前回のエントリー、
宇沢先生のシンポジウムに登壇します! - hiroyukikojima’s blog
で、宇沢先生の追悼イベントAll About Uzawaに登壇することを告知した。そこで、学会だけでなくテレビでも大活躍の阪大の経済学者・安田洋祐さんと(および作家の佐々木さんと)鼎談すると言ったのだけど、その鼎談が思いのほか面白かった。というか、すごく刺激的だった。
そのこともあったので、このところ宣伝しまくっている拙著『世界一わかりやすいミクロ経済学入門』講談社に込めた思いと絡めて、安田さんとの議論について、ここで紹介してみたいと思う。
まず、ミクロ経済学で大事なのは、(マクロ経済学でもほぼ同じだが)、次の三つだ。
A.主体的均衡→経済主体が与えられた環境と情報の中で最適な選択をする
B.市場均衡→需要と供給がつりあう
C.主体的均衡と市場均衡のズレ
Cを少し説明すると、例えば、「ある主体がそれを飲むことに150円の価値があると評価しているジュースを100円で買うことができたら、50円の得(余剰)が発生している」、などだ。
ぼくは、以上のA、B、Cの中で初学者や専門外の学習者にとって最も重要なのは、(あえて言えば、唯一重要なのは)、Cだと思っている。つまり、AもBもどうでもいい。
「微分」が役立つのはAでだ。最適化に微分は不可欠だから。そういうことから、ミクロ経済学の講義で微分を教え込まれることになる。迷惑なことにも、だ。
微分が不可欠なのは物理学もそうだが、その意味合いはぜんぜん違う。なぜなら、「微分=力学」であり、もっというなら、物理学は力学を表現するために微分を発明したのだ(ニュートンの偉業だね)。物質現象では微分が本性だということなのだ。微分は物理学が発祥の地と言っていい。
だけど、経済学は(わざと口汚く言えば)物理学に追い付きたくて微分を輸入して、物理学を模倣しようとしたにすぎない。「限界革命(Marginal Revolution)」とかカッコ良く言っているが、なんのことはない、物理学へのコンプレックスの裏返しでしかないと思う。(もちろん、ミクロ経済学やマクロ経済学の論文では、最適化を無視したらダメなのは当然だ。主体が効率的な行動をしてなくていいなら、どんな結論も導けるから)。
以上のように、ぼくが思うに、微分は物理学では本質だけど、経済学にとってはそうではない。そういうふうな思想と思惑があって、ぼくの教科書『世界一わかりやすいミクロ経済学入門』講談社では微分を完全除外することにしたのだ。
次に、Bの市場均衡は、Aに比べれば有意義、ということはそう思う。でも、Bは単に「帳尻があう」ということを言ってるだけで、それだけではパワーがあるとはいえない。大事なのは、Cの「主体的均衡と市場均衡のズレ」なのだ。Cを言い換えると「価値と価格のズレ」となる。すなわち、
価値→個人の内面にあるもの
価格→集団で決まるもの
ということだ。そして、この「個人と集団との断絶」を理解することこそが社会というものを理解することであり、経済学の本領であり、初学者にも専門外の学習者にも最も大事なことだと思うのだ。ぼくの教科書は、この点に徹底してフォーカスしているのだと強く主張したいわけなのだ。
ではここで、冒頭に書いたAll About Uzawaでの安田さんとの議論のことに話を移そう。
この鼎談では、もちろん、宇沢弘文先生の理論と人となりについて語りあった。安田さんは、新古典派のときの論文(ワルラス均衡とブラウワー不動点定理の同値性定理)と「社会的共通資本の理論」についての論文とをひとつずつ解説した。以下、社会的共通資本の理論についてのほうだけ扱うことにする(前者も面白いんだけど)。
社会的共通資本の理論とは、市民の生活を支える自然資本・社会資本・制度資本のコントロールを通じて、より良い社会を実現する、という思想だ。この考え方に全く重要性を見ない経済学者が多いが、ぼくは非常に貴重な理論だと思っている。その手ごたえとして、ぼくが鼎談で挙げたのは次のようなことだ。
物理学では、熱現象の理論の構築に紆余曲折があった。熱現象とは分子の運動から生じるもので、分子一個一個はニュートンの力学方程式に従っている。だから、初期には、ニュートンの力学方程式を集団に適用すれば熱現象が説明できる、と考えられた。しかし、それが大きな混乱を呼び起こした。力学方程式には時間の方向性がないが、熱現象には時間の方向性があるからだ。つまり、分子の力学的特性を足し算しても熱現象は説明できず、「熱現象は集団そのものの特性」ということだとわかった。言い換えると、「集団の特性=統計的法則」ということである。
これと類似のことが、経済学にもあるとぼくは感じている。
新古典派の理論(ミクロ経済学やマクロ経済学)は、主体の個別な性質を足し算したものだ。しかし、それで社会という集団に起こる現象を説明できないように思う。説明できないから制御もできない。
とは言っても、「経済現象における個の合計と集団とのギャップ」は、物理学におけるそれとは違うだろう。経済学の中で、統計力学を経済現象に応用しようとするアプローチも一部で行われているが、あまり筋がいいとは思えない。統計力学は物質の集団に関する統計法則だからだ。
宇沢先生の社会的共通資本の理論は、社会を「個の合計」としてではなく「集団」そのものとしてアプローチしようとする試みだと思っている。だから、新古典派がぶつかっている壁を打ち破れる可能性を秘めているように思える。
もちろん、新古典派で飯を食っている「信者たち」は、こういう考えを妄想と揶揄することだろう。
驚いたことに、安田さんはぼくのこの考え方に一定の理解を示してくれた。安田さんの感覚では、社会を「個の合計」ではなく「集団」そのものとしてアプローチするのがゲーム理論だ、ということだ。その証拠に、「囚人のジレンマ」に代表されるように、個人の合理性が集団の不合理性を生むことが自然に起きる、という。
なるほど。
さすが、安田さん、筋がいい。
たしかに、ゲーム理論こそ、「個」と「集団」の断絶、主体的均衡と市場均衡のズレを表現できる現状唯一の理論であろう。そういう意味では、社会的共通資本の理論に最も有用なのは現状ではゲーム理論かもしれない。
それでもぼくは、先ほどの自分の妄想にもう少し執着していたいのだが。
さて、回り道したが、もういちど我が教科書『世界一わかりやすいミクロ経済学入門』講談社の特性に戻ろう。この教科書では、Aの点は無視した。つまり、微分も、その代替物である無差別曲線も、削除している。その上で徹底したのは、「個」と「社会」とのズレがどこにあるか、というCの観点だ。そして、企業の理論では、限界費用とかのAの観点は無視して、ゲーム理論だけに道具を集中している。
この教科書は、ただの簡素化ではなく、ぼくが思う「経済学の本性」を思想として塗りこめた本なのだ。