ラマヌジャンの印象が衝撃的に変わる本

 黒川信重先生の新著『ラマヌジャン ζの衝撃』現代数学社をざっと一読した。まだ、きちんとは読み込んでない段階だけど、こりゃあ早くファンに知らせなきゃ、ということで、とりあえず、エントリーすることにした。(アマゾンには画像が掲載されてないので、楽天のほうにした↓)。

本書を読むことには四つのメリットがある。箇条書きにしよう。
1.ラマヌジャンについて、これまで流布してきた人物像が、けっこう誤解だと判明する。
2.ラマヌジャンの研究が、21世紀の数論にどんなに大きな影響力を持っているかがうかがい知れる。
3.ラマヌジャンの数学の周辺に、少なからぬ数の日本の数学者がかかわっていることがわかる。
4.黒川先生の現代の数学状況に関する批判的意見がこれでもか、というくらいに拝聴できる。
 ラマヌジャンについて、全く何も知らない、という人向けに、最初にざっくりと紹介しておこう。
ラマヌジャンは、1887年、インド生まれ。1920年に32歳という若さで夭折した数学者だ。ラマヌジャンは、天才というよりは異彩と言ったほうが正確だろう。なぜなら、伝統的な数学の記述方法のしばりの中で定理を発表したのではなく、独特の数学感覚で怒濤のように定理を発見し、伝統的な様式を無視して発表したからである。インドでは、才能を理解してもらえず、イギリスの数学者ハーディに手紙で成果を送って認めてもらい、イギリスに渡って研究をした。面白いのは、ラマヌジャンの発見した法則は、いくつかは数学の歴史を塗り替えるほどのみごとなものであり、いくつかは明らかな間違いで、そして残りは未だに正しいか誤りかわからない、という破天荒ぶりである。本書では、ラマヌジャンの成果を現代数学の立場から振り返って、正当に評価し、さらにラマヌジャン数学感覚について黒川先生の視点から迫っていく、という内容になっている。
 まず、ぼくにはものすごく面白かったし、多くのブログ読者にもそうであろう、メリット4.から説明することとしよう。
黒川先生は、前から、著作の中で数学の研究を取り巻く状況について歯に衣着せぬ批判を書いてきたけど、最近はその大胆さが増してきているように思える。本書にも、そういう一家言が満載だ。だから、本書の数式部分についていけない読者も、このような黒川節の部分を読んでいくだけで、たくさんのことを得ることができると思う。例えば、次などは峻烈である。

マチュア的発想は学問を再生するためには必須のものです。専門家の研究が行き着いて暗礁に乗り上げることは、頻繁にあります。それは、研究上の問題だけでなく、その学問分野の持続という面からも大きな問題です。簡単に言ってしまえば、複雑すぎる問題には誰も興味を持たなくなってしまい、新規に研究に取りかかる若い人を取り込めなくなり、その学問は死を迎えます。
代数学の現状が、その前兆でないという保証は全くありません。専門家が、身内だけに通じる狭い数学言語で話しているうちに、他から関心を持たれなくなれば、すでに重症です。その際に、高尚な数学は一般人には伝えることが無理である、と高をくくると、数学は死んだも同然です。

この文章には、本当にスタンディング・オベーションを送りたいぐらいだ。「専門家が、身内だけに通じる狭い数学言語で話している」嫌な感じは、そこいら中に見かける。とりわけ、ネットでは日常茶飯だ。東に間違ったことを言う素人がいると東に出向いて叩き、西に書き間違いをしたアマチュアがいると西に行って揚げ足をとり、南に知識が十分でないライターがいれば南に赴いて蔑みを投げる、という輩がけっこう存在する。そういう輩は、自分が数学を専門にしていることを何かの「特権」だと勘違いして、縄張りを守るために、狭量な心で素人を叩いて回って何かのうっぷん晴らしをしているんだと思う。こういう輩は放っておけばいいのかもしれないが、黒川先生のいうように、それはその分野の自滅につながるという意識を、専門家全体として共有すべきなんじゃないか、と思う。「マチュア的発想は学問を再生するためには必須のものです」というのは、アマチュアとして、本当に勇気の出る励ましの言葉だ。
また、黒川先生は、ラマヌジャンの成果がインドで認められなかっただけではなく、イギリスでもハーディからさえもきちんと理解されなかったことに触れ、次のように言っている。

専門家は所詮ある時期の研究レベルの専門家ですので、当然、時代に縛られます。さらに、専門家は自信家ですので、自分が知らないことやできないことを他人がやれるということを認めたくない人種です。専門家の評価ほど真実から遠ざかっているものも少ないでしょう。(中略)。何とか首尾よく研究結果が得られたとしても、論文として発表する際には、既得権益を持つ「専門家」は論文の査読者として、論文が常識外れであることで門前払いを食わせることが常態です。専門家ほど保守的な人種はいないのです。つまり、専門家とは抵抗勢力なのです。

