コンピュータが仕事を奪う

新井紀子さんの新著『コンピュータが仕事を奪う』日本経済新聞出版社を読んだ。
非常に面白い本だった。新井さんの本については、これまで当ブログでは、数学は言葉 - hiroyukikojimaの日記とか、女子系数学書の誕生〜「式で書けること」と「計算できること」は違う - hiroyukikojimaの日記とかで扱ったけど、本書がこれまでの新井さんの本の中で最も勉強になった本となった。こういういい方も不遜だとは思うが、ぼくも数学ライターのはしくれで、新井さんよりキャリアが長い。だから、新井さんのこれまでの本は、もちろん、その主張や書きっぷり、構成の巧みさには感心するものの、それは「観客席」からの拍手ではなかった。どちらかというと、楽屋のモニターで腕組みしながらよそのバンドの演奏を聴き、「お、そんなとこでキメをいれるのか」とか「ここで、こういうコード展開をするのは勉強になるなあ」などと高みの見物をしているバンドマンに近い感覚だったと思う。でも今回の本は、「コンピュータ」「IT」という、ぼくがまるっきり音痴である分野と数学との関係を縦横無尽に解説したもので、目から鱗の連続だったのだ。

コンピュータが仕事を奪う

コンピュータが仕事を奪う

 最初に言いたいのは、このタイトル「コンピュータが仕事を奪う」は成功だったかどうか。もちろん、本書はこのタイトル通りのこともいろいろ書いてある。でも、これは本書の本質を言い当てていないと思うし、読者にミスマッチを起こす可能性が高いと思う。これは憶測だが、もめにもめた末にこのタイトルになったんじゃないだろうか。というのも、来週出るぼくの新著『数学的思考の技術〜不確実な世界を見通すヒント』ベスト新書のタイトルを決めるときに紆余曲折があったのと似たようなことがあったんじゃないか、そう思えて仕方ないからだ。(無理矢理、自著の話に結びつけてすんまへん。このブログ、基本的には自著のプロモーションのために書いてるので・・)
 編集者と話すと、現在、本を売るには二つの方向性があると感じる。一つは、「ビジネスで人を動かす知恵」みたいなものに訴えかける方向(啓発系)。もう一つは、「現在の世情の不安」に訴えかける方向(煽り系)。ぼくの新書も、そのどっちの方向にもPRできるので、編集者が迷いに迷って、結局、メインタイトルでは啓発系、サブタイトルでは煽り系を採用することになった。新井さんの本は、煽り系のほうを選んでいる。でも、本当にそれで良かったんだろうか、という疑問は残った。
 どうしてか、というと、新井さんの今回の本は、非常に多くの要素を持っており、それらが複雑に錯綜して入り組んでいるので、さまざまなタイトル付けが可能だったと思うからだ。おおざっぱにいっても、「コンピュータにできること・できないこと」「人間にできるがコンピュータにできないこと、その逆」「数学とコンピュータの共通の部分とそうでないところ」「人間と数学の関係」「コンピュータは労働市場にどんな影響を及ぼすか」「21世紀の人類は、どんな仕事をすべきか、できるか」などなどの多様な内容を持っている。これらの中で、どの要素・方向性を打ち出したら、販売利益と読者の利益の合計が最大になったかは、本当に難しいプロブレムだったろう。ぼくは少なくとも、このタイトルではなかった気がしている。まあ、書籍営業のプロではないので、自信はないのだが。
 第1章「コンピュータに仕事をさせるには」と第2章「人間に追いつくコンピュータ」の章は、新井さんには、そして、プログラミングやIT系で飯を食っている人たちにはあたりまえのことばかりかもしれないが、ぼくには「へえ!」の連続だった。例えば、1990年代の日本のソフト開発の効率が他国に比べて低かったそうで、その理由が「個別対応の受注ソフトが多かったから」、というのは「なるほど!」だった。それは、個別発注をする営業、総務、広報などの担当者が、コンピュータが何を得意で何が不得意かを知らず、その上「何をしたいか」を論理的に表現する力がないので、「実現不可能であるはずのシステムを無理に多大なコストをかけて作る羽目に陥ったから」だという。これは、当時、ベンチャー企業で働いていたぼくには実によくわかる指摘だった。このことを新井さんはうまい喩えで述べている。

