酔いどれ日記6

 今日は残っていたリースリングを1杯飲んで、赤にシフト。ボーヌロマネ2018。勤務先の近くのワインショップが1割引き券をくれたので、思い切って買った。懇意にしてる店員さんのお勧めなのもあって。ぼくにはワインの知識も自信もほとんどないので、基本的に信頼できる店員さんの勧めてくれるものを購入する。行くたびに、このあいだのは美味しかった、とか、コスパは良かったね、とか、すっぱかった、とか匂いが良かったとか伝え続けると、自然とぼくの好みを把握して勧めてくれるようになってくれる。決して、高いワインを売りつけようとはせず、いろんな価格帯のワインを紹介してくれるから信用できる。

 今は、TK from 凜として時雨のブルーレイをかけながらこれを書いてる。あるときから、男の歌声をうけつけなくなったぼくの体だけど、TKだけはなぜか聴くことができる。

 今夜は、また、村上春樹の小説のことを書こう。

『女のいない男たち』文藝春秋を、3編読み進めた。エアロバイクをこぎながら、一日に一編ずつ読んでいる。『独立器官』『シュエラザード』『木野』の三編を読んだ。

みんな面白いけど、三編を競わせて軍配をあげるなら、やはり、『木野』だな。春樹さんらしい幻想小説だから。

 『独立器官』は、主人公が親しくなる整形外科の開業医の話。いわゆるドン・ファン的な男で、女には(というかセックスには)不自由せず、患者の女性たちとの情事を楽しんでいる。女性たちは独身もいるし、既婚者もいる。その開業医が結局は破滅する物語。それはいい年をして、生まれて初めて恋に落ちてしまうからなんだよね。それもひどくつまらない女に。この小説も非常に緻密に構成されているんだけど、ぼくにはちょっと物足りなさがあった。まあ、これも年の功で、そういう「高齢でかかる麻疹」みたいなのをよく見てきたから。「思い入れだけの恋愛」とか「相手に幻想をかぶせる恋愛」とかは、中高生のうちに済ませておかないといけないんだ。大人になってからだと重症化する。そういう人を身近に数人目撃した。はたで見てると、「ばかなんじゃないの」とさえ思うんだけど、本人は深刻なんだ。そういう麻疹はぼくは中高生で済ませた(酔いどれ日記1参照)

『シュエラザード』は、変な癖(もちろんやばい悪癖)を持った女の話。非常にありそうな話で感心した。その悪癖は、かなり荒唐無稽なんだけど、実話のように書かれている(いや、どっかで聞いた実話なのかもしれないけど)。主人公の男の正体も、悪癖女の素性も最後までぜんぜん判明しないんだけど、それがまた、物語に深みを与えている。

『木野』は、妻の浮気が発覚して退職してバーを始めた男の話。木野は、その主人公の名前だ。前半は、そのバーで起きるできごとが淡々と描写される。店の片隅でウイスキーの水割りを飲みながら本を読む常連客の神田が、大きな伏線となっている。後半は、どんどん幻想的になっていく。最後は、春樹流が炸裂する。物語はどんどん発散していく。

この短編『木野』のテーマを一言で言うのは難しいけど、村上春樹がずっとテーマとしてきている「禍々しいもの」がその一部だろう。あともうひとつ、「正しい選択とは何か」という問題。そういう意味では、初期の短編に通じるものがある。『パン屋再襲撃とか『品川猿』とか『めくらやなぎ、と眠る女』とか。この三編にぼくが何を見ているか、というのは『数学で考える』青土社あるいは『数学的思考の技術』ベスト新書に収録している『暗闇の幾何学で論じているので、それで読んでほしい。この評論は、もともとは、文芸誌『文学界』に寄稿したものだ。このようにぼくの中での村上春樹は一貫したテーマを拡張しながら繰り返し物語にしてる。

 村上春樹とぼくが共有している、と思われるのは(勝手に思っているだけなんだけど)、「地下鉄サリン事件とは何だったのか」ということだ。村上春樹は、この事件を追って、アンダーグラウンド『約束された場所で』というインタビュー集を作った。前者は地下鉄サリン事件の被害者になった人々に、後者はオウム真理教の信者にインタビューしたものだ。ぼくにとって衝撃だったのは、後者だった。オウム真理教の信者たちはインタビューの中で、自分たちの信教(あるいは信念)が絶対に正しいという立場を表明している。そして、それを理解しない一般人(あるいは教徒以外の人々)は単なる低脳人間なんだ、と見下している。しかし、彼らがよりどころにしている麻原彰晃(あるいは松本智津夫)の教義(あるいは理論)は、ぼくら読者には(普通の人間には)さっぱり理解できない。でも彼らは自信満々だ。

ここで立ち塞がるのは「正しさとは何か」ということだ。こう言い換えてもいい、「自分とオウム信者はどこが違うのか」。たしかに、彼らは地下鉄でサリンをまいて人殺しをした。ぼくらはそんなことはしない。でも、だからぼくらは正しいのだろうか?ぼくらは彼らと同じような人殺しをずっとしない保証があるんだろうか。村上春樹も同じ難問を抱えた気がするんだ。「悪とは何か」「正しいとは何か」。これを「社会の内部にいるぼくらが、あたかも外側からするように判断するすべはあるのか?」。それができないなら、ぼくらとサリン事件実行犯たちとを区別することができない。「わたしはわたしがそうでないことを知っている」というのが答えにならないのは言うまでもない。

もちろん、「外側からの回答」は原理的に不可能、絶望的に不可能なのかもしれない、とは思う。でも、だからと言って、逃げてはいけない問いであるとも思うんだな。