ゼータの伝記そして歳時記

 前にエントリーから、ずいぶん間が開いてしまった。

今回は、黒川信重さんの『零和への道ーζの十二箇月ー』現代数学社を紹介しよう。

零和への道 ―ζの十二箇月―

零和への道 ―ζの十二箇月―

  • 作者:黒川 信重
  • 発売日: 2020/08/22
  • メディア: 単行本
 

 タイトルにはちょっとのけぞるだろうが、決して、トンデモ本ではない。それどころか、驚くべき名著であり、読んで感じ入ることのできる数学書となっている。

 もちろん、黒川さんの本だから、当然「ゼータ」の本となっている。しかし、そればかりではなく、非常に「斬新」な、非常に「変わった構成」の本となっているのだ。それは、「歳時記造り」になっているという点だ。

実際、目次が4月から3月までの年度の一巡となっている。目次だけ抜き出すと、

4月 ゼータ入門

5月 合同ゼータと絶対ゼータ

6月 セルバーグゼータ

7月 リーマン予想

8月 ハッセゼータ

9月 絶対ゼータ

10月 ラングランズ予想

11月 ゼータ育成

12月 ゼータ融合

1月 井草ゼータ

2月 群ゼータ

3月 零和時代

 この本は、『現代数学』誌2019年4月号~2020年3月号までの連載をまとめたものだから、それで4月から3月の一巡になっているのだが、それだけではないのだ!

この本は、該当月にちなんだ数学者の紹介をしていくという、ある種の「歳時記」、ある種の「伝記」、そしてある種の「墓碑銘オマージュ」になっているのである。 「歳時記」とはなにかというと、数学者の「生誕月」であったり、「没月」であったりする。具体的には、(ネタばれになってしまうので申し訳ないが)、

4月 オイラーの生誕月

5月 ヴェイユの生誕月

6月 セルバーグの生誕月

7月 リーマンの没月

8月 ハッセの生誕月

9月 オイラーの没月

10月 ラングランズの生誕月

11月 エスターマンの没月

12月 ラマヌジャンの生誕月

1月 井草凖一の生誕月

2月 ランダウの生誕月・没月

3月 グロタンディークの生誕月

このように、その月にちなんだゼータ研究の数学者たちの順に解説が並んでいる。そういう意味で「歳時記」なのだ。だから、他書に比べて新鮮な気分で読むことができる。 

 実は黒川さんの本には、いつでも、数学者の生誕年・没年、定理の論文への所収年、初出年、などが詳細に記載されている。これは黒川さんがその都度調べているのではなく、驚くべきことに、黒川さんの記憶から書いているのである(と思う)。なぜなら、ぼくが黒川さんとの共著『21世紀の新しい数学』技術評論社を対談で作ったとき、黒川さんがすらすらとこれらの年を記憶からたぐり寄せたのを目の当たりにしたからである。これは、黒川さんの驚くべき特殊能力(のひとつ)だと思う。

さて、「ちなんだ数学者」の中に一部に、アマチュア数学愛好家に馴染みのない数学者がいるので、本書での解説を少し紹介しておこう。

 エスターマン(ぼくは知らなかった)とは、ドイツ生まれの数学者で、フィールズ賞を受賞したロスの師匠らしい。エスターマンの発見した重要な結果とは、素数pに関する式(1-2/(pのs乗))を全素数について掛け合わせた一種の「オイラー積」が、複素平面全体には解析接続できない(つまり、複素数全体で定義された関数に拡張できない)ことを証明したことである。このことから、いわゆる「オイラー積によるゼータ関数」が複素数全体に解析接続できるのは当たり前のことではない、とわかる。黒川さんは、このエスターマンの結果を拡張して、位相群で解析接続不可能なオイラー積を構成したそうである。実におもしろい。

 井草凖一(ぼくは知らなかった)は、井草ゼータというのを構成した数学者である。京都大で博士号を得たあと、米国に渡り、ジョンズ・ホプキンス大学で教授職を長年勤めた。井草ゼータとは、整数上の代数的集合・スキームXに対して定義されるもので、「融合積」と相性が良く、「畳み込み」ができるらしい。

 本書は、ゼータ関数に関して、新鮮な順序で解説されている。何かの解説書(もちろん、黒川さんの本でも良い)でゼータ関数素数のことを一通り勉強した人も、本書を読むと、意外な発見や気づきがあるだろう。

 そればかりではなく、黒川さんが「リーマン予想」解決のカギ、最終兵器として研究を進めている「絶対数学」「絶対ゼータ」についても、新しい視座から理解が可能になるようになっている。だから、リーマン予想に興味がある人には必読の本なのである。

 黒川さんの本を読むと、「数学とはいろいろな技術や思想や世界観の融合物である」ということが実感される。数学の「人間味」が伝わるから、読んでいて楽しい。

 本書にはところどころに、黒川さんと著名数学者との交友の体験談も出てくる。それを読むと、数学者の人生を追体験できて、じーんと来る。