酔いどれ日記15

今夜はSaumurの白ワインを飲んでる。不思議な香りがあって好み。

このところ、ずとまよ(ZTMY;ずっと真夜中でいいのに)の新譜「伸び仕草懲りて暇乞い」におまけでついているBDを繰り返し観まくっている。これは、ブルーノート東京で行われた無観客のライブ映像。ジャズクラブなので、アン・プラグドという体裁だ。

このライブ演奏はあまりにすごい。本当にあまりにすごいのだ。

アン・プラグドだし、ジャズっぽいアレンジなので、ACAねさんの超絶的な歌のうまさが際立つ。アレンジ自体もめちゃめちゃかっこいい。若い女の子(と言ったら失礼だろうが)にどうしてこんなことが可能なのかとのけぞってしまった。

ぼくは、ブルーノート東京には一度だけ行ったことがある。マイク・スターンというギタリストのライブを観に行ったときだ。スターンというのは、超テクのジャズ・ギタリスト。マイルス・ディヴィスの復帰アルバム「ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン」で有名になった。ライブの後半は、日本の超テク・ギタリスト渡辺香津美さんがジョイントして、あまりのかっこよさに胸が熱くなった。

ぼくは、大学の同級生のアパートで、初めて、マイルスのアルバムを聴き、それが「ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン」だった。そのとき、スターンの演奏にぶっとんだのを今でも鮮烈に覚えている。友人は「これはジャズじゃない」「マイルスはロックに魂を売った」みたいに言われている、と話してたけど、ぼくには「ジャズかどうか」なんてことはどうでも良かった。スターンのアドリブ演奏は、ロックぽいリフでありながら、コルトレーンばりのモード奏法でもあり、こんなギンギンのギターをマイルスが自分の演奏に導入した、というのが驚きかつ衝撃だった。

 さて今日は、小野善康さんの新著『資本主義の方程式 経済停滞と格差拡大の謎を解く中公新書について、ちょっとだけ書こうと思う。多くの人必読の経済学書だと思うので、本格的な紹介は後日、「酔いどれ日記」ではなく、ちゃんとしたエントリーをするつもりだ。

この本は、たった一つの方程式を使って、不況やバブルや格差や円高不況について一刀両断にするものだ。「一刀両断」本というのは、たいてい、勢いだけの目も当てられないデタラメ本にすぎないものだ。でもこの本は、きちんとした整合的な経済モデルにのっとっているので、そういうまがいものとはぜんぜん違う、ということを(経済学者のはしくれとして)太鼓判を押しておく。

ぼくは、宇沢弘文先生のレクチャーを受けて経済学に目覚めた(その辺の事情は、このエントリーで読んでくださいな)。それで経済学部の大学院で勉強したい、と思うようになり、30代後半にそれを実現した。大学院での目標としていたのは、次の二つだった。

(A)  貨幣理論としてのケインズ経済学をきちんと理解したい

(B) 宇沢先生の社会的共通資本の理論を発展させたい

宇沢先生のレクチャーを受けて、この二つにとても引きつけられたからだ。ぼくが教わった頃の宇沢先生は、「新古典派」と呼ばれる経済理論(経済学会の現在の主流派)には、完全に批判的な立場をとっていた。憎悪と言っても過言でないほどの否定のしようだった。他方で、ケインズ経済学にはアンビバレントな気持ちを持っておられるようだった。不完全ではあるが、ポテンシャルを秘めていて、超克すべき理論と見ておられるようだった。

実際、テキストとされた宇沢弘文近代経済学の転換』岩波書店では、第3章「ケインズ経済学の生成」、第4章「『一般理論』と不均衡動学」と、2章をさいていた。第3章では、ケインズの生涯からケインズ理論の構築過程まで非常に詳しい解説がなされ、特に『貨幣改革論』『貨幣論』に関するサーベイがなされている。また、第4章では、動学理論(時間の流れを伴う運動理論)としてのケインズ経済学に焦点をあて、それを「不均衡動学」に発展させる構想を述べている。

とにかく、ぼくは、散りばめられている「貨幣」「不確実性」「時間」「論理」「推論」「不可知性」「合成の誤謬」「不均衡」と言った魔術的な言葉たちに魅了されてしまったのだ。それで、大学院で本格的に経済理論を勉強したいと願うようになったのである。

ところが、大学院では、上記の(A)も(B)も全く解決しなかった。解決しないどころか、失望させられることになった。大学院の先生方は、(A)にも(B)にもぜんぜん関心を持っておられず、研究したことも知識として仕入れたこともない風情だった。まあ、新古典派とは軌道がクロスさえしないので、仕方ないといえば仕方ない。失望したのは、ぼくの興味が「あさっての方向」だからであって、正しいのは先生方が教えてくれる経済学の方なのだろう、と諦めとともに自分を説得し、とりあえず、目をつぶって新古典派の修行をすることにしたのだった。

でも今回、『資本主義の方程式』を読んで、ぼくの興味は的を射ていたのだ、という確信に到達した。大学院ではそれこそ「あさっての理論」を教わっていたのだと思う。小野さんの本で、ぼくが70年代から21世紀の今まで見てきた日本の経済の風景のほとんどが説明できると思う。そのことは、次回以降に詳しく書こうと思う。

この本でぼくには、上記の(A)はほぼ解決してしまったと思う。宇沢先生に教わって苦節30年の年月が流れたけど、目標は達成されたのだ。だから、これからの残る人生は(B)に賭けようと思う。これにはまだまだやるべきことがふんだんにある。

こういうと多くの同業者を敵に回すと思うが、(A)でも(B)でもない経済モデルは単なる「数学の遊戯」なんだと思う。現実とはなんら関係ない「数学の遊戯」だ。もちろん、「だから意味はない」とは言わない。物理学や生物学にだって「数学の遊戯」分野はたくさんあると思う。「数学の遊戯」も楽しいものだし、遠い将来にはきっと(数理暗号のように)社会の役にたつ日もくることもあろう。だから、いわゆる主流の経済学をぼくは、「数学の遊戯」としてはいそしんで行こうとは思う。でも、それはライフワークではない。残るぼくのライフワークは(B)なのだ。