思想地図vol.5

ぼくが寄稿している『思想地図vol.5』NHKブックス別巻が手元に届いた。テーマは、「社会の批評」。分厚く、読み応えのある分量であり、内容も多岐にわたっている。

NHKブックス別巻 思想地図 vol.5 特集・社会の批評

NHKブックス別巻 思想地図 vol.5 特集・社会の批評

まだ、全部は読んでいないし、たぶんきちんとは読まないだろうな、というページもある。この本から今回紹介したいのは、第3部「社会の数理」に、ぼくの論考といっしょに収録されている星野伸明さんの論考「統計学で社会を捉える」だ。ぼくにとっては、星野さんの論考のように、門外漢には見つけることのない専門的な論文を紹介してその意義を語ってくれる論考こそが、読む価値のあるものなのだ。
 これはとてもエクサイティングな論考だった。一言でまとめれば、「確率論を基礎とした統計学で現実を見ることの可能性と限界」について啓蒙したものである。こういうことを真っ正面から述べた論考を、ぼくは初めて目にした。例の如く不勉強なぼくなので、もちろん、有名なものがあるのかもしれない。しかし、統計学がベースにしている確率をきちんと測度論から理解していて、それも単に数学的に理解しているばかりでなく、「測度論の恣意性」までちゃんと捉えていて、その上で、ネイマン=ピアソン流、フィッシャー流、ベイズ流の統計学の差異を深く理解し、そういう立脚点から「現実解析」としての統計学を批判的に解説したもの、というものはそうそうないに違いない。
 この論考は、実証系の経済学をやっている人に是非とも読んでいただきたいな、と感じる。というのも、データを使って経済の動向を解析している人で、自分たちの使っている統計学や確率論というツールがいかに「形而上的」なものかを理解してない人が、案外少なくないんじゃないかな、と思うからだ。つまり、自分たちが「現実を見ている」と思っているものが、実は偽装された、は言い過ぎか、装飾された「現実」を見ているに過ぎない、ということ。でも、これは否定的な意味で言っているのではない。前にもこのブログで少し触れたことがあるけど、「現実を数理的に見ること」は、そもそもこういう覚悟をした上でのことであり、それを踏まえた上でこそ、現実というものに近づくことができるのではないか、そう思うのだ。
 星野さんの論考では、「測度論的確率論とは何であるか」を正面から解説している。これはとても勇気のいることだ。測度論(measure theory)は、簡単に言えば、「無限集合論のお化け」のようなもので、その抽象度の高さは現代数学の中でも際だったものである。ある程度まで理解できると、それまでのすべてが急に有機的につながって、「なるほどそういうことだったのか」と景色が開けるのだけど、そこに至るまでの辛さは半端ではない。きっと、挫折した経験を持つ人も多いだろう。でも、星野さんは、この測度論を基礎にした確率論を、「確率の恣意性」を明確にするために解説している。つまり、批判性をもって紹介しているのである。だから、この論考でなら、ひょっとすると多くの人がこの理論に近づけるかもしれない。ぶっちゃけて言えば、「確率なんて、(公理を満たす限りにおいて)かなり自由に設定できるので、いくらでも自分に都合のいい世界観をねつ造することが可能」ということなのだ。そういう中での「現実」とはいったいなんぞや。星野さんはこう言う。