コンピュータにとって何が得意で何が不得意かをきちんと把握しようするなら、連想は禁物です。極端にいえば、それはヘリコプターが存在するから、ドラエモンのタケコプターも実現可能だろうと思うのと同じ過ちなのです。

この喩えだと鼻で笑う読者がいることを想定して、新井さんはもっとみごとな例を追加している。それは、「最短経路問題」(2都市を与えたとき、最短時間で移動する経路をみつける問題)はコンピュータが高速で鮮やかに解決するが、「巡回セールスマン問題」(すべての都市を通って起点に戻る最短の経路をみつける問題)にはまるで歯が立たない、という例だ。そして、この例を使って、「コンピュータの限界」の本質である「指数爆発(NP困難)」という問題を解説している。実におみごと。さらには、動画をアップしたときに、それにタグをつけることが要求されるのは、利用者の便宜のためでもあるが、実は、「利用者に無償労働をさせる」という「カニカルタルク」という実に虫のいい裏の意図が隠されていることなどは衝撃的である。これは、コンピュータの限界ということと関係があり、さらには21世紀の人間の労働を予言するものでもある。このことは、「煽り系」としても受け取れるが、ぼくとしては「啓発系」で受け取ったほうが良いように思える。
他にもいっぱいある。例えば、数を入力すると、その性質(素因数分解やべき乗和分解など)を教えてくれるWolfram Alphaというシステムのこととか、Twitterに徘徊して、プログラムに従って「つぶやく」ロボット( ボット) のこととか、グーグル社の検索エンジンの成功が、「多くのウェブページが参照しているウェブページが重要である」というランク付けのアイデアにあるわけだが、それを実行する際、それが線形代数固有ベクトルの計算で可能になることに気がついたことがポイント、とか、もうもう目から鱗の話で満載なのだ。こういう話に疎いぼくのようなIT音痴は世のなかにたくさんいると思うし、その中には管理職やマーケティングや商品開発に携わっている人も多かろうと思う。そういう人は、すぐにでも本書を読んだほうがいい。自分のビジネスに直接・間接に活かせる知識が満載だから。(自画自賛になるが、ぼくの新著もそうだよ〜。笑い)
 新井さんは、こんな風に「コンピュータの可能・不可能」を解説する中で、同時に。「数学とは何か、どんな学問か、どんな技術か」ということも明らかにしていく。それは、もう数理論理学の専門家として面目躍如である。凡庸な数学者の書く書籍にありがちな「ロマンティックな数学」っつう寝ぼけた「おのろけ話」にうんざりの人は、新井さんのこのソリッドな数学論を読んだらいいと思う。そうすれば、自分の身に迫るさまざまなリアルな事態と数学との関連性がみごとに説得されることだろう。
 後半は、数学史とか、数学論とか、数学教育論が展開されていく。数学史はおおよそ知っている内容ではあるが、新井さんがそれをどう見て、何を受け取っているか、についてを読むことは、とても勉強になった。彼女は専門が専門なので、やはり「論理」に注目する。それはとても斬新な視点であるものが多い。以下に引用するのは、ぼくが本書で初めて知って、とても感心したものだ。

アマゾンの奥地には、他の文化から隔絶して独自の生活をしているヤノマミという部族がいます。独特な宗教観、世界観を持つ部族です。ヤノマミの女性は妊娠し、出産のときを迎えると、森に入っていき自力で出産をするそうです。そうして、嬰児を産み落とすと、母親がその子は精霊か人間の子か決定を下します。人間の子は母親とともに村に戻ってきます。精霊と決まれば、バナナの葉にくるみシロアリの巣に入れてシロアリに食べさせてしまうのだそうです。しばらくして、シロアリが嬰児を食べ尽くしたころ、母親はそのシロアリの巣に火を放ち、煙とともに空に帰すといわれています。これほどまでに、彼らと我々の倫理観、世界観には隔たりがあります。

