映画「小説家をみつけたら」と若干の思い出話

ぼくが地震に遭遇したのは、家の近くの路上だった。妻と息子と3人で昼飯を食いに出かけた帰り道だった。それはそれはものすごい揺れ方で、この世の終わりかと思った。幸いだったのは、家族全員がその場にそろっていたことだった。東京は被害が東北ほどでなかったとはいえ、家族の誰かが帰宅難民になっていたら、電話も通じなかったわけだし、とても心配だったに違いない。もちろん、それでも、実際に家族を失ったり、家の失ったりした人々の悲しみに比べれば、とるに足らないものではあろうけれど。
地震については、これ以上、何をどう書いていいのかわからないので、今回は全く関係ない話題を書こうと思う。
先日、BSで放映した映画『小説家を見つけたらを観た。これは、ロードショーのときに観たのだが、マイベスト3には入る映画だと思う。テレビで観直してみて、その想いを強くした。

小説家を見つけたら [DVD]

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監督は、ガス・ヴァン・サント。ぼくの最も好きな監督の一人だ。サントの映画は、初期の『ドラッグストアカーボーイ』から観ていて、これはすごい傑作だし、あとは、天才数学青年の孤独を描いた『グッド・ウィル・ハンティング』なんかも大好きだし、高校生のライフル乱射事件を描いた『エレファント』もすごい作品だった。とにかく、サントは、美形でナイーブな男子を描くことでは右に出る者がいないと思う。『小説家を見つけたら』と『グッド・ウィル・ハンティング』は、似たプロットの作品で、どちらも才能ある青少年の痛々しい青春を描いている。どちらの作品でも、ぼくは終わり近くは、涙で視界がゆがんでしまって、画面をきちんと見られなくなってしまったのだった。
小説家を見つけたら』は、貧しい黒人母子家庭の高校生ジャマールが、バスケと学科能力を買われて、私立高校にスカウトされるところから始まる。アメリカには、実際に、そういう制度があるらしい。いかにもアメリカらしいと思う。ジャマールは、クラスメイトの中で浮かないように、いつもの期末テストではわざと平均点を取っているのだけど、州レベルの実力テストでうっかり良い成績を取ってしまった(笑い)ことから、私立学校の経営者に目をつけられることになる。そして、全く異なるソサエティに入りこむことになってしまうのだ。
彼がバスケをしているのも、黒人の仲間たちとうまくやるためであって、すごく好きなわけではない。彼が本当に好きなのは、本を読むことと文章を書くこと。とりわけ、文学を愛していた。そんなジャマールは、ひょんなことから、隠遁している小説家と出会うことになる。その小説家は、とんでもない小説を一本書いて、ベストセラーとなったきり、突如、雲隠れしてしまった伝説の作家なのだった。ジャマールは、その小説家と次第に交友を深めるようになり、文章の手ほどきを受けるようになる。
この隠遁作家フォレスターは、ショーン・コネリーが演じているんだけど、たぶん、サリンジャーをモデルにしているのだと思う。たったひとつの小説が、ずっと読まれ続け、その後ずっと食っていけるほどの財を築いたといえば、サリンジャーをおいて他にないだろう。そうだとすれば、ジャマールというキャラクターは、多分に、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公ホールデンを意識して形成しているのに違いない。もちろん、フォレスターが小説を書かなくなった理由やその後の人生はサリンジャーとは異なるけれど。
この映画は、ジャマールとフォレスターが、相互の交流と感情のぶつかりによって、それぞれが抱えている人生の問題を克服し、殻を打ち破ることをテーマにしている。そういう意味では、押しも押されもせぬ青春ものである。でも、ぼくがこの映画で好きなのは、ジャマールの、良く言えば反骨の、悪く言えば反抗的な、性格を表出させるシーンだ。中でも一番好きなシーンは、陰険な国語の教師に逆らって、ひた隠しにしていた自分の知識をひけらかし、その教師をやり込めるシーンだ。そのときに、それまで抑えていたジャマールの感情の爆発するさまは、とても痛快だった。まあ、それが、ジャマールをひどい窮地に陥れることになるわけだけど。なぜ痛快だったかというと、これととても似たことを、ぼくも高校生のときにやったからなのだ。以下、恐縮ながら、自分の思い出話となる。
ぼくは、高校生のときは、教師に対して挑発的な態度をとる学生だった。とりわけ、気に入らない教師に対しては。今にして思えば、本当にいけすかないやつだったと思う。
気に入らないのは、「苦労したことがない秀才型」の教師だった。「苦労したことがない秀才」というのは、決して、才能があることは意味しない。どんな分野であっても、学校の勉強を超えてアプローチしようとすれば、必ず苦労をする。その後に専門家になった人たちの多くは、きっと、どこかの時点で、理解することに青息吐息になったことがあるはずだろう。「苦労しなかった」というのは、そういう経験がないことを意味していて、多くの場合、「学校で与えられただけの分量を完璧にこなしただけ」なのだと思うのだ。批判的にいえば、教師が教えた通りのことを従順に覚えて、それを完璧に定期テストで解答することを繰り返した人だということだ。そういう人が、教師になった場合、ぼくはすぐにその匂いをかぎ分けた。そして、敵意を覚えた。なぜなら、そういう教師は、おうおうに自信家で、おうおうにして授業は通り一遍で、おうおうにして高圧的で、たいてい説教臭い、そんなふうに思えたからだった。大人になった今は、別にそういう人生はあっていいし、教師に自分の嗜好を求めすぎるべきではないことは十分にわかっている。でも、高校生のときのぼくは、少なくとも、そんな心の余裕はなかったのだ。ぼくは、単なる青臭い生意気な高校生にすぎなかった。
