新著『証明と論理に強くなる』は、ぼくの論理学への自問自答なのだ。

 ぼくの新著『証明と論理に強くなる』技術評論社が刊行されたことは、前回にエントリーした(『証明と論理に強くなる』が、刊行されました!! - hiroyukikojimaの日記)。竹内薫先生の日経夕刊の書評のおかげで、アマゾンの在庫も楽天の在庫も一気にはけ、幸先良いスタートとなった。おまけに、昨日、大部数の増刷が決まった。刊行後一週間以内の増刷というのは、ぼくにとってはとても久々のことだ。めちゃくちゃ嬉しい。竹内薫大明神さまさまである。アマゾンと楽天の在庫が回復したようなので、ここでもう一発、販促の追い打ちをかけようと思う。

前前前世、じゃなかった、前前回(もうすぐ、ぼくの論理学の本が刊行されます! - hiroyukikojimaの日記)では「目次」をエントリーし、前回(『証明と論理に強くなる』が、刊行されました!! - hiroyukikojimaの日記)では「まえがき」をエントリーしたので、今回は、「序章」の一部を晒そうと思う。
「序章」は、「『証明』と『論理』を学ぶと何の役に立つのか」と題している。この本のテーマについて語っている部分である。まず、見出しだけを列挙する。

(1)「論理学」の論理ってなに?
(2)公務員試験・資格試験の論理問題はどう解く?
(3)中高生に論理を教えるにはどうしたら良いか?
(4)数学はなぜいつも正しいのか?
(5)なぜ、三角形の内角の和が180°でない世界がある?
(6)証明法には、何か根拠があるのか?
(7)数理論理の教科書はなぜわかりにくいのか?
(8)ゲーデルの定理とはどう証明されるのか?
*見出し番号は、当ブログでつけたもの

見出しを眺めればわかるように、本書は、ぼくの論理学に対する自問自答を書き綴ったものなのだ。8項目をすべて晒すと、相当な字数になるので、(2)と(6)と(7)だけにしようと思う。

(2)公務員試験・資格試験の論理問題はどう解く?
 世の中で、「証明」と「論理」の能力が問われる場面は多くあります。大学入試の数学では論理は必須ですが、それだけではありません。公務員試験・資格試験・就職の適正試験などで実施される「論理的推論」もそうです。このような試験が課される理由は、数学や理科や歴史などの教科内容を試験すると、修学経験や専門の差が出て公平でないと考えられていることにあるでしょう。「論理的推論」を、教科を超えた普遍的な認識手段だと考え、その能力を見ることで応募者の知的能力を測ろうというわけです。
 これらの「論理的推論」の試験問題は、「日常言語」の形で出題されますが、実は、「日常言語の論理」に見られる曖昧性はほとんどありません。なぜなら、これらの問題は、みかけは日常言語的であっても、数学の論理(数理論理)で解けるように作られているからです。
 見たところ、たいていの学生さんたちは、これら「論理的推論」の問題を勘とかフィーリングで解いています。そうやっていては、正答しても誤答しても、その理由を理解できないでしょう。
 本書では、「論理的推論」の試験を受けなければならない学生さんに向け、勉強の指針を与えるように書いています。本書を読破した後、「論理的推論」の問題集にあたれば、きっと以前よりも理解がよくなっていると思います。

 実はぼくは、とある資格試験系予備校の経営者と商談をしたことがあり、そこで、(上級)公務員試験のテキスト作りを依頼されたことがある。そのとき、出題されている論理的推論の問題が、(日常論理ではなく)数理論理の問題でありながら、教材ではあまり良い解説(体系的解説)がなされていないことに驚いたのだった。きっと、世の中の受験生は、体系的に勉強することなく、フィーリングで解くか、あるいは、意味不明の暗号操作で解いているのだろうな、と想像した。そういう現状にアプローチした数理論理の教科書は見たことがないので、本書を従来の教科書と差別化するには、うってつけの題材だと思って投入することにしたのである。

(6)証明法には、何か根拠があるのか?
 数学が得意な人は、数学の証明法、例えば、「背理法」とか「数学的帰納法」とかを自然に使いこなせるようになったことでしょう。しかし、用心深くものを考える人、何でも根本的なところが気になってしまう人は、「背理法数学的帰納法は、いったい何をやっているのだろう。そして、なぜ正しいのだろう?」という疑問を持ったかもしれません。
実際、筆者はそういう疑問に突き当たりました。自分では、これらの証明法を簡単に会得できましたが、それがどうして正しいのか、明確にはわかりませんでした。そもそも「証明法として正しい」とはどういうことかも疑問となりました。とりわけ、中高生にこれらの証明法を教えているときには、「例え話」で強引に納得させる顛末に陥り、心の中では秘かに「それじゃ、数学じゃない」という罪悪感を持ちました。
もしも読者が、こういう疑問を持ったならば、それはとても鋭い疑問なのです。安心して下さい、答えは論理学の中にあります。本書を読めば、「証明法として正しい」ということの意味が理解できるはずです。

