数学は、人生を総動員して理解するとよいのだ、とわかった

ぼくの新著『数学は世界をこう見る 数と空間への現代的なアプローチ』PHP新書が、書店に並んで一週間ほどたつので、そろそろ販促第三弾のエントリーをしようと思う。

この本については、目次は数学は異世界を創り出す - hiroyukikojimaの日記のエントリーで、序文については、世界を見つめる「思想」としての数学 - hiroyukikojimaの日記のエントリーで紹介したので、そちらを参照してほしい。今回のエントリーでは、この本を書こうと思った、その動機部分について書いてみようと思う。
この本は、純粋数学の抽象的な理論の入門部分を解説した本である。そういう意味では、ぼくの本としては異色と言っていい。ぼくは経済学者なので、基本的に応用数学を使う立場にある。だから、これまでに出版したぼくの数学書は、基本的に、応用数学的な側面を持っている。例えば、『ゼロから学ぶ微分積分』『ゼロから学ぶ線形代数(いずれも講談社)は、微積線形代数の物理や経済への応用に目配せしているし、『完全独習 統計学入門』(ダイヤモンド社)は、統計学から数学を引き算したような本になっている。わりあい最近に刊行した、『数学的推論が世界を変える』(NHK新書)も、『数学的決断の技術』(朝日新書)も、本質的には、経済学への数学の応用がテーマとなっている。そんな中で、今回の本は、ガチで、純粋数学の解説に挑戦していて、そういう意味で、ぼくの本としては異色なのである。
 今回の『数学は世界をこう見る 数と空間への現代的なアプローチ』は、抽象代数の解説書である。だから、物質現象や社会現象への言及は一切無い。数学の内的な価値観だけを提示した本となっている。こういう本を書いたのは、ぼくの内面でこのところ起きていた認識の変化と大きな関係があるのだ。
 例えば、本書には、図形の位相的な形を分類するためのホモロジー、空間でないものを空間化させてしまう位相空間理論、n次多項式の零点として定義される図形を代数的に捉えるイデアル理論、加減乗が定義された代数系である可換環位相空間上の関数に仕立ててしまうスキーム理論などの入門編を解説しているのだけど、これらはいずれも、数学科に所属していた頃に理解できずに落ちこぼれた素材なのだ。
 今でも忘れられないは、ホモロジー群を教わった位相幾何の講義のテストのときだ。たしか2時間ぐらいのテスト時間にもかかわらず、ま〜ったく何もわからず、ただただ答案用紙にトーラス(ドーナツ形)の絵を描いて時間が過ぎるのを待った。早々に答案を(白紙のまま)提出して退出する勇気はなかった。あれほどの退屈な時間と、あれほどの屈辱の時間は、他に経験がない。
 それから、ゼミで代数多様体についての輪読をしたとき、それがマンフォード『代数幾何1』のほとんど最初のほうであるにもかかわらず、何も理解できないまま、夜な夜な英語の文面を呆然と見つめていたものだった。可換環論が当然の前提知識となっており、それを理解しようとすると、その前提にはもっと初歩の代数系集合論(ツォルンの補題など)が利用されており、それを紐解こうとすると、「無限後退」に陥るような気持ちになって、目眩がした。「生まれ直すしかない、いや、生まれ直しても間に合うまい」という悲観が心に渦巻いた。このようにして、ぼくは、数学科の落ちこぼれになった。
 でも、のちのちに、このときのぼくの認識は大間違いだったことがわかったのだ。当時のぼくがいけなかったのは、「数学を、目の前にある本や、講義のノートの、そのままの字面から理解しようとする」ことから一歩も外に出ようとしなかったことだった。ぼくは、「数学を理解する」という行為を限定的に閉じ込めてしまい、もっと広い外界にアクセスしなかったことが災いしたと気付くことになった。数学を(いや、どんな学問でもそれを)理解する、という行為は、人生を総動員して行うべきものであり、そうしさえすれば、(それへの愛と欲求がある限り)理解は不可能なことでもそんなに難しいことでもない、ということだとわかったのだ。
