数と楕円曲線

前に、このブログで、「あれほど好きだった数論が、今ではあんまり興味がなくなった」というようなことを書いた。
でも、そうは言ったものの、やっぱりあれだ、ときどき思い出したように、数論の入門書を読んじゃったりするのだね。
この感じはなんと言ったらいいだろう。初恋の女の子のことをたま〜に夢に見ちゃったりする、のに近いかもしれない。起きたとき、少し動揺する。日常生活では思い出すことが全くないのに、夢に不意に登場されたりすると、自分さえ自覚してない自分の中にある未練みたいなものと直面したみたいで、めっちゃ恥ずかしくなる。でも、少しだけ甘酸っぱかったりもするものだ。
さて、そんな初恋の子の夢みたいな後ろめたさで、最近読んだ数論の本が、Chahal『数論入門講義〜数と楕円曲線』(織田進訳、共立出版)だ。
この本は、書店の数学コーナーを見回ってるときにたまたま手にした本。ぼくは、自分の本が書店でどう扱われているか見るために、ときどき数学コーナーを見て歩くことにしている。「ああ、もう平積みじゃなくなってるな〜」とか、「ぎゃ、とうとう在庫から抹殺されちまった」とか。そして、自分の本を目立つとこに置き直したり、少し本棚からはみ出させたりする。(書店員さん、すんませーん)。そんな中、この本を手にしたのは、「数と楕円曲線」というサブタイトルに惹かれたからだった。

