バンド不完全性定理を構想する。

(追記:1012年5月21日) 数理論理学者の古森雄一先生からコメントをいただき、少し加筆した(赤字の部分)。詳しくは、ロックバンドZFC48を構想する! - hiroyukikojimaの日記
とにかく、最近もう、あれだ、やくしまるえつこに完全にはまっている。いや、はめられている、というほうが正しいかもしれない。
4枚のソロシングルをいっぺんに買ってしまったが、すべてが傑作だった。タイトルからしてすごすぎる。「おやすみパラドックス」「COSMOS vs ALIAN」「ルル/ときめきハッカー」「ヴィーナスとジーザス」だもの。
ウィキペによると、スチャダラパーBOSE氏が、「気がついている人も多いと思うが、世界は去年ぐらいから完全に、 やくしまるさんを中心に回り始めている。」と語ったそうだが、ぼくなんか、彼女のまわりをまわっているどころか、そのブラックホールに落ちたまま出てこれない状態だ。
もうね、あれだよ、「COSMOS vs ALIAN」の中で、
ミクロとマクロの距離感大事
とか、歌われた日にゃあ、マクロ経済学に憧れて飛び込んで、ミクロ経済学者になっちったぼくなんか、完全ノックアウトだよ。
それでなんだけど、大学のぼくのゼミ(小島寛之ゼミ)では、ぼくが昔、バンド遊びをしてたことをゼミ生が知ると、必ず毎年「ゼミバンド」の構想が出る。いまだに実現したことはないんだけど、今年のゼミ生たちは非常に積極的で、もうゼミ内でバンドを結成して、スタジオにも入って、あとはぼくが蔵からギターを出して埃を払うばかりになっているのである。ひょっとすると、初めて、ゼミの連中とバンドをすることになるかもしれない。
それで考えたんだけど、やくしまるさんのバンド「相対性理論」にちなんで、「不完全性定理」というバンド名はどうだろうか。
いうまでもなく、20世紀の三種の神器といえば、「相対性理論」「量子力学」「不完全性定理」だ。だから、この3つの名のついたバンドがそれぞれあってもいいんじゃないだろうか。と、すれば、ぼくは量子力学の理解にはあまり自信がないので(といいつつ、拙著『世界を読みとく数学入門』には、思いっきり量子力学ネタがいれてある。でも、これは、プロの物理学者をブレインにしてるので大丈夫)、やはり、つけるなら「不完全性定理」だ。だって、2011-07-04 - hiroyukikojimaの日記にも書いた通り、最近、不完全性定理をかなりな程度理解できちゃったんだから。
それで、結成するとすれば、どんなコンセプトのバンドにするか、考えてみた。バンド相対性理論が、たぶん、「相対」「性」「理論」と区切るのであろうことを考えると、「不完全」「性」「定理」と区切るべきであろう。ならば、ニューハーフとか、オネエとかをボーカルに迎えなければならないだろうか・・・う〜ん、悪くはないが、それは避けたい。そこで考えた。
ゲーデルの証明した不完全性定理の妙味は、この小文の最後の最後でちょっと語るように、「機械 vs 人間」だといっていいと思う。とすれば、バンドの方向性はおのずと決まる。かつて、YMO高橋ユキヒロ氏が、まるで打ち込み(ドラムマシン)のようなリズムを人間が叩く、という離れ業をやってのけて、リスナーをのけぞらせたことを思い出すと、バンド不完全性定理がすべきなのは、まるでボーカロイドのような歌を人間の女の子が生声で歌う、ということではなかろうか。そうだ、それこそが、唯一の方向性だ。もちろん、デビュー曲は、やくしまるさんの「おやすみパラドックス」に対抗して、「うそつきパラドックス」であることはいうまでもない。
 などと、ずいぶんくだらないことを書いてしまったが、気分が「くだらないことを思いっきり書きたい」のだから仕方ない。しかし、このまま終わってもなんだから、不完全性定理について、まじめなことも少しだけ書いておこう。
新井敏康『数学基礎論岩波書店を読んで、今回はっきりと自覚したのは、数学基礎論という「メタ理論」が、その外側と内側でなにをやっているか、ということだ。たとえば、「自然数の公理系PAは、文Fを証明できる(pr(F))」ということを証明する、というときの「」の中の「証明」と「」の外の「証明」はどう違うか、ということが大事なのだ。それがわからないと、PAの内部でひどく限定的に使われている証明の規則が、PAの外では自由奔放に使えることに違和感をもつことになってしまう。これを理解するには、やはり、「機械 vs 人間」という視点を持つべきだろう。「」の中での証明は、いってみれば、機械にプログラミングするものであり、「」の外での証明は、いわば「人間の理性」が数学者のコンセンサスであるところの「証明」を自由奔放に振り回す世界なのである。一方、数理論理学者の古森先生に教えていただいたことによれば、「」の外側の証明は、ZFC(ツェルメロ・フレンケル集合論+選択公理)で十分である、と広く信じられているそうで、「自由奔放」の天井としては、ZFCぐらいでいい、ということらしい。(もう少し詳しい説明は、ロックバンドZFC48を構想する! - hiroyukikojimaの日記で読んでほしい)
)
 「人間の理性」の側(外側)で「成り立つ」とわかる文が、「機械の側」で「PAで証明できる」と証明でき、それをもう一段形式化して、「F→Pr(F)という文」つまり「FならばFは証明可能」ということがPAから証明される、という不可思議な入れ子構造が可能になる。それを上手に扱うことによって、「PAでは証明も否定もできない文」というのを作りだすのである。大胆にいえば、人間の理性が、機械に入れ子構造を埋め込んでいく、そんな感じなんだと思う。
そういう風に理解すると、ゲーデル不完全性定理は、俗に「人間の理性の限界を示した」ようにいわれるけど、全く逆だと思う。そうではなく、「人間のあるレベルの理性(ZFC程度の理性)が機械の能力の限界さえ突き止めることができた」と評するべきだとわかってくる。これは、「人間の理性の限界」を示したどころか、「人間の理性の無限の可能性」を示したとさえいえるのではないか。それが、「外側」と「内側」の違いなのだ。まあ、詳しいことは、また次回に。要は、やくしまるえつこさんがいかにすごいか、っつうことなわけだ。

数学基礎論

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