 実際、経済学者となってからのぼくには、数学を理解するための作業が、数学科の学生だった頃と大きく違うものとなった。例えば、数学的なアイテムを理解しようとするとき、専門書に書いてあることをそのまま受け入れようとする努力を捨てるようになった。それが抽象的すぎて、とても自分の感覚ではついていけないと感じたときは、そこに書いてあることを自分によくわかる別の言葉や記号に置き換えていく作業をすることにした。
具体例を挙げるなら、それは本書『数学は世界をこう見る 数と空間への現代的なアプローチ』ホモロジー群の説明に表れている。ホモロジー群というのは、チェインと呼ばれる幾何的対象の集合を高次元から低次元に並べて、その順番に沿って、境界作用素と呼ばれる写像を作る。そして、そのk番目の写像の像を(k+1)番目の写像の逆像で割って、剰余類を作る。その群がホモロジー群と呼ばれるものである。この定義は、何回読んでも、何をしているのかさっぱりわからなかった。だから、いったん、そういう抽象的な定義を鵜呑みにするのは諦めて、低次元で、それがどんな作業をしているのかを自分の言葉で理解してみようと試みた。最初に0次元で、次に1次元で。そしたら、だんだんと、それが意味していることがわかってきた。「要するに、これって、単なる中学1年生の文字式の同類項計算に毛が生えたものじゃん」という悟りに達したのである。こういう「自分の言葉での理解」を得たあとに、もう一度、一般的な定義に立ち返ってみると、チェインの集合間の境界作用素から剰余類を構成する手続きは、実にすっきりしていて、みごとな整合性を持っていることが実感できた。
ホモロジー群をこういう風に理解した背景には、ぼくが塾講師だった頃に、中学1年生に文字式を教えることで苦労した経験を持ったことも生きていた。文字式の同類項の計算というのは、一度わかってしまえば、あまりに当たり前なものである。でも、初めて学ぶ中学生にとっては、非常に抽象的で敷居の高いものである。ここで、「抽象的な計算規則を何の抵抗もなく受け入れられる子供」と「実感のないものを安易に受け入れられない子供」に振り分けられる。これは能力の優劣ではなく、性格の違いであると言える。前者だって、本当は「無批判に何でも信じてしまう」危ない資質だとも言えなくもないからだ。そして、後者のタイプの中学生たちに「文字式とは何か」を教えるのには、非常に苦労した。「文字式とは、ある計算の仕組みの全体を抽象化したもの」ということをなんとか伝えなければいけないからである。この教育で苦労したぼくは、めぐりめぐって、それが自分のホモロジー群の理解に生きた、というのは奇遇なことだ。
 本書『数学は世界をこう見る 数と空間への現代的なアプローチ』の最終目的となったスキーム(の初歩的部分)を、ぼくが理解できたのは、もっと数奇な運命の巡り合わせである。数学科卒業後、数論に未練のあったぼくは、代数幾何の必要性を痛感していた。とりわけ、フェルマーの最終定理が、楕円曲線上のゼータ関数の解析接続の問題である谷山予想に帰着され、それがワイルズによって解決されたのを目の当たりにしたぼくは、代数幾何をバックボーンにした数論幾何を勉強しなかったことを激しく後悔した。そして、なんとか少しでもスキーム理論に近づけないか、と願うようになった。しかし、何度チャレンジしてもその願望は、撥ねのけられてしまった。そのときもまた、「数学を、目の前にある本や、講義のノートの、そのままの字面から理解しよう」としていたからだ。