塾の先生をやっていた頃、これが最も懸案事項だった。もちろん、「背理法」とか「数学的帰納法」とかは、スペシューム光線とか、コブラツイスト(ふ、古い)に匹敵する「決め技」、「必殺技」に当たるものだから、生徒に伝授するのは先生の威厳を示すのにもってこいとなる。塾の先生は、そうやって、権威を示し、尊敬を押し売りするのが生業だ。でも、ぼくは心苦しかった。めっちゃ葛藤があった。。それじゃ、インチキ宗教の教義の伝授とどっこいだ。ちゃんとした、「科学的な」、あるいは、「哲学的な」、バックボーンを生徒に示したい、と思ってた。ぼくが欲しかったのは、生徒からの「偽りの尊敬」ではなく、生徒たちの「好奇心にみなぎった未来」だったのである(かっこつけすぎかな。笑)。それが、ぼくに数理論理の勉強に走らせた最も大きな活力だったのである。そんなわけで、本書は、「How」を示すだけではなく、できるだけの、(ぼくの度量で可能なだけの)、「Why」を与えたかったのである。

(7)数理論理の教科書はなぜわかりにくいのか?
 以上のような、あるいは他の、さまざまな問題意識から、数理論理学の教科書をひもといた経験を持つ読者もおられるでしょう。そして、そのうちの多くの人はきっと、困惑に陥ったことでしょう。筆者もこれまで述べた疑問を解決しようと、何冊もの数理論理学の教科書に挑戦しましたが、いつも大きな困惑に直面しました。それは、ほとんどすべての数理論理学の教科書が、以上のような素朴な疑問を解決してくれるものではなかったからです。
 その理由は、数理論理学の教科書が、「数理論理学という数学分野」の研究のための本であって、私たち一般人の素朴な疑問に答えるための本ではないからです。
 例えば、「証明」において使うことが許される「推論規則」が提示されるとき、たいていは、全く見たことのない、わけのわからない「規則」となっていて頭を抱えます。それは、「ヒルベルトの体系」または「ゲンツェンのシークエント計算」、あるいはその派生形です。これらは決して、私たちが普段の数学で使う論法ではありません。なぜそんな奇妙な体系を使うのか、というと、「数理論理学」という固有の数学を展開する(数理論理学の定理を証明する)には、それらの体系のほうが便利だからに他なりません。しかし、これらの「推論規則」は、私たちの普段の論理的推論とあまりに見かけが異なるので、理解するのに大きな努力を要するうえ、「論理的推論ってなに?」という、私たちの疑問の出発点には答えてくれないのです。このことが、多くの一般の読者を論理学から遠ざけてしまう原因だと思います。
 筆者は、何冊もの教科書を読んでいく中で、数学で普通に使われる論法に非常に近い体系を見つけました。それが「自然演繹」と呼ばれる体系です。学校で教わる数学の「証明」は、すべて「自然演繹」の規則に対応づけることが可能です。また、そうすることで、数学の「証明」というものを、前よりも明確に捉えることが可能となります。
 本書では、「自然演繹」を丁寧に解説します。自然演繹を理解することは、「証明とは何をしていることか」を理解することであり、また、「証明のハウツー」を会得することになるからです。

いやあ、ほんとにね、数理論理の教科書を素人が読んでもね、ぜんぜんためにならないと思うよ。それらは、数理論理学というジャンルの専門家の免許を取得するためのものであって、決して、我々の広範な疑問や好奇心を満たすためのものじゃない。別にそれが悪いとは言ってない。ぼくが専門とする経済学の多くの教科書もそうだ。それらは、「生々しい経済活動」についての素人の疑問に答えるようには書かれていない。悪口覚悟で言えば、それは経済学というジャンルで飯を食っていくための「超常的教義」を習得するための呪文の本であって、我々の「生の現実」とは、ある意味での断絶があるんだと思う(ある意味の、意味が大事なんだけど、ここでは論じない)。
でも、数理論理の教科書たちのそういう「傷」が、ぼくには「チャンス」だと思った。専門家でないぼくにも、ある種の役割が、つけいる隙が、あるんだと思った。それは、素人の人のニーズを満たしながら、でも、ちゃんと数理論理の線路から脱線しすぎないような本を書くことができるんじゃないか、ということだ。それで本書を執筆した、というわけなのだね。
 ほ〜ら、読みたくなってきたでしょ? そういう人は、明日、書店に走ろう。ネット書店で、ぽちってもいいぞ。