さて、高校のときの国語教師の一人に、ぼくの嫌いなそういう匂いをかぎ取った。それでぼくは、ずっと、その先生の鼻をあかすチャンスを虎視眈々と狙っていた。そしてある日、ついに、チャンスがやってきた。教科書に「木馬の歴史」という文章が載っていて、それは、表面上は、木馬にまつわるいろいろな歴史をたどるエッセイであったけど、テーマは木馬じゃないことをぼくは知っていた。なぜなら、偶然、その元本を読んでいたからだ。それは、古在由重という人の岩波新書『思想とは何か』からの抜粋だった。ぼくは、ウキウキしながら、来たるべき時を待った。そのチャンスは、教師が何の追加のコメントもなく「木馬の歴史」についての授業を終えようとしたときにやってきた。ぼくは、挙手して、こう質問した。「先生、この文章のテーマはなんだと思いますか」。教師は抑揚のない顔で答えた。「タイトルの通り、木馬の歴史なのではないでしょうか」。ぼくは勝ち誇ったように「先生は、教材の元本にはあたらないわけなのですね。元本のタイトルの通り、これは、思想についてのエッセイなんですよ」。教室は、いったんシーンと静まりかえったあと、割れるような拍手が巻き起こった。
ちなみに、ぼくが古在由重『思想とは何か』を読んでいたのは、読書家だったからではない。それは、ある政治団体の勉強会に参加したときに扱った題材だからだった。参加したきっかけは同級生の政治活動少年に誘われたからだが、一度だけのつもりが何度も通うことになったのは、その集まりの中に、綺麗な女子大生がいたからだった。彼女は、いつも、打ち上げではバイオレットフィズなるカクテルを飲んでいたのを今でも覚えている。バイオレットフィズ・・・なんというハイソな響きだろう。ぼくは、彼女に素敵な異質感を感じていた。まるで私立高校でジャマールが知り合うことになる美人のお嬢さまみたいな異階級感。
ぼくは、この一件のせいで、ジャマールのようなひどいハメに陥ることはなかった。でも、どうしてそうならなかったか、卒業したあとに知った。担任だった先生の家に集まったとき、喫煙やら飲酒やらで何度も停学になった不良クラスメイトがいて、そいつが担任にかしこまって謝罪をした。そのとき、唐突に担任の口から「本当の問題児は小島だった」という一言がこぼれ落ちたのだ。ぼくは、驚愕した。ぼくが、そういった「教師いびり」をするたびに、教師たちの議論の中で、担任がかばってくれていたらしい。いくらいきがっていても、結局は、一人の教師に後始末してもらっていたのだ。
でも、このような良く言えば反骨の、悪く言えば反抗的な性格は、その後のぼくの人生には良い出目を出してくれたと思っている。反抗するためには、理論武装しなければならないし、「敵」のレベルがあがるたびに、妥協のできない勉強を余儀なくされたからだ。その延長上に、今のぼくがあるのだと思う。というか、そう信じたい。
そんなこんなで、ぼくは、『小説家を見つけたら』を観ると、おいおいと泣いてしまうわけなんだね。まあ、ジャマールに自分を重ねるというのも、ある意味、傲慢不遜だといえようが。
また、YUIの話になって申し訳ないのだが、彼女のデビューアルバムの中に「Blue wind」という名曲がある。メジャーセブンスとかシックスみたいなコードを使ってるんじゃないかな、と思えるしゃれた曲なんだけど、ぼくはずっとこの曲を、変わった形で恋のことを歌っている曲、だと思い込んでいた。でも、つい最近、そうでないことがわかった。これは、YUIの反骨の魂が露出している曲なんじゃないか、と気づいたのだ。歌詞は、自分を慰めてくれている「あなた」にむけたことばをつむぐ形式になっている。想像するに、その「あなた」は、YUIよりもずっと年上で、自称ミュージシャンみたいな男で、そして、食えないジョークをいう。その「あなた」は、YUIがミュージシャンを目指していることに対して、いろいろとアドヴァイスをする。もちろん、純粋な善意からくるものであることはYUIもわかっている。でも、彼女は、心の中では、「わたしがなりたいのは、あなたではない」、そう呟いている。そんな感じの歌だ。この曲が泣けるのは、その「あなた」の食えない励ましの中で、「きっと神さまがみている」っていうところだけに、YUIがぐっとくるところ。ここで「神さま」とはたぶん、彼女の音楽を理解し世に出してくれる人のことだろう。彼女は、そのことばだけを、拾い上げて、そして心に刻むのだ。とても切なくなって泣けてきてしまう。この曲は、YUIの歌うことに関する、希望と、気概と、不安と、そして痛みとを表しているから。もちろん、この解釈は、ぼくの激しい思い込みにすぎないかもしれない。そして、単なるラブソングなのかもしれない。でも、ぼくには、YUIのメッセージがこう伝わるのだ。「今の自分は、あいつよりぜんぜんダメだけれど、でもいつかきっと、あいつよりずっと高みにたどりついてみせる。だって、自分の憧れのほうがずっと強いし、自分のほうがずっと真摯に努力をしているから」と。なぜ、そういうメッセージを勝手に受け取るか、というと、それは高校生のときのぼくが、いつもそんなことを考えていたからだ。
また、とりとめがなくなってしまいますた。とりあえず、最後に宣伝をば。来週末、25日頃に、新著『景気を読みとく数学入門』角川ソフィア文庫が出ますよ〜。これも自信作なんだぞーい。内容については、発売したころにまたね。
景気を読みとく数学入門 (角川ソフィア文庫)

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