新著『大悪魔との算数決戦』が出ました!

今日あたりに、新著『大悪魔との算数決戦』技術評論社が書店に並び、アマゾンにも入荷されると思うので、満を持して宣伝をしよう。

大悪魔との算数決戦 (すうがくと友だちになる物語1)

大悪魔との算数決戦 (すうがくと友だちになる物語1)

これは、物語に算数(や数学)を埋め込んだ冒険ファンタジー。一応、10歳以上が対象、となっているが、もちろん、大人にも掛け値なしに楽しめる小説に仕上がっている。アマゾンにアップされている編集者のまとめたストーリーを引用しておこう。

ある日、シモツキ、キサラギ、ヤヨイの小学生3人組は、近くの犬神山で起きている超常現象のうわさを聞き調査に出かける。そこで実際テレポート現象を体験した3人だったが、偶然出会った全能博士なる老人から、それが「パラドクス」であることを知らされる。興味をもった3人はさらにパラドクス探偵団を結成し、ふしぎな現象の調査に乗り出すが、そこには日本中をパラドクスによって支配しようとする大悪魔の存在が……。小学生3人組が織り成す冒険ストーリーという形をとりながら、算数・数学の根本的な面白さに迫る。

これは、1999年〜2000年に小峰書店から刊行したぼくの三冊の児童小説から、8編を選び出して、それに未刊行の原稿『双子のユウレイ』(雑誌『中学への算数』東京出版に掲載)を改稿した上で加えた作品。とは言っても、9個の物語は、ほぼ原型を留めないほどに書き換えてしまったので、元本とは別作品だと言っても過言ではない。何よりの違いは、元本ではそれぞれ独立していた物語を、「大悪魔を倒す冒険」という形で、ひとつながりの物語に仕立て直したことだ。こうしたおかげで、今回は、ファンタジー物語としての躍動感を生み出すことができたと思う。あと、もう一つの違いは、イラストレーターが元本と変わり、大高郁子さんになったことだ(大高さんのHPは、ikuko otaka door)。大高さんは、吉田武さんや吉永良正さんの数学啓蒙書などのイラストも手がけておられ、このジャンルでは名の知れた人だ。新著『大悪魔との算数決戦』技術評論社でも、みごとなイラストを描いてくださった。パラドクス探偵団の三人も、パラドクス解明の天才・全能博士も、そして、敵キャラの悪魔とその手先たちも、実に活き活きとした、そして、幻想味のあるキャラに仕上げていただいた。とりわけ、最後のページの絵は、物語を書いたぼくでさえ、感涙してしまうぐらいの、感動的な絵になっている。(書店で、このページだけ観ちゃいかんぞよ)。絵本を書く喜びの一つは、イラストレーターのかたと二人三脚で、一つの時空間を作りあげられる、ということだ。イラストがラフからペン入れ、そして仕上がりと、だんだんできあがっていく過程を体験するのは、このうえない喜びである。(読者は体験できないからね〜)。
 この物語は、上記引用にあるように、パラドクスで世界を支配しようとする大悪魔から、世界を取り返すために、大悪魔の手下を倒しながら、だんだん大悪魔に近づいていく、という物語である。手下というのも、インチキ教祖とか、ゲームキャラとか、子供の双子のユーレイとか、猛獣使いとか、魔女とか、多彩になっている。基本的には、パラドクスを使って人心を惑わせている魔物を、パラドクスを逆手にとってやっつける、という構造の物語になっている。
ぼくが、パラドクスというものを知ったのは、中学1年のときだった。ノースロップ『ふしぎな数学』という本を、図書館から借りて読んだのがきっかけだった。これは、いろいろな分野のパラドクスを総覧させてくれるもので、すごくわくわくした。数学の教師にパラドクスをぶつけて嫌がらせをしたり、数学が得意だ、と息巻いている奴をパラドクスで混乱させたりした。今思えば、ぼくは本当に嫌な奴だったな、と思う。数学が得意な連中というのは、与えられた操作を正確にこなせるだけのことが多く、本当に数学の概念を深く理解しているわけではなかった。与えられた操作を正確にこなすことと、数学的概念を本質的に理解することには隔たりがある。だから、そういう人たちは、パラドクスをぶつけられると、とにかくただただ狼狽する。その狼狽をみていい気分になる、というのはいかにも悪趣味だけど、そのためにパラドクスを勉強するのは、数学の深い部分を知ることにつながり、結果的にはものすごく有意義だった。パラドクスは、数学をうわっつらで理解しているだけでいい気になっている(教師を含む)連中の鼻をあかすための武器だったのだ。
ノースロップ『ふしぎな数学』に載っていたパラドクスで大好きだったものを二つほど挙げてみよう。