それが、ここ数年になって、急に様相が変化した。それは、数学者の黒川信重先生と対談で共著を作る、という仕事をしたことがきっかけであった。とくに、去年、共著『21世紀の新しい数学』技術評論社を作る過程で、黒川先生に、「スキーム理論は、ゲルファント・シロフの定理に由来する」ということを教えていただいたことが大きかった。ぼくは、複素関数論の層の理論あたりに由来するとばかり思っていたので、これには驚いた。「ゲルファント・シロフの定理」というのは、1940年くらいの定理だ。ざっくり説明すると、位相空間X(コンパクトでハウスドルフ)が与えられたとき、X上の複素連続関数の環C(X)を作り、C(X)の極大イデアルの集合specmC(X)を作る。そのspecmC(X)にザリスキー位相を入れて、位相空間に仕立てると、それは元の位相空間Xと同相(要するに同じ空間)になる、という定理なのだ。この定理を、イメージ的に解釈するなら、次のようになるだろう。すなわち、関数の空間Cがあるとして、その極大イデアルの集合に位相を導入すると、その位相空間の上にあたかも元の関数たちが生えているようになる、ということである。「ゲルファント・シロフの定理」の証明は、『21世紀の新しい数学』の黒川先生による付録に載っている。証明は、(大学程度の数学知識があれば)簡単で短いので、ぜひトライしてみてほしい。
このような解釈に達すれば、スキームはこのイメージを一般化させたものだ、と気付く。可換環→素イデアル→素イデアル位相空間→その位相空間上の関数が元の可換環と同じ、というニュアンスである。加減乗があるというだけの可換環という対象に対し、その素イデアルの集合を位相空間に仕立て、元の環自身はその空間上の関数に見立てられる、というのは、あまりに奇抜な発想だと思う。発想というより、思想・哲学というべきものであろう。
ぼくがスキームを理解するための最初の重いドアを蹴破ることができたのは、黒川先生と対談したことが最も大きいが、それだけではない。他にもさまざまなリサーチをしたのである。例えば、Yahoo知恵袋で(笑い)スキームについての質問をいろいろ検索して、隠れて読みあさった。そこには、恐るべきことにも、相当なレベルの専門家が質問に対する回答を投稿していた。そして、その中で、「簡単に理解したいならこれ」というふうに、ノイキルヒ『代数的整数論という本がお勧めとして挙げてあったので、さっそく購入した。この本は、全体としては難しい本だが、随所随所に、目からうろこの説明も導入されていた。とりわけ、1次元スキームの解説はわかりやすく、これを読んだことも突破口になった。また、知り合いの小木曽啓示さんの本『代数曲線論』朝倉書店も一部読んだ。小木曽さんの数学の理解と、その説明能力は突出したものであることを(知人として)心得ていたからだった。この本を読んだことで、ぼくは層のイメージを掴むことができ、コホモロジー群(ホモロジー群を局所的な関数たちに拡張したもの)の発想を理解することができた。これらの経験のあとに、何度も挫折していた上野健爾『代数幾何に再チャレンジをしたら、不思議なことに相当に受け入れられるようになっていたのである。
そんなふうに、長い時間をかけて、スキーム理論の入場口をようやく通り抜けたぼくは、この理論の楽しさを(そうする資格があるかは自信がないが)一般の数学ファンにも広めたいと思うようになったのだ。それが、本書『数学は世界をこう見る 数と空間への現代的なアプローチ』PHP新書を書いた最も大きな動機である。
非常に長くなったが、言いたいことは、要するに、「数学を理解する、という行為は、人生を総動員して行うべきものであり、そうしさえすれば、愛と欲求がある限り、理解は不可能なことでもそんなに難しいことでもない」、ということである。人生を総動員する、ということを具体的に言うと、「自分の言葉で理解しようと試みる」とか、「他人(特に中高生)に説明してみる」とか、「友人の専門家の説明にすがる」とか、「わからない本はすぐ捨て、本のはしごをする」とか、「これだと思う先生の講義に、ずうずしく、もぐってしまう」とか、「Yahoo知恵袋で質問する」などとなろう。さらにもう一つ付け加えるなら、「わからないけど、本に書いちゃう」というものあるかもしれない(これは冗談だからね)。
代数的整数論

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代数幾何

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