このように測度論的確率論の枠組みは、制約と言うよりはむしろ、社会分析者の想像力を補うようにできている。

いやあ、けだし名言。
 次に星野さんの解説で注目したいのは、デマルキという人の2005年の論文の紹介である。デマルキは、この論文で統計モデルの深刻な限界を述べている。例えばここでは、「次元ののろい」と「標本外データへのあてはまり」というのが紹介される。「次元ののろい」というのは、例えば、回帰分析の独立変数を1つ増やすとき、情報の割合を保つためには標本数を数倍に増やさなければならず、それが現実的には不可能であることをいう。だから回帰分析では、適当なモデル的「仮定」を置いて独立変数を減らす。ぼくの考えでは、それは言ってみれば、「現実」をフィックションに身売りさせることである。また、「標本外データへのあてはまり」というのは、「モデルを手元の標本と合致させすぎる」オーバーフィッティングの問題のこと。例えば、息子2人と娘1人の家庭の場合、男女出生比が2:1が最も当てはまりがいいが、これはこの家庭外のデータにはぜんぜんフィットしない。これらのことは、統計モデルというのが、あらゆる方角に固有の限界を持っていて、それゆえモデル設定に対して設定者の恣意が避けられないことを意味している。
 ここで、星野さんが例として挙げているのは、所得と金融資産から消費を回帰分析するモデルだ。もちろん、星野さんはそんなことは全く書いてないが、あえて裏読みすれば、昨今プロのかたと俄仕込みのかたとずぶの素人のかたがぐちゃぐちゃに入り交じって議論の渦になっている金融政策について、その実証面での「手法的脆弱性」を念頭に置いているのだと思う。いや、これはあまりに作為的にうがった見方のほうへ誘導しすぎかもしれないな。すんまへん。とにかく少なくともぼくには、これがあまりに溜飲下がる「天啓のような」解説なことは間違いない。
では、最後の、最も象徴的な結論部分から引用しよう。

このように考えると、統計モデルが記述する対象は、現実や実機構そのものとは言えない。例えば先見情報、一般には分析者の思考の表現こそが統計モデルなのである。そしてそのように考えた方が目的合理なモデルを得られるだろう。デマルキの主張も、標本に近いモデルが目的合理にならないことを問題にしていた。実機構の記述に拘るとモデルの性能を発揮しきれないことは、統計家の経験知である。

「モデルとは思考の表現である」と考えると、現実とまったく切り離されてしまうことに不満が残るかもしれない。しかし、確率的に表現された思考は、現象から離れすぎることを統計的検定である程度排除できる。それに対して、非確率的な思考は、有意抽出のように偏見を排除するのは難しい。統計的検定は緩いフィルタかもしれないが、現象から少し離れる自由を、思考に与えているのである。

いやあ、カッコイイ。しかし、星野さんという人は統計学者の中ではどういう立ち位置におられるのだろうか。
 ちょっと、星野さんの論考の紹介が長くなりすぎてしまって、自分の論考を紹介するゆとりがなくなったので、それはまた後で、いうことに。でも、少しだけいうと、拙著『確率的発想法』NHKブックス『数学で考える』青土社で解説したオーマンの「相互推論」と「共有知識」を、新たな視点から解説した論考だ。実は『確率的発想法』の解説は、読者は気にならない程度かもしれないが、もう少し巧い書き方もできたのではないかな、と今は思う。なぜなら、これを書いた頃の自分の共有知識に関する理解が多少生半可だったからだ。その後、共有知識を非完備情報ゲームと結びつけて展開したグローバルゲームの方法論を勉強してから、だいぶ理解が深まった。だから、『確率的発想法』と今回の論考を合わせて読んでいただくとよりよく理解していただけると思う。とりわけ、論理学における「様相論理」を持ちこむことで、その複雑な構造がクリアになった。
さらには、ヒュン・ソン・シンの、「共有知識」を数理論理学における完全性定理と結びつけた論文の紹介を丁寧に行った。シンは、日本では、竹森氏の本などで有名で、経済危機のシャープな分析を提出した学者として知られているかもしれないが、元はといえば、共有知識やグローバルゲームの専門家なのだ。この論考を書くことでぼくは、自分の中で、相互推論とゲーデル的なメタ数学との結びつきをクリアにまとめることができて嬉しい。これは、きっと、今後の研究に活かせると思う。まあ、詳しくはいずれ紹介するので、今日はここまで。

確率的発想法~数学を日常に活かす

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数学で考える

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