ここまで読んだ読者は、著者が何をいわんとしているのか、不安になって来るだろう。かくいうぼくもそうだった。しかし、この話は次のような意外な展開を見せる。

しかし、注目すべきは、このことに関する彼らの説明です。
彼らはこう言いました。「嬰児は精霊か人間かのどちらかに生まれる。人間ならば村に帰ってくる。精霊ならば、天に帰る。あの妊婦は一人で帰ってきた。生まれ落ちたのは精霊だったのである。」
おわかりでしょうか。これは、生まれ落ちた子が精霊であったことの「論証」なのです。ここでは、三段論法に加えて、対偶まで用いた論証が使われています。(中略)。論理はそれが形式化されているかどうかにかからわず、文化を超えて共通しているのです。

つまり、我々とヤノマミでは、「嬰児」の定義が違っていて、それだから、異なる倫理観や規範を持っている。しかし、論理演繹というところではまるで同じだ、ということを新井さんは主張しているわけなのだ。この話には、思わずうなってしまった。(しつこくてすまんが、ぼくはこれと同じことを、新著の中で、村上春樹文学を使って主張している)。
こんなふうに、豊富な話題と知識を散りばめながら、新井さんは、21世紀以降の人間社会の労働のあり方を推論していく。もしかすると、人間は「コンピュータの奴隷労働者」に堕するかもしれない。なぜなら、「コンピュータに不可能で人間に可能」な労働が、必ずしも、付加価値の高いものとは限らないからだ。「コンピュータには不可能だが、人間なら誰にでも可能」な仕事の付加価値は低く、従って、報酬も小さいだろう。そこで、新井さんは、そういう悲劇に墜ちないために、数学を勉強することを薦めている。コンピュータは数学の一部だが、一部にすぎないからだ。数学には、(いや、自著の宣伝も込めて、笑い)、「数学的思考」には、コンピュータにできない「高級で」「本質的で」「付加価値の高い」部分が多く残されている。それは、問題を設定したり、解き方をあれこれ思索したり、価値判断をしたりする能力だ。まさに、新井さんがかねてから主張している「生き抜くための数学」。それが新井さんの読者へのメッセージなんじゃないかと思う。
 長くなってしまったが、最後にプロの経済学者として一言。2009年に数学者のパパディミトリウが「ナッシュ均衡の計算が2人ゲームであってもNP困難である」ことを証明したことを指摘し、これに注目した経済学者が多くなかったことに新井さんは驚いている。(嘆いている、といってもいいだろう)。気持ちはわかるけど、どうして注目されないかの理由もよくわかってしまう。そう嘆くのは、新井さんが「経済学とはどんな学問か」ということに疎いせいだと思う。どんな経済学者にパパディミトリウの結果について感想を求めてもきっと「そりゃそうなんじゃない?」と答えるだろう。例えば、惑星はニュートンの方程式に従って運動しているが、別に「惑星が微分方程式を解いて軌道を選んでいる」わけではない。ミクロの物質もシュレディンガー方程式に従って振る舞うけど、この方程式を「物質が計算している」わけではない。ただ、自然法則としてそうなっているだけだ。もちろん、人間が戦略を選ぶのだから、ナッシュ均衡を「人間が推論している」と考えたいのもわかる。実際、ぼくはそういう方向で研究を進めている。そうだけれども、ナッシュ均衡は実験でもしばしば実現されないし、なぜナッシュ均衡を考えるのか、というリーゾニングの部分も未完成だ。少なくとも、人間のゲームがナッシュ均衡に陥るとしても、「全員の戦略と利得を個々のプレーヤーが計算して、せーの、でナッシュ均衡の戦略をかけ声とともに選ぶ」というのは、まるで荒唐無稽だ。ゲーム理論では、「なぜ、相談もせずにナッシュ均衡が自動的に選ばれるか」という問題と、「そうでないなら、どんな均衡が結末になるのか」という問題の間をまだまださまよっている、といってもいいのじゃないか、と(個人的見解だが)思う。ナッシュ均衡以外に良いアイデアがないから、とりあえず、「ナッシュで行こう」というコンセンサスが当座築かれているだけ。言い方を変えるなら、ナッシュ均衡に関しては、ゲーム理論はパパディミトリウの結果よりずっと原始的な段階が解決していないのだ。もちろん、ぼくは、このパパディミトリウの結果にはめちゃめちゃ興味があるし、いずれゲーム理論の側で何らかのレスポンス、発展があることだろうと思う。というか、あわよくば、自分で貢献したいものだけどね。
 ああ、今回も長すぎた・・・すまん。