続・続・堀川先生とキングクリムゾンの頃

 先週、遂にキングクリムゾンのライブを観てきた。水曜日と木曜日の二日間。往年だったら、東京で行われるすべてのライブと、大阪や名古屋も一回程度を観るくらいだったので、それに比べるとまことに不本意である。まあ、あまりに多くのことがこの時期に重なってしまったので仕方ない。それでも二日分確保できたのは、気合いとしかいいようがない。
 クリムゾンの来日と、数学科のときのゼミの教官であった堀川先生とのできごとが妙にシンクロする不思議さがある。このことは、堀川先生三部作とキング・クリムゾンの頃 - hiroyukikojimaの日記、それから、続・堀川先生とキング・クリムゾンの頃 - hiroyukikojimaの日記に書いたが、今回の来日も実は、微妙に堀川先生とシンクロしていた。それは、このところずっと、先生の著作『新装版 複素代数幾何学入門』岩波書店を読んでいたからだ。これは、堀川三部作の一冊で、中でも最も専門的・高度な本だ。

新装版 複素代数幾何学入門

新装版 複素代数幾何学入門

この本は、名著との誉れが高い。実際、ぼくの友人で、代数幾何が専門の数学者も、この本はすばらしいと述べていた。この本を今、読んでいるのは、ある雑誌でのある対談を控えているからだ。その話は後日にエントリーする。
 この本の話の前に、まず、クリムゾンについての感想を述べておこう。
今回のツアーでは、70年代の曲を演奏することは事前に公開されていた。アメリカツアーのライブも既に販売されていて、どんな曲を演奏するかもわかっていた。ぼくは、クリムゾンの本領は、「新しい音楽を切り開く」ことだと信じているから、別に70年代の曲に大きな期待があったわけではなかった。これまでは決して、そういう懐メロを演奏しなかったボブ・フリップが、なぜ今回は演奏しようと思ったのか、そっちのほうがかなり気になった。
 でも、本番では、70年代の曲を聴いて最初から最後までずっと涙ぐんでしまった。勝手に涙が溢れてきてしまうのだ。それは、ぼくの中に、いまだに14歳のぼくが眠っていたからだ。14歳のぼくが、「これが聴きたかったんだよ〜」とか、「14歳のまま、43年間も待ってたんだよ〜」とか、とめどなく涙を流すのだ。正直、今の自分の中に、14歳の自分がそのまんまで眠り続けていたことにぶったまげた。もう、とっくのとうにそんな自分は成仏してしまっている、と思ってたからだ。
 14歳で初めてクリムゾンのアルバムを買った。『クリムゾンキングの宮殿』をなけなしのこずかいをはたいて買った。買うまでに、悩みに悩んだ。店で試聴させてもらって、全曲聴いてしまって、それでも買うかどうか迷って、最後に決断をして購入した。当時の(普通の家庭の)中学生には、アルバム一枚はとても高価だったから。それから、100回も200回もこのアルバムを聴いた。授業中に、ぼ〜っと妄想してると、頭の中で全曲再現できるくらいだった。それだけに、来日ライブを心底待ち焦がれた。でも、それは果たされなかった。前期クリムゾンも、後期クリムゾンも来日はなく、新規クリムゾンが81年に結成されて、それで初めて来日してくれた。そのライブの話は、堀川先生三部作とキング・クリムゾンの頃 - hiroyukikojimaの日記に書いた。
 でも、さすがフリップ。今回のライブでは、70年代の曲を単なる「懐メロ」にはしなかった。トリプルドラム設定でアレンジされているので、耳慣れた演奏とは、若干、異なる印象となっていたからだ。心配していたのは、高齢のフリップが往年のギタープレーをできるか、ということだったけど、杞憂だった。昔のリフを軽々と弾きこなしていた。
 死ぬ前に、思い出が走馬燈のように駆け巡る、という話があるから、「ぼくは今、もしかしたら、死の床にいるのか?」と自問自答した。でも、目を開けると、そこには年老いたフリップと、知らないボーカリストと三つのドラムセットがある。これは「思い出」ではなく、「現在なんだ」ということが実感できた。生きていると良いことが起きるものだ。あれから43年間待ち続けたご褒美に、こんなすばらしいライブが聴けたのだから。
 さて、『新装版 複素代数幾何学入門』に戻ろう。これは、複素多様体と呼ばれる数学的対象を研究する分野の解説書である。複素多様体というのは、いくつかの複素平面(複素数を平面の点たちと一対一対応させてできる平面)を、一部分を重ねることで貼り合わせていって作ることができる空間のことだ。「リーマン面」と呼ばれるアイテムがその典型的なものである。その複素多様体の形状や、その上の関数たちがどんな素性かを解明する分野なのだ。本書は、ぼくのような門外漢が読んでも「みごとな書きっぷりだなあ」と判断できるような、非常に精緻にして、明晰な書き方がなされている。
 本書は、東大数学科での講義を書籍に落としたものなのだが、その大本の講義は、ぼくが堀川ゼミに入る前に為されたものだった。実際、ゼミのときに、この本が「いったんお蔵入りになった」と先生から直接伺ったことがあった。刊行されたのは、その後、ずいぶんたった頃だった。その年も、先生は代数幾何の講義を持っておられ、そこでは岡潔の理論を展開していたように記憶しているが、本書の内容と似たり寄ったりのではないか、と思う。その講義は、それはそれはすばらしいもので、今思えば、もっと真剣に聴講すればよかったと後悔している。当時のぼくは、バイト三昧な中で、自堕落な生活を送っていて、講義にあまりきちんと出席していなかった。この頃の自分を叱りたい気分である。
 本書での第1章での「コーシーの定理」「コーシーの積分公式」の説明は秀逸である。複素平面上の関数で微分可能なものを「正則」と呼ぶのだけど、正則な関数は「コーシー・リーマンの方程式」というのを満たす必要がある。その説明を「微分形式」という方法で行っているのだけど、このような説明を受けると、「コーシー・リーマンの方程式」というのがとても自然で素直なものに思えてくるから不思議だ。高度な、あるいは、抽象的なアイテムになるとわかりずらくなるとは限らない。意外に、ものごとの本質が明確になることだってあるのだ。
 第2章では、「ワイエルシュトラスの予備定理」というアイテムが登場する。これは、高校で教わる多項式の「剰余定理」「因数定理」を正則関数に拡張したものだが、これによって、正則関数の集合を「代数的」に扱うことができるようになる。つまり、素数に対応する関数とかを定義して、素因数分解もどきができるようになるのである。このあたりの事情も、みごとに書いてある。
 ところが、このあたりから、ぼくはだんだん記述がわからなくなり、頭の中がもやもやとしてきてしまった。本書を読む目標は、「コホモロジー群」というのを理解するためなのだが、とてもその章まで根気が続きそうに思えなかった。それで、いったん本書から離れて、小木曽啓示『代数曲線論』朝倉書店に寄り道をすることにした。小木曽さんは、知り合いの数学者で、彼がいかにすぐれた教師であるかをよく知っていたからだ。
講座 数学の考え方〈18〉代数曲線論

