サンデー毎日に、ぼくの宇沢先生への追悼コメントが掲載されました

 現在、発売中のサンデー毎日12月28日号(12月17日刊行)の、「レクイエム2014下半期・あなたの思い出」に、「惜しまれつつ亡くなった人たち」の一人として宇沢弘文先生が取り上げられ、ぼくが思い出を語ったインタビューが掲載されている。これまで、いくつかの新聞にコメントが掲載されたのだけど、今回のが最も分量が多く、そして、ぼくの素直な思いが込められた内容になっていると思う。

取材を受けたときには、2時間以上にわたって、いろいろと思い出をお話したのだが、それと記者さんの調べた宇沢先生の思想とがうまくミックスされ、実に要領よくまとめられ、宇沢先生の「人となり」がみごとに結晶した記事になったと思う。是非、多くのかたに読んでいただきたい。
せっかくの取材記事なので、内容については本誌で読んでいただくことにして、ここではそこに収録されなかったことを番外編としてエントリーしたいと思う。
記者さんに繰り返し尋ねられたのは、「宇沢先生に出会って、(小島の)何が変わったのか」ということだった。いろいろ、あれもこれも、と答えたんだけど、記者さんはあまり納得できてくれている感じではなかった。確かに、「経済学に興味を持った」「学問が何のためにあるべきかがわかった」などと答えたのだけど、ぼく自身、そんな程度のものかなあ、と感じるところもあった。
そんななか、いったん取材は終わり、記者さんも取材ノートをしまって、雑談にうつったときのことだ。急に、ぼくの内面から、大事な言葉たちが浮上してきたのだ。いつのまにか、ぼくは、とうとうとその言葉たちをつむいでいた。記者さんも、気付くと、また取材ノートにメモをとっていた。
そう。宇沢先生のゼミナールを受けているとき、また、宇沢先生とビールを飲んでいるとき、先生の話を聞いていると、「世界とシンクロできている」という気分になることが最も大きなぼくの変化だったことを思い出したのだ。先生は、その当時の経済的・政治的な問題について、ご自分の見解を話してくださった。もちろん、それは単なる居酒屋談義とは違って、経済学の理論的な背景を交えた上の意見だった。例えば、その頃は、アメリカとの間で貿易摩擦が大きな問題になった時期で、牛肉オレンジ問題などが勃興していた。世田谷市民大学の学生の老人たちは、「美味しい牛肉が安く輸入されてなにが悪い」というような論調だったのに対し、宇沢先生は、農業という産業の形態が日本とアメリカでどのように異なっているかをとくとくと説いた上で、経済学的な観点から考えても、農業という産業を守らなければならない、という農本主義を強く主張された。新聞やテレビで見聞きするだけの問題と思っていたことが、宇沢先生にとっては、身を切るような切実な問題だということに素直に驚いたことを覚えている。
また、歴史的な事例についても、経済理論とクロスオーバーさせながら、批判を繰り広げられた。金本位制が放棄されたニクソンショックについて、富のトリクルダウンを標榜するレーガノミックスについて等々。ぼくは、それらの見解や批判を聴きながら、新聞やニュースで見聞きし、自分の印象や記憶にうっすらとかすっているにすぎない事例たちにも、自分の生活にとって非常に重要なことがらが含まれていることを気付いて、愕然となった。そうしているうちに、自分が「世界と、歴史と、シンクロしている」という気持ちが芽生え始めたのだ。
これはとても大きな心境の変化だった。大げさな言い方だけど、「今を生きてる」という実感、「時代を呼吸している」という感覚が自分のなかに生まれてきたのである。
その心境の変化が訪れてみて、顧みられたのは、それ以前の自分だった。それまでの自分は「死んでた」のではないか。少なくとも「精神的には死人同然だった」のだと気付いた。数学の道が閉ざされ、毎日を塾で教えることでやりすごし、労働をしてお金が入る、ということの繰り返し。これは、ぼくにとっては「精神的な死」を意味していたことに気付いた。もちろん、子供に数学を教えることは、難しいが楽しいことであり、やりがいのある仕事であり、充実感もあった。その対価として、お金が入ってくるのも誇らしいことだった。他の多くの労働者の人々と同じく、ぼくも仕事そのものを誇りに思ってがんばっていた。でも、宇沢先生と出会うまでの二十代のぼくは、時代の外側で、何ら精神性の向上もないまま、漫然と日々をやり過ごしていたのだと思う。そのことに気付いたのが、最も大きな変化だった。