こんなことを書くと、黒川先生のもとに箸にも棒にもかからない素人の「未解決問題の証明」がたくさん送られてきちゃうのではないか、と心配になる。黒川先生のいうことはもっともだけど、新しい扉を開こうとする者は、その「抵抗勢力の厚い壁」を突破するエネルギーがいるのだろう、とも思う。本書には、他にも、たくさんの数学論、科学論が書かれているので、是非、多くの数学ファンに読んでもらいたい。
 次にメリット2.について、少し専門的な数学の話になるけど、いくつか触れておきたい。
本書には、ラマヌジャンの成果を現代的な立場から振り返った解説が、けっこうきちんと(数式を省略せずに)書かれている。それだけに、普通の啓蒙書よりは敷居が高い。ぼくが読んでて楽しかったことを二つほど取り上げよう。
第一は、「ラマヌジャンの積構造」と呼ばれるもの。これは、[(nの約数のa乗の総和)×(nの約数のb乗の総和)×(nのs乗の逆数)をすべての自然数nに関して足し合わせもの・・・(1)]が、ゼータ関数5つの積で書ける、という結果だ。本書では、この公式をきちんと証明した上で、この公式を応用したインガムの1930年の結果を紹介している。インガムはこの公式を使って、「リーマン・ゼータ関数が実数部が1の部分(Re(s)=1)に零点を持たないこと」を証明した。その証明は、かなり短くて、明快なものである。ポイントは、実数部が1のところに零点を持っていると仮定すると、その零点に依存して定義される先ほどの(1)式が、実数部分が0.5より大なる場所で正則(無限回微分可能な複素関数)になる、ということ。このような関数は、矛盾をはらんでしまうので、そのような零点は存在しないと結論されるのである。ぼくでも最後まで追える程度の分量と内容の証明だった。「リーマン・ゼータ関数が実数部が1の部分(Re(s)=1)に零点を持たないこと」がなぜそんなに嬉しいか、というと、これによって、有名な「素数定理(x以下の素数の個数はだいたいx/log x)」が証明できるからなのだ。つまり、インガムの結果は、素数定理の証明の簡略化となるのである。
第二は、有名な「ラマヌジャン予想」の解説。これは、ラマヌジャンが1916年に予想を提出して、翌年にモーデルが半分を証明し、残る半分を1974年にドリーニュが証明したもの。黒川先生はこれまでもこの予想について、いろんな本で解説してきたけど、本書の説明が最も親切で直観的でわかりやすいものだった。「ラマヌジャン予想」とは、exp(2πiz)×{(1−exp(2πinz))の24乗を全自然数nについて掛け合わせた積}を展開整理して、exp(2πinz)の係数をτ(n)と定義したときの、τ(n)に関する予想だ。
τ(n)に関する第一の予想は、「τ(n)×(nのs乗の逆数)の自然数nに関する総和・・・(2)」で定義されるゼータ関数が、「素数の2次式の全素数にわたる積」というオイラー積を持つこと。これが、モーデルによって証明された前半部だ。「素数の2次式」の積で書けることからこれは「2次のゼータ」と呼ばれるらしい。2次式で表現されるオイラー積は、ラマヌジャンがここで初めて発見したわけなのだ。τ(n)に関する第二の予想は、「素数pについての|τ(p)|が、2×(pの5.5乗)以下である」というもの。これをドリーニュが証明するのに、なんと、60年近くも要したのだから驚く。ドリーニュの証明のポイントになるのは、この第二の予想を「リーマン予想」の形式に書き換えることだった。つまり、(2)式のゼータ関数もどきが、極(値が無限になるところ)が、実数部=5.5のみ、ということと同値なのである。黒川先生は、このτ(n)に関する第二の予想が、どうして、リーマン予想の形式に書き換えることができるのかを、非常に簡明に説明している。基本的には、2次式の因数分解・解と係数の関係に帰着される。ぼくはずっと、τ(n)の不等式とリーマン予想の関係性を不思議に思ってきたのだけど、これを読んでみて、「な〜んだ、そういうことだったのか」という晴れ晴れした気分と、「なるほど、数論は深淵だなあ」という感心する気持ちとが勃興した。
 さて、メリット1.についてだ。これは、すごく意外だった。黒川先生は、主に、ハーディの著作を参照して、ラマヌジャンとハーディの関係を探っている。ぼくがこれまで類書で読んできた感触では、ハーディこそが天才ラマヌジャンを見いだした尊敬すべき立役者なのだが、実像はちょっと違うようだ。ハーディさえ、ラマヌジャンの才能を正確に捉えておらず、ちょっと見くびっていたところもあるとのことなのだ。このようなことは、洋書文献にあたるだけではなく、周辺の数学論文そのものもきちんと参照している黒川先生だからこそ発見できたことだと思う。ハーディのラマヌジャンに対する理解と誤解では、学問というものの人間くささを痛感せざるを得ない。
 最後にメリット3.について。正直ぼくは、ラマヌジャンの数論の周辺に、こんなにも日本の数学者が関わっていた事実に無知だったので、ものすごく参考になった。佐藤幹夫氏が佐藤・テイト予想で関係があることは知ってたけど、それに、久賀道郎氏、志村五郎氏、伊原康隆氏などが関連していたのは初耳だった。とりわけ、久賀氏は、故・宇沢先生の親友だったこともあり、注目していた数学者だけに、とても意外で、とても嬉しかった。(久賀道郎氏の著作についての解説は、拙著『天才ガロアの発想力』技術評論社で読んでくだされ)。
 ここまで書いてきても、本書ラマヌジャン ζの衝撃』現代数学社の魅力を語り尽くせてはないけど、もうかなり長くなっているので、ここで打ち止めにしようと思う。ラマヌジャン・ファン、数論ファン、いや、すべての数学ファンに読んでほしい名著である。
 関係ないけど、今年、12月に、キング・クリムゾンが来日する。噂では、60年代・70年代などの初期の曲を演奏する、とのことだ。先日、抽選を当てて、2日分のチケットをゲットした。若い頃だったら、東京・名古屋・大阪と全公演を追いかけるのだが、忙しくてさすがにそれは無理だから、二日で我慢した。12月の公演を楽しみに、9月からの職務をがんばろうと思う。

天才ガロアの発想力 ?対称性と群が明かす方程式の秘密? (tanQブックス)

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