講座 数学の考え方〈18〉代数曲線論

読んでみると、これはあまりに名著だった。はっきり言えば、ぼくにとっては、堀川先生の本よりも素晴らしい本である。これは、基本的には「リーマン面」についての解説書だ。あちこちで、みごとな工夫がなされており、一つ一つの証明も、できるだけ読者にイメージを喚起するような方法が選ばれている。
最もみごとな工夫は、第1章「リーマン球面P^1」である。これは、2つの複素平面を貼り付けてできる、もっとも簡単なリーマン面だ。まず、この世界で、いろいろな性質を証明する。そのことで、読者は、リーマン面というものがどんな世界観のものかをお手軽に掴むことができるのである。例えば、リーマン球面P^1上の正則関数は定数しかない。言い換えると、「変化のある正則関数」は存在しないのだ。これは堀川先生の本にも登場する初歩的な定理だけど、堀川先生の本では、証明は理解できるものの、その根底にあるメカニズムはよくわからなかった。一方、小木曽さんの本では、証明法が具体的なので、なぜそうなるかが明確にわかった。要するに、「リーマン球面P^1」は二枚の複素平面を貼り合わせているので、貼り合わせの部分で矛盾を引き起こさないためには、無限次の多項式(テイラー展開)で表される関数は定数しか無理、ということなのだ。
また、小木曽さんの本のステキな点は、所々にちりばめられた、小木曽さんの数学観を知れる作文だ。いわく、

コンパクト空間では、``都合の悪いこと''を無限の彼方や端っこの方に追いやって何とか帳尻をあわせようとしても、その無限のかなたや端っこが空間の点になってしまっている、そのため、帳尻あわせのしにくい空間でもある。だからこそ、変なことが起こりにくい空間でもあり、非コンパクト空間にはない非常にきれいな強さをもっていることがわかってくるのである

など、「な〜るほど」と思わせてくれる。また、次などは、「こういうことが知りたいんだよ」というまさにそういう記述である。

あくまで著者の主観であるが、層とコホモロジーを用いてリーマン面を調べていくことは、方程式を用いて算数の問題を解くことと似ているように思う。荒っぽくいえば、未知数を設定することは、層を選ぶことに対応し、方程式をたてる部分が層の短完全系列からコホモロジー群の長完全系列を作ったあとリーマンーロッホの定理や消滅定理を用いるなどして長完全系列から必要な情報をとり出すことに相当する

こういうことを語ってくれる数学書なんて、世の中にほとんどないよ。今は、やっとこの本のコホモロジー群の定義のところまで到達したところだけど、既に「読んで良かったああ」という感慨が勃興している。