半歩遅れの読書術の連載の補足(2、3回目分)

日経の日曜版の読書欄に、「半歩遅れの読書術」というコーナーがあって、それに4回連続で寄稿している。このブログでは、そこに字数の関係で書ききれなかったことを補足している。連載1回目(9月2日掲載)については、前回日経書評欄の短期連載のこと+おまけの本紹介 - hiroyukikojimaの日記で補足したので、今回は2回目(9月9日掲載)と3回目(9月16日掲載)について、簡単に補足しよう。
 2回目は経済学の本を紹介した。一冊は松井彰彦『高校生からのゲーム理論』ちくまプリマ−新書、もう一冊はスコット・パターソン『ザ・クオンツ早川書房。このブログではすでに、前者は魂ほとばしるゲーム理論の本 - hiroyukikojimaの日記で、後者は、クオンツという人たち - hiroyukikojimaの日記で詳しく紹介しているのでこれ以上は触れない。
とりわけ松井さんの本には反響があった。掲載直後にアマゾンで12位だか14位だかまで上がった。我ながらびっくりした。今日の日経新聞筑摩書房の広告でも、松井彰彦『高校生からのゲーム理論』ちくまプリマ−新書を(新刊でもないのに)大きく広告しており、そこに「日経書評欄で大反響」とあった。やったね、という気分とともに、人の本をこんなに売ってやっちゃって「どうするぅ」的な気分にもなった。笑い。
「半歩遅れの読書術」は、基本的にエッセイ欄だ。実際、ぼくはエッセイストとして依頼を受けている。だから、紹介する本は、一般のかたが楽しめるものにしなければならない。松井さんの本を紹介するなら、本当は、『慣習と規範の経済学』東洋経済を紹介したかったのだけれど、それは諦めたのだ。

慣習と規範の経済学―ゲーム理論からのメッセージ

慣習と規範の経済学―ゲーム理論からのメッセージ

この本を読んだときは、本当に衝撃だった。松井さんの講義を大学院で受講したし、松井さんの論文のいくつかは読んだけれど、彼の研究の背後にこの本に書かれているような深い社会への問題意識が隠されている、とは思っていなかったからだ。この本は、松井さんのそれまでの研究を集めた論文集だ。だから、本の4分の3は、小難しい数式で埋められている。しかし、残りの4分の1に、それらの研究で松井さんが何を言いたいか、その「本音」が告白されている。これらの「本音」は論文自体にも明示的には書かれていないものだ。ぼくは、これを読んで、初めて、松井さんが何を目指して研究をしているのかを知ったのである。(ただし、本書をきちんと理解するのは、経済学のトレーニングを受けていないと無理だろう。ぼくもモデルをすべてきちんと読み解いたわけじゃない)。
松井さんの目標は、社会における「慣習」とか「規範」とかの理屈を解明することである。それらは、たいていは、社会を円滑にまわしていく「見えない仕組み」となっているが、ときに「人種差別」や「民族間抗争」のような深刻な問題も生み出してしまう。このようなことをできるだけクールに(つまり、数学モデルによって)解明しようとしているのが、松井さんの研究なのである。
実はぼくは、経済学部の大学院に行って、かなり失望していた時期があった。教員も院生も、単なる知的遊戯として経済学をやっているようにしか見えなかった。知的遊戯だったら、数学のほうが数段面白い。経済学って、社会の問題を解決することが目標じゃなかったのか、そんな風に落胆していた。でも、松井さんのこの本を読んで、考えがかわった。中には、社会問題を理路整然とした方法で解明しようとする営みを真摯に行っている人もいるのだ、とわかり嬉しくなったのだ。まあ、その後わかってきたことだが、きちんと研究している人ほど自分がどんな社会意識を持っているかを述べないものだ。それは論文に込めるのである。一方、ろくに研究していない人ほど社会意識を露わにする。論文はないから、印象論と「べきだ論」の嵐である。こういう構図になっている、とわかってからは、気持ちは落ち着いた。きちんと論文を書いている人の言葉だけに耳を傾ければいい。もう一度くり返すけど、『慣習と規範の経済学』東洋経済は本当に衝撃だったのだ。この衝撃は、個人的には、アカロフ『ある理論経済学者のお話の本』ハーベスト社を読んだときのものに匹敵する。
ある理論経済学者のお話の本

ある理論経済学者のお話の本

これは、ノーベル経済学賞に輝いたアカロフの論文集であるが、アカロフが何を思って一連の研究をしたか、その「本音」が書かれている。これを読むまで、あの有名な「レモン理論(中古車市場における逆淘汰)」が人種差別を念頭に置いて書かれていたなどとは思いもしなかった。こういう経済学者は日本にはいないだろう、と思っていたが、松井さんの本を読んで、それが間違いであることがわかったのだ。
 次の3回目には、小説家を3人紹介した。一人は乙一(おついち、と読む)氏。二人目は絲山秋子氏。三人目はサリンジャーだ。この回は、1回目(数学)、2回目(経済学)に比べると反響が小さかったように思う。まあ、小説に関する人の好みはそれぞれだし、ぼくのキャラクター、ライターとしての立ち位置とマッチしなかったんだろう。乙一については、『GOTH』角川文庫『夏と花火と私の死体』集英社文庫を紹介したのだけれど、掲載されたあとに、本当はもっと推薦すべき小説があったことに思い至った。それは、死にぞこないの青幻冬舎文庫だ。
死にぞこないの青 (幻冬舎文庫)

死にぞこないの青 (幻冬舎文庫)

これは、心底戦慄する物語だった。テーマは、ずばり「いじめ」だ。なんでもない普通の小学生の主人公は、じわじわと「いじめ」の餌食になっていく。そして、それは誰の力でも止めることができないような「しがらみ」となっていくのである。これは、本当に怖いし、「いじめ」のある種の本質を描いているように思う。もちろん、今、社会問題化している事件に見られる「いじめ」では、いじめた側はきっと弁解しようもなく悪いのに違いない。しかし、「いじめ」は、場合によっていじめる側にも脱出しようのない(ゲーム論的な)均衡状態を生み出してしまうことだってありうるだろう。この物語は、それをみごとに描き出しているのだ。これを読むと、教室の中に「絶対悪」が存在しないにもかからわず、一人の子どもが「いじめ」の餌食となっていくプロセスが説得されるのである。とりわけ、そこで担任教師の演じる、どうしようもなく許せない役割には、絶望的な気分にさせられた。
乙一氏は、『GOTH』ゴスロリと呼ばれるファッション、ある意味「死のファッション化」のようなものをみごとに描いて、ぼくとの世代の違いを思い知らせてくれたが、この、死にぞこないの青幻冬舎文庫では、「いじめ」に対する感覚の違いを見せつけてくれた。本当に、斬新な感覚の作家だと思う。
 「半歩遅れの読書術」のぼくの担当分は、明日の日経読書欄で最終回だ。何を扱うかは、乞うご期待。
おっと、忘れるところだった。来月に出る新書の宣伝をしておこう。以下の本だ。
ゼロからわかる 経済学の思考法 (講談社現代新書)

ゼロからわかる 経済学の思考法 (講談社現代新書)

これは、ぼくがまっこうからミクロ経済学をレクチャーする本。詳細はまた、近くなったら、ということで。