もはや思想書と呼ぶべき数学書

 今回は、黒川先生の新著である黒川信重『リーマンと数論』共立出版をエントリーしよう。
この本は、「リーマンの生きる数学」というシリーズものの第1巻。リーマン歿後150年を記念して刊行が開始されたシリーズだ。第1巻の本書は、リーマンのゼータ関数から発展した数論の全貌を鳥瞰し、リーマン予想解決への道筋を模索した内容となっている。

 本当は、来月に刊行されるぼくの新著、小島寛之『証明と論理に強くなる』技術評論社を紹介しようか、と思ったのだけど、刊行がまだだいぶ先(1月11日)なので、来週あたりになったら、エントリーすることにしたのだ。(お楽しみに)。
 実は、本書黒川信重『リーマンと数論』共立出版は、目次を見た段階では、「ぼくには読み通せない本かな」という予感を持っていた。かなり高度な数学が展開されていそうで、歯が立たなそうだったからだ。でも、予想は嬉しい方角に裏切られた。なんと、最後まで「目を通せて」しまったのだ。もちろん、「読みこなせた」わけではない。斜め読みしたところはたくさんある。でも、飛ばすことなく、最後のページまで到達したことは間違いない。飽きることなく、諦めることなく、突き放されることなく、最後まで連れていかれてしまったのである。それはなぜか。
 それは、本書が、数学書の領分を超えて、もはや思想書とでも呼ぶべき高みに達している、からなのだ。以下、それがどういうことかを順を追って説明する。
 まず、本書は、各数学者の業績を、緻密に考証し掘り起こしている
多くの数学書は、(ぼくの書いた啓蒙書も例外ではなく)、孫引きがほとんどだったり、また、誰かが整理整頓した記述に頼ったりしている。対して本書は、(黒川先生の本は、本書に限らずいつもそうなのだが)、原論文にアクセスした上で、正しい記述や見逃されている事実を掘り起こしている。例えば、俗にライプニッツやグレゴリーの発見とされる「奇数の逆数の交代和が、π/4となる」(1−1/3+1/5−1/7+・・・=π/4)が、実は、彼らより300年も前にインドのマーダヴァが発見したことを指摘している。どうも、マーダヴァは、三角関数級数展開を得ていたらしい(微積なしで??)。あるいは、メルテンスという数学者が1874年の論文で示した公式(x以下の素数pに対して、1/pに(−1)^(p−1)/2を掛けて1から引いた数たちを掛け合わしたものの極限がπ/4になる)が、現代ではほとんど忘れ去られているが、実はこれは深リーマン予想の第一歩となっていることを掘り起こしている。はたまた、ハッセ予想のきっかけとなったアンベールという数学者が、同姓同名の別人と混同されることが多いことなども指摘している。
 次の点が非常に大事なのだけど、本書は、リーマンの研究に関するかなり踏み込んだ再考証となっている
第二部は、オイラー以前→オイラー→ディリクレ→リーマン、という歴史順に、ゼータ関数の誕生をたどっている。そして、リーマンについては、死後60年以上を経過したあとに、ジーゲルが遺稿を解読して発見されたことを踏まえて検証しているのである。例えば、ハーディをスターにした「リーマン予想が成立する零点の個数の評価」と同等の結果を、リーマンが既に得ていたことなどが指摘されている。この点について、黒川先生は次のように記している。

以上のことは、リーマンの1859年の論文はリーマンの研究の真実を伝えていないという教訓となる。リーマンは将来に詳細を書くことを予定していたのだと思われる。

この章がとにかくすごいのは、こんな風に、「黒川先生がリーマンの霊と議論している」かのように読めることだ。なんということか、「リーマンの全数学を合わせれば、リーマン予想の証明に至ったのではないか」という願望までが書かれている。リーマンは、きっと、こんなアプローチを企てていたに違いない、と。こういうところに、数学者の魂のあり方が垣間見られる。
 とは言ってもぼくには、本書での「有限ゼータ関数」と「行列のゼータ関数」の指南がものすごいツボだった。
今まで、何度か黒川先生と対談させていただき、いろいろなことを発見し腑に落ちたのだけど、一つ今までよくわからないことがあった。それが、「ゼータ関数の零点と行列の固有値が関係する」ということだった。本書には、この点が丁寧に解説されている。第2章「行列の整数ゼータ関数」と第3章「行列の実数ゼータ関数」がそれである。これらは、「行列からある計算でゼータ関数が定義され、それが関数等式を持ち、リーマン予想の類似が成立する」というもの。証明は簡単だけど、「行列のトレース(対角成分の和)が基底変換に対して保存される」という法則の見事な応用となっていて驚く。しかも、にわかには信じられないことだが、この方法論が、合同ゼータ関数やセルバーグゼータ関数に対するリーマン予想の証明(第8章で解説)の急所にもなっているのだ。ぼくはこの解説で、今までわからなかったこれらの証明に関して視界が開けた(ざっくり理解に達した)幸福感を味わうことができた。
一方、「有限ゼータ関数」というのは、有限和で作られるゼータ関数のことで、ぼくは全くこれを知らなかった。すごく簡単な関数だけど、関数等式も、オイラー積表示も、リーマン予想も成り立つことは全く驚きであった。高校生に教えるにはちょうど良いと思う。
 最も胸が熱くなったのは、最後の章に書かれた、黒川先生自身のリーマン予想証明の「提案」だ。
普通の数学書には、こんなことが書かれることはないからだ。もちろん、それはまだ、「青写真」でしかなく、「夢」の段階だけど、なぜそういうアウトラインを作るのかについては、本書一冊読んでくれば強い説得力がある。ちなみに、ここでも、「行列のトレース」のアイデアが活かされている。もしも、この方法で将来、リーマン予想が解決されたなら、本書は予言の書となる。リーマン自身が自らの研究の中で発想した夢想が、黒川先生の考察を経て、黒川先生か誰か他の数学者の腕力によって実現されたことを、後生に書き残す本となる。そして、読者はその生き証人となるのである。