(2=1の証明)
次の式からスタートする:  a=b
両辺にaを掛ける:     aの2乗=ab
両辺から(bの2乗)を引く: (aの2乗)−(bの2乗)=ab−(bの2乗)
因数分解する:      (a+b)(a-b)=b(a-b)
両辺をa-bで割る:     a+b=b
a=b=1を代入する:     2=1

(-1=1の証明)
次の公式からスタートする:  √a√b=√ab
a=b=-1を代入する:      √-1√-1=√(-1)(-1)
√の定義√a√a=aから :     −1=+1

いやあ、実によく出来ている。すばらしいパラドクスだと思う。
もちろん、上のパラドクスは、数学に通じている人なら、簡単にタネがわかるだろう。けれども、パラドクスが「ごまかし」や「インチキ」ではなく、数学の本性に触れる場合があるから面白いのだ。例えば、カントールの無限集合論は、「自然数の個数と偶数の個数は等しい」というふうに「全体と部分が等しくなる」というパラドクスに端を発しているが、これをパラドクス(=インチキ・詭弁)とせず、無限の本性だと考えたことで、20世紀以降の抽象数学が花開くことになった。また、カントールの(素朴)集合論が陥ったラッセルのパラドクスを解決するために、数学基礎論(ZFC公理系もその一つ:ロックバンドZFC48を構想する! - hiroyukikojimaの日記参照)が生み出され、それが数理論理学を整備し、コンピュータの発明を促すことになった。さらには、「この文章はウソだ」のような自己言及のパラドクスが、ゲーデル不完全性定理を生み出す仕掛けになった(この辺の事情は、拙著『無限を読みとく数学入門』角川ソフィア文庫を参照のこと)。そういう意味で、パラドクスは、数学のやっかいものどころか、数学を変革する原動力だと言えるのである。
そんな、パラドクスから数学に入門したぼくだから、子供たちにも(そして、大人たちにも)パラドクスの魅力を知ってもらいたいと思って、新著『大悪魔との算数決戦』技術評論社を書いたのである。なので、その気持ちを込めた、本の最後の「解説」の一部をここにさらすことにしよう。

この物語は、「算数なんて、めんどくさくて、いんけんで、いやーなやつ」と思っているすべての人のために、そうとも言えないぞ、というアピールのために書きました。算数は完全無欠なんてことはなく、間違えたり、混乱したりすることもあるんです。算数がはまる間違いや混乱、それがまさにパラドクスなのです。
算数は、パラドクスにやりこめられ、頭を抱え、パニックになり、それを乗りこえて一人前になります。それは、言ってみれば、少年少女の成長の過程そのものでもあります。そう思えば、算数だって、かわいいもんだと思えてくることでしょう。友だちにしてもいいかな、と心を開けることでしょう。
 もしも、今、皆さんがそういう気持ちになっているなら、これ以上、パラドクスに関する解説を読まないほうがいいかもしれません。ナゾはナゾのまま残しておくのも幸せの一つのありかたでしょう。

本では、このあと、各物語の背景になっているパラドクスについての解説が綴られる。興味がある人は、是非、買って読んでくらはい。もちろん、物語だけでも面白く読めるように書いてあるけどね。

アキレスとカメ

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ふしぎな数学―数学のパラドクス

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