ラマヌジャンの正当な評価がわかる本

 今回は、黒川信重ラマヌジャン探検 天才数学者の奇蹟をめぐる』岩波書店を紹介しよう。
 素数についての新書を執筆していることは、前のエントリーにも書いた。もうゲラがあがってきているので、ちゃんと刊行されると思う(笑)。その新書は、言うまでもなく、素数についての総合的な解説本だ。詳しくは、刊行直前に宣伝することにするけど、もちろん、ラマヌジャンの業績にも触れている。なので、黒川先生の本書を、参考文献として用いさせていただいた。

本書のすばらしさは、ラマヌジャンという稀代の天才数学者への正当な評価を、素人にもわかるように伝えている、というところにある。
ラマヌジャンは、インド出身の異色の数学者だ。ここで「異色」というのは、ラマヌジャンの数学研究のスタイルのことだ。ラマヌジャンは、ノートにたくさんの数式を書き留めており、それらの数式の多くが当時の数学者さえ、どうしてそんな式が成り立つのがわからないような類いのものだった。そういう意味で、ラマヌジャンは、ある種、「変わり者」「異端」「傍流」の数学者と見なされてきたと思う。ぼくは、大学の数学科で勉強した身だけど、そのぼくさえ、ラマヌジャンにそういう印象を持っていたのだから、アマチュアの数学愛好家の人はなおさらだろう。でも、本書を読むと、ラマヌジャンへのそういう偏見・無理解は完璧に払拭されると思う。
 本書の意義をおおざぱにまとめると以下の3点になる。
1.ラマヌジャンの天才性がわかる。
2.ラマヌジャンのイギリスでの数学者生活が決して幸せではなかったとわかる。
3.ラマヌジャンが現代の数学に残した大きな影響力がわかる。
一言で言えば、ラマヌジャンへの正当な評価がわかる、ということだ。
第一の点については、黒川先生はラマヌジャンの研究方法を、「発見的方法」と名付けている。少し引用をしよう。

ラマヌジャンの数学は、直観的な傾向が強い、ということも目立っています。手法としては「発見的方法」(第3章と第5章参照)を活用していたと思われます。現代の数学から見て残念なことは、「証明する」という習慣がラマヌジャンにはあまりなかったらしい点です。それはラマヌジャンがインドでは数学公式集で勉強していたということが原因でしょう。論理を大切にする数学の訓練を受けた経験が、ほとんどありませんでした。現代数学ではーラマヌジャン時代も含めて−証明が他人に認められてはじめて成果となることを彼は知りませんでした。

他のラマヌジャンの伝記で読んだところによると、ラマヌジャンが愛読した数学公式集は、証明抜きで数学の公式を羅列した事典のようなものだったそうだ。ラマヌジャンはそれらの公式を独自の感覚で理解し、吸収し、真似をして新しい公式を発見したらしい。これがラマヌジャンの数学研究のスタイルの突飛さなのだけど、逆から見れば、「証明」なしに公式の理屈を見抜くなんて、とんでもない才覚だと言えよう。
ラマヌジャンは、自分の発見を理解してくれる人がインドにはいなかったため、イギリスの著名な数学者ハーディに手紙で成果を知らせ、ケンブリッジ大学に招聘されることになった。しかし、このラマヌジャンの研究スタイルが、結果的には、第2点として挙げた「彼の不幸」につながることになってしまった。黒川先生はこの点について、次のように書いている。

ラマヌジャンの数学の特徴は飛び抜けた多産性です。毎日いくつもの数学結果を日記のように書いていました。実はハーディとあまりうまくいかなくなってしまうのですが、その原因の一つは、ハーディがラマヌジャンに対して感じた数学的ジェラシーだったと思われます。大数学者でも1年にいくつかの発見で充分です。普通の数学者なら、何年かに一つくらいで大丈夫です。それが、毎日いくつもとなるとハーディでさえうらやましくなってしまうのも当然です。