数論入門講義―数と楕円曲線

数論入門講義―数と楕円曲線

数論に未練があるとすれば、それは楕円曲線に対するものだ。
ぼくは、中学生のとき、素数とかフェルマー予想とかから数論にはまり、将来は数論の研究者になりたいという夢を持った。それで、数学科に進学するところまではなんとか予定通りうまくいった。そこまでだった。そこで大きな壁にぶつかった。数論を研究するためのさまざまな抽象的な道具立てにどうしてもついていくことができなかったのだ。今思えば、それがぼくの能力の限界だったのだと思う。向いていなかったわけだね。
数学の道をあきらめてから10年くらい経って、突如、フェルマー予想ワイルズによって解決された。自分が生きている間に解決されたのはすごく嬉しかったし、数学ライターとして、報道の一端に関わることができた(数セミ、科学朝日、月刊プレイボーイ等)のは誇らしかった。ぼくはこれで、中学生のときの夢に終止符を打つことができた。でも、ただ一つ悔しかったのは、解決のためのカギとなった楕円曲線のことを、大学でほとんど勉強しなかったことだった。勉強してわからなかったなら諦めもつくけど、なんせ、ま〜たく勉強しなかったからね。だからいつか勉強してみたい、という誘惑があったのだ。
さらにいうなら、今はれっきとした経済学者になってて、そっちではそこそこのステイタスもある。だから、楕円曲線なんかどうでもいいんだけど、数学ライターとして、数論の先端学者・黒川信重さんとリーマン予想は解決するのか?』青土社なんていう対談本を出しちゃってる。いうまでもなく、リーマン予想は、ゼータ関数に関する予想だけど、楕円曲線は重要な関わりを持ってる。黒川さんと対談した日から、楕円曲線についていつか勉強しとかなきゃなー、という切迫感を持ったのだ。
 前置きが、いつものように、むっちゃ長くなったが、Chahal『数論入門講義〜数と楕円曲線』(織田進訳、共立出版)だ。この本は、ほんとにスゴイと思うよ。こんな本よく書けたと思うなぁ。まあ、大学の講義をそのまま原稿にしたみたいだから、よっぽど講義に熱心な先生に違いない。この本の特徴は、一言でまとめるなら、古典数論と、現代数論の入り口とを、絶妙に、そして完璧に接続した、ということだろう。これまで、古典数論の良書は枚挙のいとまがない。そして、現代数論の専門書も(知らないけど)それなりにあるのだろう。でも、古典数論と現代数論の入り口とを絶妙にトッピングする、という仕事は、いろんな人が試みたけどうまくいったことがなかったんじゃないか、と思う。本書は、初めてそれに大成功した本だと思う。
 以下、目次をざっくりと説明する。いや、ほんとにね、すごい見事な章組みなんすよ。
第一章は、もろ、古典数論。合同式とか、ディオファントス方程式の解説。ディオファントス方程式の例として、ピタゴラス方程式(xの2乗+yの2乗=zの2乗)、フェルマー方程式(xのn乗+yのn乗=zのn乗)。そして、ここに、合同数という、聞き慣れないネタが出てくる。
合同数とは、次のように定義される。「正の整数Aは、3辺が有理数の直角三角形の面積となっているとき、合同数と呼ばれる」。たとえば、3, 4, 5が直角三角形だから、その面積3×4÷2=6は合同数だ。13世紀のフィボナッチは、3/2, 20/3, 41/6が直角三角形であることから、「5が合同数である」ことを発見している。その上、「1が合同数でない」ことも証明したそうだから、すごい。それにしても、「なんで合同数にこんなに紙数を費やすんだろう」、と疑問を持ったら、著者の術中。あとの章で、もう一回、合同数が登場するときは、感動の嵐になる。
第2章は、まあ、平凡。群・環・体の概念をごく簡単に解説している。
第3章は、平方剰余相互の法則の証明。法mの平方剰余とは、与えられた数が平方数をmで割った余りになる場合をいう。与えられた数が平方剰余であるか、非剰余であるかを決めるアルゴリズムが、平方剰余相互の法則だ。この法則の完全な証明を与えているんだけど、その証明があまりにみごとである。たぶん、ぼくが読んだことのある中では、最もエレガントにしてわかりやすい証明だと思う。基本的には、ガウスの与えた7つの証明の中の3番目の証明で、格子点を使う方法なんだけど、現代的な群論を絶妙な用い方をするのがすばらしい。多くの初等数論は、群論を使っていないので、その分まわりくどくなってるけど、そこはばっさりやったのがアイデアだと思った。
そのあと、4平方数定理(すべての自然数は4個の平方数の和である)の証明を与えているが、これもめちゃくちゃわかりやすい。加えて、2平方数定理(2個の平方数の和となる自然数の特徴づけ)を平方剰余相互の法則を用いて、非常に明快に証明している。
第4章は、古典的なペル方程式の話から始まる。ペル方程式とは、(xの2乗)−d(yの2乗)=1、の整数解を求める問題だ。ペル方程式は非常に古典的な数論ネタなんだけど、これを「代数体の整数環」における単数の問題として扱う、というところにみごとなテーマ性がある。単数というのは、逆数も整数であるような整数のこと。普通の整数では、±1だけである。実は、整数という概念は代数体に拡張することができ、その中で単数を考えることができる。例えば、有理数に√2を添加してつくる代数体の整数における単数が、まさにペル方程式の解から得られるのである。この代数体の単数に関して、ディリクレの単数定理と呼ばれるスゴイ定理がある。そのジーゲルによる証明をこの章で与えている。
第5章が、いよいよ、楕円曲線に関する章となる。楕円曲線とは、(yの2乗)=(xの3乗)+Ax+B、という方程式のグラフである。この曲線が、初等数論マニアにあなどれないのは、フェルマー方程式の中の(xの3乗+yの3乗=zの3乗)も、ある変換をほどこすと、楕円曲線になってしまう、ということである。そして、この章では、楕円曲線上の有理点の集合が加法群の構造を持つ、ということのエレガントな証明を与えている。その証明は、曲線の交点数を利用するもので、ベズーの定理(m次曲線とn次曲線の交点数はmn個)を仮定してしまえば、高校生でも理解できる。
第6章(このあたりから斜め読みになっているので、間違ってるかもしらん)では、楕円曲線上の有理点の成す群が有限生成アーベル群になる、というモーデル・ヴェイユの定理の証明を与えている。
第7章では、楕円曲線上の有理点の成す群を具体的に決定する方法を与えている。そして、この章の終わりが劇的なことになっている。それは、ここで合同数が再登場することである! なんということでしょう、「整数Aが合同数である」ということと、「楕円曲線、(yの2乗)=(xの3乗)−(Aの2乗)x、の有理点の成す群」との間の関係が示されちゃうのである。ここまでくると、スタンディングオベーションしかない。なんとよく仕組まれていることか。
最後の第8章は、有限体上の楕円曲線の話になる。そして、現在も解決しておらず、数論最大の標的であるバーチ・スウィンナートン=ダイアー予想(バーチ・スウィンナートン=ダイアー予想 - Wikipedia)がもしも正しいと示されたなら、合同数に関して「Aは平方因子を持たず、8で割った余りが5, 6, 7なら、Aは合同数」が証明される、という、泣けるような夢多き結果で終わることになるのだ。
いやあ、すばらしい本が出たものだ。アマチュア数論マニアの諸氏、高校の数学の先生がた、そして、大学の数学科に進学したけれど道に迷っているあなたにお勧めしたい本である。この本が書かれたのは1988年、邦訳されたのは2002年だ。洋書が刊行された時さえ、すでにぼくは30歳だった。せめて、数学科在学時に、こういう本に出会えていえば、(数学者になれなかったことは変わらなかったろうが)、もっと数論に対する感覚は変わっていたと思う。
いつか、そう遠くない将来、この本を土台にして、よくわかって夢のある数論の啓蒙書を書いてみたいと思う。新たな目標を持てたという意味で、この本にはすごく感謝するぞ!そうすれば、ぼくの数学への初恋も、顔が立つことだろう。そして、数論への「老いらくの恋」というのも、また悪くないと思う。

リーマン予想は解決するのか? ―絶対数学の戦略―

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