこの前原さんの本にアプローチすることはお勧めしない。楽しい部分に到達するまでの道のりが長いので、たいていの人はへこたれると思う。ぼくも、田中さんの本を読んでからでなかったら、前原さんの本を読破することは難しかったと思う。
前原さんの本のすばらしさは、とにかく、要所要所で、「内容的な意味」と「単なる形式」との区別を読者に徹底しようという姿勢があることだ。これほど徹底した書き方をした不完全性定理の解説書は見たことがない。例えば、

'2つの命題が同値である'というのは数学的(mathematical)或いは論理的(logical)な概念であるが、'2つの論理式が同値'というのは超数学的(metamathematical)或いは超論理的(metalogical)な概念である。ここで、'数学的'または'論理的'といったのは、論理式を命題の表現と考えて、それを内容的に解釈したときの、という意味であり、'超数学的'または'超論理的'といったのは、論理式の内容を考えずに、それをわれわれの形式体系に現れる単なる研究対象と考えたときの、という意味である

などということが書いてある。例えば、「1≠2」という命題に対応する論理式は「0'≠0''」であるが、(自然数の形式体系において、0'は1を、0''は2を表す記号)、前者は「我々の認識の中に、1という自然数と、2という自然数があり、それが我々の認識の中で、異なる数である」という内容的な意味を持つ命題である。それに対して、後者は、単なる記号「0」「'」「≠」「0」「'」「'」が並んだものにすぎず、言ってみれば、知らない国の言語をそのまま意味を考えずぼーっと眺めたものにすぎない、ということなのだ。
不完全性定理の醍醐味は、この「内容的な意味」と「単なる記号列」の間を行ったり来たりするところにある。前原さんはこう書いている。

われわれは、このように形式的に記述された数学的理論以前に、その数学的理論の直観的あるいは内容的な理解が存在していたことを忘れてはならない。たとえば、われわれは、前章で述べた形式的な自然数についての種々の性質を内容的に理解したり、また、内容的に証明したりもしてきた。のみならず、形式的体系を形式的にだけ理解しようとする場合にさえ、直観的自然数に対する直観が必要となる[たとえば、記号の個数をかぞえる場合とか、変数の階数を考えたりする場合(中略)]、このような例をまつまでもなく、いまのわれわれが、外見的には類似し、しかも本質的には異なった2種類の理論ー内容的な数学的理論と形式的な数学理論ーをもっていることは事実である。
そこでわれわれは、こんどは、数学的理論の形式的な記述が、内容的な数学的理論を、どの程度に良く、あるいは、どの程度正確に反映し得るか、という問題に目を向けることにしよう。

そうなのだ。われわれは、結局、直観的な自然数論から離れることはできない。われわれは、どうしたわけか、すでに自然数を知っていて、それについて明確な根拠なく、想念の中で、操作することができる。われわれは、そこをベースキャンプにすることから逃れることはできないし、それがなければ形式的自然数論も展開できない。そして、大胆に言えば、だからこそゲーデル不完全性定理が成立するのである。要は、前原さんが言うとおり、「数学的理論の形式的な記述が、内容的な数学的理論を、どの程度に良く、あるいは、どの程度正確に反映し得るか」ということ。そして、それを表すのが、「数値別に表現される」という概念なのだ。
「数値別に表現される」とは、例えば、自然数m,nに関するa(m,n)という文が成り立つならば、対応する論理式A(x,y)に形式的な自然数m,nを代入した論理文A(m,n)が形式体系で証明でき、また、a(m,n)の否定文が成り立つならば、論理文A(m,n)の否定が形式体系で証明できる、ことを言う。つまり、「内容的な意味」の文と「形式的な文が証明できる」ことが対応していることである。たとえば、内容的な「x≦y」は、論理式「∃z(x+z=y)」で数値別に表現される。具体例を挙げるなら、自然数1と2は、直観的な世界の意味として、「1≦2」が成り立つが、そのときは論理式「∃z(0’+z=0'')」が単なる記号列として形式的体系から証明できる、という感じである。ここで、論理式「∃z(0’+z=0'')」の意味を考えてはいけない。確かに、これは「1にある自然数を加えれば2にできる」という内容的な意味を持っているが、そうみるのは我慢しなければいけない。これは、形式的に無意味な記号の羅列であり、与えられた記号をつなげる操作によって、この記号列を作れる、ということにすぎないのだ。このように「数値別に表現できる」という対応関係を使って、ゲーデルは内容的な意味を持つ自然数の性質を、単なる記号列の形式的な証明と対応させて行ったわけだ。そこで、スゴイことに気づいてしまった。すなわち、「この文の列は、命題Aの証明である」という内容的な意味を持っている文を数値別に表現できる記号列(論理式)が存在することをさぐりあてた、ということ。つまり、ある場合には、証明可能性という内容を形式の中に埋め込んでしまう、ということが可能だと気づいた、ってことなのだ。ここが天才たるところだろう。それを利用して、「形式的自然数論には、証明も否定もできない論理文が存在する」ということを証明したのである。これは、「自分は証明できない」という内容を持つ形式的な論理文を作ることによって行われる。そのプロセスで最も重要なのは、形式の世界で論理文を操作するとき、その中に「論理式一般に通用する論理式の内容」というような超越的な概念を混濁させないことなのだ。
前原さんの本では、(不勉強な)ぼくがこれまで見たことのない不完全性定理の「言い換え」が解説してあった。それは、不完全定理の本質が次の定理に集約されている、ということだ。

論理式の集合Kが表現可能かつ無矛盾ならば、次の(i)、(ii)を満たす1変数xの論理式R(x)が存在する。
(i) R(0), R(0'),R(0''),・・・はすべて証明できる。
(ii) ∀xR(x)はKから証明できない。

これはまさに「内容」と「形式」のずれそのものを表している。(i)は内容的には、すべての自然数xについてR(x)という文が成り立つ、ということを意味している。けれども、(ii)においては、形式的な文「すべての自然数xについてR(X)」が証明できないことを意味しているわけだ。つまり、形式は内容をすべて包含することができない、ということなのである。うん、すげー。
と、また、長くなってしまったけど、実はこんなことを書いてきたのは、来月末に刊行されるであろう『思想地図』NHKブックス別巻に、こういうゲーデル的な経済理論(ゲーム理論)の優れた論文であるH.S.シンの論文を解説した論考を寄稿したからなのである。まあ、それは刊行された頃にまた紹介することにしよう。とにかく、前原さんの本は、高校生以来、久しぶりに読んだけど、すばらしすぎ、そういうことなわけだ。