読者に優しい数学書を書く技術

ここ数日、堀川 穎二『複素関数論の要諦』日本評論社を読みふけっている。そして、めちゃくちゃ感動している数学書でこんなに興奮するのは久々のことだ。

複素関数論の要諦

複素関数論の要諦

この本を取り寄せたのは、複素積分を新書で解説する、という無謀な計画をぼくが抱いているからだ。その準備となる原稿を書いているのだけど、複素積分に関するコーシーの定理の証明方針に迷っていて、それでいろいろな複素関数論の本をひもといてるってわけ。
 本書は、堀川先生が東大の数学科進学の決まった2年生に行った講義を忠実に収録している。その忠実さったらすごくて、演習問題も、期末テストも、それについてのコメントも、成績の分布も、成績評価基準も、追試の点数と人数も、学生から採ったアンケート結果までも、なんでもかんでも掲載されている。大学で数理系の講義をしている人には、もうこれだけで参考になると思う。(46名中、20名が追試ってどうよ、という感想は勃興するに違いないが)。
 最も感動したのは、解説の方針について書いてある「使用上の注意」の部分。少し長いけど、引用しよう。

「数学の論文は、数式の部分も含めて、文章として読めるように書かなければいけません」と小平邦彦先生によく言われたので、なるべく、日本語として自然に読める文章を心がけた。そのために、正確さが犠牲にされた部分が少しはあるかもしれない。内容の配置も、頭で理解していく流れに沿った順序になるように努力した。いずれ、そうでなくとも読めるようになることが必要であるが、初学者はそういった、本質的でないところでつまづく可能性が高いのでその点に配慮したのである。数学の文章は、''読めば分かる''のではなく、''分かっているから読める''という側面がある。著者が何を言おうとしているのかが分かる文章を読むことによって、''分かる''ための技術を身につけないと''読める''ようにはならない。

数学の文章は、''読めば分かる''のではなく、''分かっているから読める''という側面がある」とはけだけ名言だと思う。ぼくは常々、数学書を書く数学者はなんであんなに無機的な書き方ができるんだろう、なんでもっと読者が分かる工夫をしないんだろう、といぶかっていたのだけど、最近その理由に思い当たった。そういう数学者って、数学をそういう風に無機的なまんま理解しているに違いない。つまり、記号と数式の嵐で本を書く人は、読者のことを思ってそういう記述をしているのではなく、「自分が理解しているそのまんま」を開陳しているのだと思う。そういう意味では、数学書を読むことは、それを書いている数学者の頭の構造をそのままのぞき見ることだ。なので読者は、数学書の記述方法に「おぞましさ」を感じたら、即座にその本を捨てたほうがいい。その数学者の理解の仕方は、明らかに自分の頭には不向きだと判明したに等しいからだ。と、すれば、本書の書き方は、「堀川先生の頭の中を開陳したもの」だろうか、それとも「教育上の配慮」としてわざと自分の数学理解と別の方針をとっているのだろうか。それについては、後者だと考えるほうが安全だと思うけど、実を言うと、前者、つまり、堀川先生の数学理解方法の一面を表出しているように思えてならない。(その理由は最後に)。堀川先生は、さらに次のように続ける。

数学の本を読んでいて、分からないときは、いくつかの理由が考えられるが、その種類によって、対処の仕方が当然異なるべきである。
 第一は、読んでいる文章が何を言おうとしているのか把握できないとき。これには二種類あって、ひとつは、文章の論理構造が分かっていない場合であり、もうひとつは、なぜ、そういうことを考えるのか理解できない場合である。前者の場合は、文章を論理的に読み砕くことが大切である。いわゆる英文解釈で、主語、述語や形容詞句、副詞句をはっきりさせるように、まず、文章の大枠、例えば、AならばBであるという文章なのか、それとも、AをBと呼ぶ、という文章なのかといったことをはっきり意識した上で、そこにどのような仮定(=形容詞句、副詞句)がついているかをチェックするといったことをやる必要がある。後者の場合には、ある程度理解できていれば、先に進んでよいだろう。その時点で100%理解しようすることに無理があるかもしれない。
 第二は、何か理解できない言葉があって、いくら呑み込んでも消化できない感じがする場合である。このときは、その本を読むためには、予備知識が不足している可能性があるので、もし指示されていれば、引用されている書物を参考にすべきであるが、それでも問題が解決するとは限らない。いちばんよいのは、よく知っていそうな人に質問することである。それでも、いつも適切なアドバイスをもらえるとは限らないが、いろいろな手段でそれなりに解決して前進するしかない。(中略)
 第三に、「こういうことがあるのを知っておいたほうがよいが、ここで正確に述べることができないので、あいまいに書いておこう」と著者が考えている場合がある。これが、そこだけ読んでも十分には理解できないのは当然であるが、そこにこだわってひっかかってしまう人がいる。「ああ、そういうことがあるのですか」と思って、それを頭の隅において先に進んでほしい、というのが筆者の意図である。よい文章は、そのような場合ではそういう印象を与えるはずであるが、読者の側も、嗅覚を鋭くすることが必要である。

