イケメンたちが書いたイケメンな経済数学

 先日、知り合いの数学者(大学の数学の先生)から「学生に経済数学を勉強してもらうのに、一緒に教科書を読もうと思うのだが、お勧めの本はないか」という質問を受けた。もちろん、ぼくが書いていれば、一も二もなくそれを勧めるのだけれど、笑、残念ながらまだ経済数学の本は書いていない。それどころか、ぼくが書いたいくつかの経済学の本は、意識的に(確信犯的に)数式をほとんど使わないで書いている。というわけで、何をお勧めするか思案した。それで思いついたのが、尾山大輔・安田洋祐・編『経済学に出る数学』日本評論社であった。刊行された頃に一度ざっと目を通して、「こりゃいいな」と思ったんだけど、そのまま放置していた。今回は人に勧めることもあって、少しまじめに読んでみた。

改訂版 経済学で出る数学: 高校数学からきちんと攻める

改訂版 経済学で出る数学: 高校数学からきちんと攻める

この教科書は、経済数学の教科書のブレークスルーだと言っていい。なぜなら、数学のアイテムを高校の教科書通りの順序に並べておいて、その詳しい解説(復習)の上で、当該の数学アイテムを利用する経済のトピックを散りばめているからだ。とても斬新な作りだと思う。普通、経済学を学ぶ場合は、利潤最大化とか、効用の無差別曲線とかから入って、そのあとに供給曲線・需要曲線とかが登場する。だから、登場する数学は、必ずしも易→難の順には並んではおらず、ランダムに出てきて、でこぼこになる。こうなると、数学全般の知識がある人しか理解することはできない。それに対し、本書は、数学の項目が易→難に並んでいるので、高校時代にあまり数学がきちんと習得できなかった文系の人や、もうすっかり忘れてしまった社会人が、数学を学び直したり思い出したりしながら、経済学の知識を身につけていくことができ、通常の経済学の学習に比べてハードルが低くなるのではないか、と思う。
 こういう視点から評価すると、本書ではとりわけ、1章、2章と5章、6章が優れている。第7章は、多変数の微積分で、それ以前の章に比べて急に難易度があがるが、「よく書けている」という意味では、さっき挙げた章に引けを取らない。多変数の微積分は、経済学を本格的に理解するためには避けて通れない、という意味では、この章も大きく評価される。
例えば、第1章は「1次関数」の学習となっているが、ここで需要曲線と供給曲線が登場し、市場均衡が「2直線の交点=連立方程式の解」であることがあの手この手で解説されている。その上で最後には、消費者余剰や生産者余剰という、ある意味では「経済学の命」となる概念が、グラフ上では単なる「囲む面積」で表されることが簡明に提示されている。正直、本書を読むのを第1章で挫折してしまったとしても、ここを理解しさえすれば、最も重要な部分は習得されることになると思う。(残りの300ページを捨てるのが経済的かどうかはさておくとして)。
第2章の主役は「2次関数」である。ここで著者は、微分を導入するのを泣く泣く我慢して、高校1年生の2次関数の知識、つまり、平方完成とグラフの平行移動のテクニックだけで経済学を展開している。この章で展開される経済学のトピックは、独占・寡占である。通常の経済学では、プライステイカー企業(つまり、価格は外から与えられ、自分ではコントロールできないものとして生産計画を作る企業)の行動が先に論じられる。これは、実は、学生を混乱させる元凶となっていると思う。なぜなら、高校時代に2次関数の応用として経済モデルが導入されるときは、たいてい独占企業(つまり、価格をコントロールする支配力を備えた企業)を例にするので、経済学の講義でいきなりプライステイカーを語られると、独占企業のイメージを引きずることが足かせになるのである。一方、本書では、高校で教わる例が先に出てくるので、少なくともこの段階で学習者が違和感を持つことはないだろう。本書では、このあと、突如、寡占のクールノーモデルに突入する。いきなり、ゲーム理論的な世界観にワープして、ナッシュ均衡を導入することには賛否両論だろうとは思う(均衡概念がたくさん出てくると学習者が混乱を起こすから)。でも、プライステイカーを語る前に、独占から寡占を語ってしまう、それも微分なしに2次関数だけでやってしまう、というのは、一つの見識であろうとも思える。裏返しに見れば、とてつもなく無味乾燥な「2次関数とグラフ」という項目で、独占・寡占こそが、最も華々しい応用の土俵だと言えるからだ。