その上で黒川先生は、ラマヌジャンがイギリスのハーディ教授のところではなく、ドイツのヘッケ教授のところに行ったなら、もっとうまく行ったのではないか、というセルバーグの見解を紹介している。
ラマヌジャンの最大の不幸は、イギリスに渡ってすぐに第一次世界大戦が始まってしまったことにあった。それが主因で、6年後に32歳の若さで夭折することになる。その辺の事情は本書で読んで欲しい。
 本書を読むと、ラマヌジャンが単なる「一発屋」的数学者ではなく、現代数学の展開に深く大きな影響を与えたことがわかる。本書にはたくさん紹介されているが、ここではその中から、第9章「ラマヌジャンからフェルマー予想の解決へ」を紹介したい。なんてたって、フェルマー予想の解決はぼくの青春時代の夢物語だったので(笑)。まず、黒川先生の言葉を引用しよう。

このようにして、フェルマー予想の証明完成(1995年)にもラマヌジャンの研究(1916年)が大きく貢献していることが判明します。このことは、通常のフェルマー予想の解説では触れられませんので、特に強調しておきます。

ここで言うラマヌジャンの研究とは、重さ12レベル1の保型形式についてのものだ。ラマヌジャンは、1916年頃に(Δと名付けられている保型形式とは別に)次のような関数を研究した。すなわち、{(1−(qのn乗))の2乗}×{(1−(qの11n乗))の2乗}を全自然数nについて掛け算し、最後にqを1個掛け算した式をFとおく。Fをqの多項式として展開整理し、qのn乗の係数をc(n)とする。この数列c(n)を使って作ったL関数、すなわち、c(n)/(nのs乗)を全自然数nについて総和したものをL(s, F)と記す。
このL(s, F)が2次のオイラー(素数pの(−s)乗についての2次式の無限積)で表され、それがリーマン予想の類似を満たす(素数pの(−s)乗についての2次式の零点の実部が1/2となる)というのが、ラマヌジャンの予想したことだった。
これを証明したのが、アイヒラーという数学者で、1954年のことだった。アイヒラーの証明は、門外漢のぼくにはとてつもなく奇抜なものに映る。楕円曲線E:(yの2乗)−y=(xの3乗)−(xの2乗)から作ったゼータ関数L(s, E)が、さきほどのラマヌジャンのL関数L(s, F)と一致する、ということを示すのである。楕円曲線のほうのL(s, E)に対しては、リーマン予想の類似が成り立つことは、ハッセが1933年に証明している。したがって、ラマヌジャン予想はハッセの結果に帰着されてしまうことになるのだ。保型形式と楕円曲線という、出自の全く異なるものから作られる二つのゼータ関数が一致してしまう、という不思議には心打たれる。
その証明が気になったぼくは、本書にはもちろん記述されていないので、ネットから解説論文をダウンロードしてざっと目を通してみた。ぼくの見たところでは、「フロベニウス」と呼ばれる写像(p乗する写像)に関するガロア表現を使って、「アイヒラーの合同関係式」と呼ばれる恒等式を導くようである(解説論文には、「アイヒラー=志村の合同関係式」と記してあった)。まるで手品のような証明だった。
これがなぜ、フェルマー予想の解決につながったのか。
それは、「保型形式と楕円曲線についてのゼータ関数の一致がもっと広いクラスについて成り立つこと」が、フェルマー予想の解決を導くからだ。この広い一致を予想したのが、谷山予想であり、それを解決したのが、ワイルズとテイラーだったということなのだ。詳しくは、黒川先生の本書を読んでほしい。
 本書を読むと、ラマヌジャンという数学者の「特別さ」がよくわかり、数学の進歩のダイナミズムに心を打たれる。「変わり者」「異端」「傍流」と片付けられないラマヌジャンの天才的な慧眼と、現代の数学者たちが空間概念を刷新し、より深化した空間概念を使ってラマヌジャンの「直観」を裏付けていった歴史は、素人が読んでも感動する。本書こそが、ラマヌジャンの重要性を正当に評価した本なのだ。