 経済学の専門家となった今、ぼくにとっての経済学を勉強することの最も大きな意義は、「歴史とシンクロし、時代を呼吸するための武器」を手にするということだと思う。ぼくが、以前に宇沢先生の追悼として書いた文章(宇沢弘文先生は、今でも、ぼくにとってのたった一人の「本物の経済学者」 - hiroyukikojimaの日記)では、経済理論に対する批判めいたことを吐露した。それには一切嘘はない。現段階の経済理論は、残念ながら、強い現実説明能力や予言性は備えていない、と言わざるを得ない。しかし、他方で、経済理論を身につけることは、居酒屋で耳にする経済談義とか、政治活動家の人々が信奉する「こうあるべき」論などとは次元の異なる、価値自由的で論理的で複眼的な社会の見方を得ることにつながる。遠くに思っていた社会問題を、非常に身近で、そして、血肉の通ったものとすることができる。それが、宇沢先生に出会ったことの一番大きな幸福だったと今は思える。
 そう。ぼくは、宇沢先生に出会うことで、生き返ったんだと思う。生命を吹き込まれた。蘇生した。いや、生まれ直したんだと思う。
実は、ぼくは今、宇沢先生の新古典派時代の論文を次々と読んでいる。きっかけは、ある雑誌で宇沢弘文の特集をするんだけど、それに寄稿をする準備。でも、それだけではない。初心を思い出したからなのだ。どうしてご存命のうちに、それに着手しなかったのか、ととても悔やむ。ぼくは、すっかり初心を忘れてしまっていたのだ。宇沢先生に出会って精神的に蘇生し、先生の理論をより精緻に理解するために大学院に進み、経済学者になった、その初心をどこかに置き去りにしていた。帝京大学が、馬の骨にすぎないぼくをせっかく雇用してくれたんだから、研究業績を少しでもあげて恩返しをしなけりゃ、という気持ちに流されて、比較優位のある分野での論文作成にかまけ、本来の目標を忘れ去っていた。ご存命のうちは、背中さえ見えなかった宇沢先生だけど、もう、先生は先に進むことはない。ぼくががんばって走れば、きっと遠くに背中が見えてくるだろう。追い越すことはかなわないけれど、その背中にどのくらい近づくことができるか、それがこれからのぼくの人生の目標となるのだと思う。
 例えば、宇沢弘文の業績と言えば必ずあがる「二部門経済成長モデル」を読み解いた。これは、大学院のとき、マクロの勉強の過程で一度目を通したのだけど、その頃には何も理解できていなかったことに気付いた。大学でマクロ経済学を教え、小野善康さんと議論をさせていただいた経験などもあって、今読むと全く違う感覚が得られた。これはプロとして見ても、とても不思議な論文だと思う。ソロータイプの成長モデルなんだけど、2編ある。1編目が、非常に変わった内容で、「マルクス=フォン・ノイマン」と名付けられている。この型では、「資本家は、資本をレンタルすることで得られる所得をすべて貯蓄(=投資)し、労働者はそのすべての所得を消費する」、と仮定されている。この仮定のもとでは、「消費財の生産が投資財のそれより資本集約的(つまり、消費財の生産のほうが、労働1単位あたりの資本量が大きい)」という仮定を入れないと、短期均衡の一意性も長期均斉解(動学的な安定解)も得られない、ということが論証されるのである。実際、投資財生産のほうが資本集約的であるケースで、動学的に不安定になる例がきちんと書かれている。かなり大胆な解釈をするなら、「資本家がどんどん資産を再生産し、その資本を資本財の生産に利用するような社会は不安定化する」ということになろう。すべての計算を追体験したので、この帰結が数学的に正しいことは確かめたのだけれど、この不思議な帰結を生み出すトリックが仮定のいずこに隠されているのかは、まだよく理解できていない。雑誌原稿を書くまでには、もうちょっと理解を深めたいと思う。ちなみに、2編目のほうは、「新古典派的」と銘打たれ、ソローモデルと似たような解軌道が得られる。そして、資本集約仮説を仮定しなくても、均衡解の一意性など素直な帰結が得られている。二部門経済成長モデルについては、雑誌原稿を仕上げたあとに、このブログでも再度論じてみたい、と考えている。