 これは、数学書を読むとき、読者が突き当たる障壁をよくまとめてある、と思う。みなさんも心当たりがあるのではあるまいか。ぼく自身も日常茶飯事だ。この進言は、本書を読むときだけでなく、どんな数学書を読むときもすごく参考になるだろう。
「第三」として書いてあることも、数学本の著者であるぼくがいつも悩ましいと思う点である。「読者の脳に優しい」記述をしようとすると、かなり大胆なデフォルメが必要で、それをやると「厳密性」に目をつぶらざるを得ない。それを遂行するとき、どうしても気になるのは「専門家の視線」なのだ。読者の中の無視できる微小な割合の「専門家」に、「厳密じゃないじゃないか」といわれるのが怖くて、どうしても余計な一言を入れてしまうわけなのだ。普通の読者には、それをスルーして欲しいのだけど、真面目な読者は引っかかって悩んでしまうのだろうな、と思う。
 本書を読んでみればたちどころにわかるが、要所要所に堀川先生の記述の工夫が花開いている。おおよその読者が既知であろう数学概念にまで、もう一度それを理解し直すべく、新しい見方、別の見方、イメージ化が与えられている。そういう意味で、すでに多くの数学知識を習得している人にも激しく役に立つ本だと思う。
 一カ所だけ紹介しよう。複素関数論の一番の華「コーシーの積分定理」の証明のところが圧巻だ。この定理は、「複素関数f(z)がある領域で(複素数の意味で)微分可能であるなら、その領域内をぐるっと一周する閉曲線に沿って積分すると必ずゼロになる」という惚れ惚れするような定理。本書では、それを線積分と重積分を結びつける「グリーンの定理」というのを利用して、鮮やかに証明している。これは「コーシーの定理」に関するわりあいスタンダードな証明なのだけど、その解説の流れがすばらしいのだ。まず、グリーンの定理の直観的な説明のところでぶっとんでしまう。なぜなら、いきなり「ロールプレイングゲーム(RPG)」が登場するからである。堀川先生は、線積分∫ pdx+qdyを、「与えられたマップの上を旅する主人公が各地点で得るHP(ヒットポイント)」で喩える。そして、「風が左から吹いているときはHPを得るが、右から吹いているときは同じだけのHPを失う」などという。このように旅しながら得たり失ったりするHPを集計したものが線積分なのである。このような見方は、物理の人にはあたりまえかもしれないが、このあとに堀川先生が与えるグリーンの定理の直観的な証明は、物理的概念をまったく利用しないものなので、知らない人が多いのではないだろうか。つまり、線積分と重積分の定義をイメージできているだけで、理解できるのである。堀川先生は、この線積分が重積分∫ (∂q/∂x−∂p/∂y) dxdyに一致することを、積分に関する定理を全く準備することなく、長方形の4辺の中点での値を解釈することで、アバウトに導出してしまうのだ。(いや、それでも物理の人には自明なのかもしれない、と予防線)。脚注に「あとの節でみるように、累次積分に直して証明することは容易であるが、∂q/∂x−∂p/∂yを天下り的に与えないと証明にならない。数学の証明としてはそれでよいのだが、上の証明は、なぜこのような不思議な式が出現するかをある程度説明できていると思う」と記している。
 いやあ、ほんとにすばらしい本だと思う。複素関数に興味のあるなしとは無関係に、数学を理解するトレーニングとして、読んでみて損のない本だと思う。実は、この本で試みている堀川先生の工夫のいくつかは、ぼくが拙著『天才ガロアの発想力』技術評論社を書くときに心がけたものであるので、すごく嬉しい気持ちがある。なぜなら、堀川先生はぼくが数学科在学時の指導教員であったからだ。非常に厳しい先生で、ぼくらゼミ生は毎週毎週、胃が痛くなり、自信喪失と絶望という「青春の苦しみ」を味わったけれど、堀川先生のセミナーで叩き込まれたことは、今の今になってやっと、経済学者としての自分の人生に活きていると感じる。まあ、長くなったので堀川師匠の思いでは後日に。(ちなみに、堀川先生は数年前に夭折された。生きておられたら、「お前に師匠と言われる筋合いはない」と叱られるだろう。)

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