酔いどれ日記19

 今夜は、アイラウイスキーハイボールを飲んでいる。それは、焼肉を食べにいって、生ビールをしこたま飲んだので、ワインを経由せずに仕上げにかかっているからだ。

 さて、先日、庵野さんの映画「シン・ウルトラマン」を観てきた。非常に面白かった。堪能できた。ぼくは、もろにウルトラマン世代だ。小学校低学年のときにリアルタイムで観た。それこそ、外で遊んでいても、走って帰宅して観たものだった。

そんなぼくだからか、そんなぼくでもか、シン・ウルトラマンは楽しかった。「シン・ゴジラ」の感動ほどではないにしても、十分評価できる作品だった。その一番の原因は、「シン・ウルトラマンには、オリジナルのウルトラマンに欠けているものが補充されている」からだ。オリジナルのウルトラマンに欠けていたのは「SF的要素」だったのだと今では思う。ビームをかざすとなぜウルトラマンは巨大化するのか、ウルトラマンはなぜ空を飛べるのか、スペシウム光線とはいったい何なのか。これらもろもろのことに説明が成されなかった(たしか、記憶では)。でも、庵野シナリオではそれは逐一説明されていたのだ。ときに「ほほう」、ときに「それかい」という具合で。これにはまじで感心した。

 怪獣と星人のセレクトも申し分なし。最後も、「そうだよね、それ以外ないよね」というエンディング。全く文句なしですわ。

 さて、これだけで終わったらあかんので、少しだけ数学の思い出を書こうと思う。今回は、森嶋太郎「ふぇるまあノ問題」という本だ。

ぼくは、これまでこのブログでも、著作でも、ぼくが中学生のときに数学にはまったきっかけを「フェルマーの大定理」だと書いてきた。この定理は、「nが3以上の整数のとき、x^n+y^n=z^nを満たす自然数x,y,zは存在しない」というものだ。それに嘘偽りはなく、自分が生きているうちにこの未解決問題が解決したのは、最高の幸せだったと言わざるを得ない。しかも、数学ライターとして、その報道に関わることができたのも誇らしいことだった。

その「フェルマーの大定理」について、たしか、高校生のとき、森嶋太郎という数学者が「ふぇるまあノ問題」という本を上梓していることを知った。しかし、書店はもとより、通常の図書館にさえ、この本は置かれていなかった。どういうきっかけでかは覚えてはいないが、東大の総合図書館にはこの本が存在することを知った。それで、もしも東大に入学することができれば、真っ先にこの本を借りに行こうと、それを心の支えに、受験勉強に励んだのだった。

 森嶋太郎の本に書かれていたのは、「フェルマーの商」と呼ばれるアイテムだった。ご存じの人が多いと思うが、「フェルマーの小定理」というのがあって、それは、「p素数とし、apの倍数でない自然数とするとき、a^{p-1}-1pの倍数となる」というものだ(証明は、拙著『世界は素数でできている』角川新書、または、素数ほどステキな数はない』技術評論社で読んでね)。したがって、 (a^{p-1}-1)/pは整数となる。これを「フェルマーの商」と呼び、q(a)と記される。

この「フェルマーの商」について、驚くべき定理が得られたのだ。ヴェィフェリッヒという人が1909年に次の定理を得たらしいのだ。

「奇素数lについて、x^l+y^l=z^lの成り立つ自然数x,y,z(ただし、自然数x,y,z,lは互いに素)が存在するなら、q(2)lで割り切れる」

というものだ。ここで「q(2)lで割り切れる」というのは、2^{l-1}-1lで割った「フェルマーの商」は、もう一度lで割り切れる、というのだ。言い換えれば、2^{l-1}-1l^2で割り切れる、ということである。こんなことが簡単に起きるわけがない。これは、「フェルマーの大定理が正しい」という強い傍証となるように思える。何より、フェルマーの大定理フェルマーの小定理と結びつけられるのだから、こんな奇跡のような定理はないではないか。ぼくはこの定理を知って、非常に興奮したのを覚えている。

その後、フロベニウスとマリマノフが「q(3)lで割り切れる」も証明したとのこと。そして、このたぐいの定理が次々と更新され、森嶋もその拡張者の一人なのである。

森嶋太郎「ふぇるまあノ問題」を絶対入手したい、というぼくの想いはどんどん募っていった。一年の浪人の末、東大入学を果たした。総合図書館(本郷)の入館証を手に入れてすぐに、ぼくは意気揚々とこの本を手にしに行ったのだった。

請求番号を書いてわくわくしながら司書さんに渡すと、司書さんは本を一冊持ってきた。それは予想外に小さな本だった。そして、司書さんは「この本は持ち出しができないので、中で読んでください」とぼくに本と席番号の札を渡してくださった。ぼくは、いきなり書架に入ることになって面食らったが、とりあえず、あつらえられた机に座って、小さな本を開けてみたのだった。

本の中身を見て、非常に困惑することなった。それは明らかに日本語ではなく、数学書ですらなかった。何語かも全くわからなかった。少なくともフランス語やドイツ語ではないのはわかった。たぶん、ラテン語だったのだろうと思う。

一行たりとも読めなかった。数式も図版もなく、楽しみようはなかった。司書さんがいぶかりながら、この本を渡してくれた意味が判明した。こんな本、10年に一度も需要がないに違いない。いや、借り出したのはぼくが初めてだったのかもしれない。

ぼくは、30分ほどその本のページをぱらぱらめくってみたりしたものの、「これはどうしようもない」と諦め、司書さんのところに行って本を返した。事情を説明すると、司書さんはぼくの読みたい本と請求番号を見比べて、ぼくが請求の仕方を根本的に間違っていたことを発見してくださった。まあ、初めての利用だからしゃーない。司書さんが、森嶋太郎「ふぇるまあノ問題」を書架から持ってきてくださり、「これなら、持ち出してコピーできますよ」と教えてくれた。ぼくは、念願の、憧れの、悲願の、この本のコピーを手に入れることになったのだ。もう40年以上も前のエピソードである。

 結局、この本は、読まずじまいで今に至っているんだけどね。