じゃあ、プライステイカーはどこで語るか、と言えば、まさに第5章の1変数の微分の章なのである。この章の本領は、微分を「無限小解析」のフレーバーで語っていることだ。つまり、dy=f'dxという形式を自然に与えて、「局所線形化」を平易に解説している点にある。この方法論は、高校の教科書とは違っているし、この概念を理解するほうが、のちのち経済学を理解するのにより良いと思う。(まあ、学習者がたいてい迷路にはまりこむプライステイカーという仕組みに関する説明が若干淡泊すぎるような恨みもあるが)。微分の説明はそれだけで終わらず、対数微分という経済学で頻繁に用いられるテクニックについてもフォローしている。これを理解しないと、マクロ経済学でよく出てくる、成長率をいくつかの要因に分解する方法(例えばソロー残差など)がちんぷんかんぷんになるだろう。
第6章は、ベクトルの解説。ここでは、予算制約式を扱いながら、ベクトル算術のエレガントさを伝えている。予算制約式を十二分に体得すれば、たいていの経済モデルを、(詳しい計算なしに)直感的に理解できるようになる。そういう意味で、この章は、単にベクトルを復習するという以上に、経済学の本道を掴むのに重要な章だと言える。
 経済学の大学教育では、近年、学生の数学力の低下が嘆かれ、経済学の講義を受ける前の「高校数学の必要性」が説かれている。そして、実際に、導入教育として、「高校数学の復習」の講義が設置されている大学も多い。この危機感と発想自体は正しいのだけど、実践はぜんぜんうまくいってないに違いない、とぼくは推測している(し、ほうぼうからそう耳にしている)。それはなぜか。
第一に、高校数学の復習を、理系の教員や、高校教員の非常勤に任せたりすると、とんちかんな内容を講義するに決まっている。なぜなら、彼らは、経済学で数学がどう使われるかを知らないからだ。極限の計算とか、3次関数の微分などを執拗に教えたりしても、そんなものはほとんど役に立たない。第二に、経済学の教員が高校数学の復習を教えるのは、たいていは無理だ。それは、彼らが高校で何が教えられているかや、どこでつまづいているかを熟知していないからである。結局、経済学そのものの講義と「わからなさ」という意味で、大差なくなってしまうに違いない。
 そういう意味で、本書は、(挙げた4つの章については)、高校数学にも通じていて、数学本体もよく理解していて、さらには専門の経済学者という人たちが解説しているので、実に的を射た解説になっていると思う。
 蛇足になろうが、本書のあとに何を読むべきか。本書のフレーバーを持った教科書は世の中にほとんどないが、本書の参考文献に挙げられているぼくの本(『ゼロから学ぶ微分積分』『ゼロから学ぶ線形代数いずれも講談社)は、その希有な例なので、これが良いのではないか、と思う。(こんなに長く書いてきたのは、これが目的だったりして。笑)。
 最後にこのエントリーのタイトル「イケメンたちが書いたイケメンな経済数学」のナゾ解きをしておこう。要するに、この本の編者、尾山氏と安田氏は、経済学会きってのイケメンだ、ということである。安田氏については、テレビでイケメン経済学者として頭角を現しているので説明するまでもないだろう。NHKの出演番組を見れば納得すると思う。他方、尾山氏のほうだが、彼はぼくの古くからの知り合いであるが、そんなにイケメンだという認識が長い間なかった。数年前、ある女性編集者と打ち合わせをしているとき、彼女が「東大の経済学部の教員に評判のイケメンがいるでしょう?」と言ったので、ぼくは「だれだ、だれだ」といぶかった。ぼくはすぐに、頭の中でイケメン捜しを開始した。ぼくは、確信を持って(爆)、「マクロじゃないですよね」と尋ねると、彼女も「そうです、ミクロです」と答えた。ミクロとすれば、神取先生か、まさか、松井彰彦さんか・・・(「まさか」の語彙には、さほど意味はないです>松井先生)。すると、彼女は、「とても若い、最近東大に移ったゲーム理論の人だと聞きました」と付け加えた。それで、ぼくは「もしや、ひょっとすると、尾山大輔?」というと、彼女が「そうです、たしか、その人です」というので、なんだか爆笑してしまった。いや、爆笑したのは申し訳ない。灯台もと暗し(ダジャレじゃないよ)とはよく言ったもので、尾山さんとは浮かびもしなかったのだ。しかし、言われてみたら、確かにそうだった。実際、その話を奥さんにしたら、奥さんも「尾山さんは、一度だけお目にかかったことがあるだけだけど、確かにイケメンでしたよ」と即答した。(ちなみに、尾山氏と安田氏以外の本書の著者たちには、ほとんど面識がないので、イケメンかどうかの判断については中立であることをお断りしておく)
そう、世の中、イケメンの時代になったのだ。イケメンにあらずば、男にあらず、なのだ。タレントも、お笑い芸人も、大学生も、イケメンがまず必要条件なのだ。これからは、経済学会もそうなるのであろう。その前兆であることこそが、本書の最も大きなポイントなのである。
ゼロから学ぶ微分積分 (KS自然科学書ピ-ス)

ゼロから学ぶ微分積分 (KS自然科学書ピ-ス)

ゼロから学ぶ線形代数 (KS自然科学書ピ-ス)

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