酔いどれ日記2

今日は酒を抜くつもりだったのだが、ストレスが激しいため予定変更。マルサネの赤ワインをいま、2杯目。

昨日は、約2年ぶりにゼミ生たちとスタジオ入りをした。ぼくのゼミでは、講義とは関係なく、毎年ゼミライブというのをやっていた。音楽サークル系のゼミ生がバンドを組んで演奏し、ゼミ生が歌う。ぼくも数曲、ギタボで参加する。

去年がちょうどゼミライブ10周年にあたるのだが、新型コロナでやむなくオンラインで実施。ぼくは演奏しなかった。新型コロナが沈静化したので、やっとスタ練に入ることができた。ぼくは、エルレガーデンの「ジターバグ」「金星」の演奏にギタボで参加した。どちらもすばらしい曲だ。

エルレガーデンを好きになったときは、彼らが活動停止を決めてからだった。だから、なんとかライブを観たいと奔走したが、さすがにチケットが手に入らなかった。でも、アジカン主催のフェスに彼らが参加したため、横浜アリーナで彼らのライブ(最後に近いライブ)を観ることができた。あまりのすばらしい演奏に、感涙むせんだのを今でも覚えている。

 さて、今夜は、高校時代の国語の先生の思い出を書こうと思う。

中学時代は数学が最も好きな科目だったが、高校時代は現国が最も好きな科目だった。中学時代に数学が好きだったのは、数学の先生が数学科の大学院にまで行った若い先生だったので、その情熱に飲み込まれたからだ。その先生のおかげでぼくは、「素数マニア」になり、今年素数ほどステキな数はない』技術評論社という本まで上梓することとなった。その先生のことはこの本のあとがきで読んでほしい。しかし、高校時代には、数学の先生と感覚が合わなかった。もちろん、数学を教える能力は高かったけど、数学の不思議さ・深遠さとは縁遠い人たちだったからだ。

それに比べて、現国の先生には血気盛んな人が存在した。O先生はそんな人だった。例えば、芥川龍之介の「羅生門」を扱ったときは、B4のプリント2、3枚にびっしりと「問い」が書いてあった。小説の数行にひとつは問いがなされている体だった。あたかもソシュールのごときだった。

あるとき、その先生が高橋和巳の小説を薦めたので、生徒は誰もが読むものだと思ったぼくは一冊読んで、O先生に報告に行った。驚いたことに、読んだのはどうもぼく一人だったようだった。先生はよほど嬉しかったと見え、放課後に喫茶店につれていってくださり、長時間語りあってくださった。先生はたぶん『邪宗門』を読んでほしかったと思うのだが、へそまがりのぼくは『我が心石にあらず』を読んだのだ。この小説は、(高橋和巳の小説は常にそうだが)、インテリのひ弱さ、脆弱さ、そして虚偽を描いていた。『我が心石にあらず』では、主人公のインテリが不倫する女性が、最初は魅力的なのにだんだん醜さを露呈していくプロセスが(高校生ながら)たまらなかった。そんな話をぼくはO先生にいきって話したような記憶がある。

またまたあるとき、O先生は現代短歌について、生徒ひとりひとりに歌をひとつずつ担当させ、生徒なりの解釈を発表させる、という講義を行った。ぼくは、(たしか)塚本邦雄という人の歌、

鞦韆に揺れをり今宵少年のなににめざめし重たきからだ」

という歌を割り当てられた。鞦韆は「しゅうせん」と読むが、いわゆる「ブランコ」のことである。

何度読んでも、背後の意図をつかめなかったぼくは、ちょうど中学のときの数学の先生に会う予定があったので、その先生にこの歌をもちかけた。その数学の先生は文学にも強い興味を持っていらしたからだった。その先生は、「鞦韆が、終戦にかけており」、「重たきからだは、敗戦に対するものだろう」と解釈した。ぼくは、めちゃめちゃ「なるほど」と思った。 

それで、O先生の前で、意気揚々とその解釈を披露した。ところがO先生は、すこしひきつった笑みを浮かべて、「全く違う」と断じた。そうしてこのような解釈を披露した。「小島ね、少年が目覚めると言えばなんだ。わからんか? 性に対してに決まってるだろう」と。

ぼくは一瞬、あんぐりとなったが、その一方で数学の別解を知ったときの快感のようなものが脳を走り抜けるのも感じた。O先生の解釈が正しいのかはいまだにわからないが、ただ、その解釈に「文学的価値」があることは今ならわかる。文学の多くの部分は、「性」で成り立っているからだ。

O先生の現国には、結局、ぼくは大きな影響を受けたと思う。小説や詩や歌は、ただの感覚的や雰囲気だけで創作されているのではなく、数学のような緻密さ・厳密さで生み出されているのだ(かもしれないな)と悟ったからだ。

O先生は、ぼくらが卒業してから数年後、40代で急逝したことを人づてに知った。癌を患ったとのこと。教わっていた当時から虚弱な感じはしていたが、早すぎる、そして惜しすぎる死であったと思う。もっといろいろ教わりたかった。