メリークリスマス2010

 またまたクリスマスがやってきたね。
 高校生のときは、この日は必ず、ディケンズ『クリスマスキャロル』を読んで過ごした。毎年、文庫本で、違う翻訳で読んだ。こんなすばらしい小説を書けるディケンズの才能を心底尊敬した。ぼくもいずれ、クリスマスの物語を書いてみたい、そんな夢がある。
 『クリスマスキャロル』は、イヴの夜に労働をさせるごうつくばりの男を、死んだ親友が幽霊となって現れてこらしめる、という話。そういえば、ぼくが塾で働いている頃、「イヴの夜に仕事を入れるなら、ぼくはこの場で退職します」と社長にいってのけた同僚がいた。奴は、東大医学部の学生で、とにかく、女の子にもてる男だった。ぼくは、このアッパレな発言に、心から「すばらしい!」と賛辞を送ったものだった。
けれど、翌年は一転して、この男、「イヴの夜にどうか講義を入れてください」と社長に懇願した。不思議に思ったぼくが理由を尋ねたところ、彼はこう答えた。「だって、イヴの夜は、一人の女の子に決めなきゃならないじゃないですか。すると、他の子には、自分は本命じゃないことがわかっちゃうじゃないですか。それまずいじゃないですか。で、イヴの夜に仕事が入ってるなら、みんな納得してくれるじゃないですか。そして、デートを周辺の日に散らせるし、どれが本命かばれないじゃないですか」。ぼくはこのときほど、この男を蹴飛ばしたい、と思ったことはなかった。
 そうしてみると、すばらしいのは、宇多田ヒカルさんの最新の曲「Can't Wait 'Til Christmas」だ。これは歌詞がすばらしすぎる。「クリスマスまで待たせないで」だもんね。「なんでもない日も側にいたいの」だもんね。ぼくは、このところ、ずっとこの曲をリピートしながら、村上春樹の作品を読んでた。なんでハルキかって?
それは、2月に出る(はずの)最新のぼくの新書で、村上作品を論じる、その原稿を書くためなのだ。その新書には、『文學界』に掲載されたぼくの村上春樹論「暗闇の幾何学」を収録する予定で、だったら、書き下ろしも入れよう、というわけで今、『1Q84』と『ノルウェーの森』と『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を読み直してるってわけ。(『文學界』掲載については、『1Q84』はどんな位相空間か - hiroyukikojimaの日記参照のこと)。『ノルウェーの森』は、刊行された当時に読んだときは、村上春樹も売るためにこういう作品を書いてしまったか、と釈然としない読後感を持ったものだった。でも、それが、今読み返してみると、とてもよくできた作品だと感銘を受けてしまった。恋愛観や性愛観が当時とはすごく変わったからだと思う。要するに、20年の間にぼくが大人になった、ということだろう。大人になるということは、良いことと悪いことが両面ある。すっかり大人になったぼくは、『ノルウェーの森』を十分堪能することができるようになっていた。
 この2月に出る新書は、とても変わった、そしてとても斬新な本になると思うので今から楽しみだ。なぜなら、宇沢先生の社会的共通資本の理論を正面から、そして、少し新しい切り口から論じたからだ。村上春樹宇沢弘文がどうつながるのか。わくわくだね。(つながらないってば。笑い)。まあ、詳細は、刊行された頃にまた、ということで。
 クリスマスの物語というと、一番のお勧めは、乙一大先生の絵本『くつしたをかくせ!』光文社だ。

くつしたをかくせ!

くつしたをかくせ!

乙一巨匠が、クリスマスの絵本を書いた、と聞いたとき、すごく嫌な予感がした。とにかく、読者の予想と期待をはずしていく技では右にも左にも前にも出るものがいない乙一巨匠のこと。まさか、あれをやらかさないだろうな、とどきどきだった。でも、違った。そうじゃなかった。みごととしかいいようがなかった。読み終わったときは、思わず胸が熱くなって泣いてしまったぞな。(CREAブログのヤングさんのhttp://ameblo.jp/creblo/theme-10005169045.htmlも併読するといいだろう)。
あとは、もちろん、あれだ、ウィーダ『フランダースの犬。でも、アニメじゃだめだよ、原作のほうね。
フランダースの犬 (新潮文庫)

フランダースの犬 (新潮文庫)

まさか、このストーリーを知らない、という非国民はいないと思うので、気にせず書いていってしまうのであしからず。手元に本がないので記憶で書くので、間違ってたらご容赦を。あくまでぼくの記憶における解釈ということで。
ウィーダ女子は、この物語に、ある批判をこめていると、と思うのだ。主人公ネロは、ルーベンスの絵を観ることをとても懇願している。しかし、鑑賞することができない。お金がないと画を観ることができないのだ。これは、「教会が拝金主義に陥って、みんなの共通の財産である宗教画を、金がないと鑑賞できないようにしている」と批判しているのだと思う。『フランダースの犬』には、全体に、そういう世の中の「せちがらさ」が描きこまれている。と思う。つまり、社会的共通資本の理論につながるところがある。幸福な社会とはどういうものか。共有の財産をどう管理・運用していくべきなのか。そういうふうに読むと、ラストの一文は、もう号泣せざるを得なくなる。だって、普通、「死」というのは、「永遠の決別」として、愛するもの同士を引き裂くものとして描かれるけど、この物語ではまるで反対なのだ。ウィーダは、「死によって、もう、ネロとパトラッシュは何者にも引き裂かれることはない」と(いうような感じに)物語を結んでいる。こんな切ない終わりかたがあるだろうか。彼らは、「物体」としては簡単に離すことができるけれど、「魂」はもう誰にも決して引き離すことができない、死とはそういうものだ、そう描いているからだ。村人の仕打ちがいかに冷酷で、それに対して、少年と犬の「死による永遠の融合」がいかにそれを告発しているか、それが作者の訴えであると、ぼくは読んだ。だから、この物語がクリスマスの物語であるというのは、とても重要なことなのだ。クリスマスとは、いわば、社会的共通資本なのだよ。
 クリスマスというと、子供の頃の記憶が生々しく残っている。ぼくの家は、当時、全く裕福ではなかった。父親は実直で勤勉な工場労働者だったが、高度成長期の上京組だったから、暮らし向きはなかなか良くはならなかった。六畳にキッチンのついたアパートに家族4人で暮らしてた。そんなだったけど、クリスマスには、親戚の若い人が毎年訪問してくれて、そのときオシャレなケーキを買ってきてくれるので、それはとても楽しみにしていた。でも、ある年、その訪問の意味がわかって、衝撃を受けた。父親がその若い親戚にこんこんと説教していて、その内容を初めて理解できてしまったからなのだ。彼は、父親から金を借りていたらしい。それもかなり頻繁に。うちもそんなに裕福ではなかったわけだが、父親は見栄を張って貸していたのだと思う。彼は、それを必ず、クリスマスの夜に返しに来ていたのだ。オシャレなケーキを小脇に抱えて。もちろん、額が足りないときもあったろう。ぼくと妹は、そんなことも知らず、毎年ケーキに大喜びをし、その彼をリッチな人だと思っていたのだ。でも、ぼくはその年、事実関係に気づいてしまった。六畳一間だから、逃げ隠れる場所はなかった。彼が父親にこんこんと説教されるのを耳にしながら、ぼくはその意味がわからないふりをしながら、喉を通らなくなったケーキを一生懸命口に運んだものだった。無邪気にケーキにかぶりつく妹がつくづくうらやましかった。大人になる、ということは、こういうしんどいことなのだ。
ではでは、メリークリスマス!