酔いどれ日記14

今夜はMontlouisという白ワインを飲んでる。何かの花のような匂いと独特の渋みがあって、複雑な味わい。

今回は受験現国の話をしよう。

ぼくは中高生のとき、現国は文系科目の中で唯一好きな科目だった。論説文も小説も詩も好きだった。高校で「はずれ」な現国教員に当たったときは、授業を聞かずにずっと資料集を読んでいた。資料集には、文豪たちの小説がちょっとずつ載っていたから、文体と世界観をオムニバスで楽しむことができたからだ。効率的にたくさんの作家を知った。「はずれ」な現国教員は1人だけで、教わった他の2人は「当たり」な教員だった。彼らには大きな影響を受けた。そのうちの1人については、すでに酔いどれ日記2に書いた。もう1人は女性で、専門は古文の先生だが、現国も教わった人だ。

その女性教員の現国の講義のときは、彼女の問いかけに対して、ぼくはとにかくやみくもに発言をした。なんでもいいからアピールして、存在感を示したかったからだ。それだから彼女は、ぼくが文系志望の生徒だと思いこんでおり、ある時、「数学ですごいやつがいる、って聞いてたけど、それが小島のことだとは露とも思わなかった」と言ってくれた。(たしかにぼくは、その学年では数学はぶっちぎりに出来ていた。自慢話が鼻につくかもしれないけど、後に東大数学科に進学したぐらいだから、普通の高校なら当然のことで、自慢でもなんでもない)。

そんなぼくだけど、現国の成績は決してよくなかった。その女性教員もそのことには気づいて首をひねってたことと思う。授業中には玉石混淆ながら、それなりに「玉」な発言をするぼくが、テストになるとたいした成績がとれないのを不思議に思ってただろう。

それで高3のとき、その女性教員に、「現国で点が取れるようになるにはどんな参考書をやったらいいでしょうか」と教えを乞うた。そうして、良質の現国問題集を一冊紹介してもらった。夏休みに、その問題集の問題を1日1題ずつ解いていくことに決めた。ところがそれが、数日で頓挫することになってしまったのだ。

それは、三島由紀夫の小説が出てきたときのことだった。あまりにすばらしい文章に唖然とし惚れ惚れとなった。実は、三島の小説を読んだのは、それが初めてだった。ほんの一部を切り取ったものにすぎないけど、完璧で美しく魅力的だった。ぼくは問題を解く気にならず、何度も読み返しただけだった。それ以来、ぼくはその問題集を開くことはなかった。三島由紀夫の本はその後、30歳頃に一冊だけ読んだ。『音楽』という小説で、これもぼくがイメージしていた通りの、あまりに完璧で美しい文章だった。

これはぼくの悪癖だった。ぼくは現国の問題文ですばらしい文章に出会うと、問題を解く気が消滅してしまう。問題を解くことがその文章に対する冒涜のようにさえ感じられるのである。これでは現国ができるようになるはずはない。世の中にはぼくと同じ悪癖を持つ人が多くいるのではないかと思う。そんな人も悲観する必要はない、と声を大にして言いたい。そういう悪癖のぼくも、現国の不得意なぼくも、大人になって文筆家になり、数十冊の書籍を刊行しているもんね。

「受験科目」としての現国には馴染めなかったぼくだが、現国の勉強から大きな影響を受けた。ぼくは友達を参考に、Z会の通信添削を受講することにした。国数英の3教科だった。数学はそんなに問題が面白いとは思えなかった(満点を取れるわけじゃないけど、毎回高得点はとれて、名前が載った)。英語は不得意だったので毎回、四苦八苦しながら解いたが、記憶に残るほど面白いものではなかった。でも現国は、毎回、感心した。今でも記憶に残っているのは、なだいなださんの論説についての出題だった。

なだいなださんは、精神科医で評論家だ。ぼくがZ会の現国問題で読んだ文章は、(曖昧な記憶で書くことをご容赦)、「~イズム」というのが要するに「中毒だ」というものだった。その証拠として、「アルコール中毒」のことを英語でalcoholismというのだ、ということを挙げた。そうか!とぼくは膝を打った。「そうか、マルクシズムもキャピタリズムも、みんな中毒なんだな」とぼくはものすごく溜飲が下がってしまったものだった。なだいなださんの評論には、常に、そういったペーソスとユーモアと、そして本質を突くものがあった。

その後、大学生の頃に、なだいなださんが雑誌に覆面で連載した評論を集めた『透明人間、街をゆく』を読んだ。これにもものすごく驚かされた。一番驚いたのは、三島由紀夫の自決事件についての評論だった。三島の思想や事件の背景にはあまり深入りせず、きわめて冷静に、三島の人となりについて論じていた。三島が同性愛関連でとりざたされるのは知ってはいたが、なだいなだがその点について、自決後の解剖報告に言及したのには驚愕した。医師ならではの視点だったのだろう。

最終的に、受験現国はぼくの得点源とはならず、足を引っ張らない程度のものだった。(足を引っ張られて浪人の憂き目を見たのは、英語と物理だった)。でも、受験現国のおかげでぼくは、現在の文筆家の生業を得ることができたのだと思う。「得点できること」と「将来の血肉となること」とは同じではないのだな。