酔いどれ日記22

前回から、だいぶ間があいてしまった。今夜は、サンテミリオンのClarendelleという赤ワインを飲んでる。サンテミリオンはもともと好きな産地だけど、このワインもコスパの点で良い。

 先日、アマゾン・プライムで映画「コーダ あいのうた」を観た。これは、聾唖の両親のもとに生まれた健常の子供(Codaと呼ばれる)が背負う苦労を描いた物語だ。コーダを扱ったドラマとしては、NHKのドラマ「しずかちゃんとパパ」のことを酔いどれ日記18で紹介した。たぶん、このドラマは「コーダ あいのうた」を参考に作られたものだと思う。「しずかちゃんとパパ」も良かったんだけど、「コーダ あいのうた」ははるかにそれを凌駕するすばらしさだった。まあ、アカデミー賞を作品賞を含め3部門も受賞したんだから当然ではある。

シナリオの完璧さもさることながら、(聾唖の両親の間に生まれながら)音大を目指す主人公が歌う曲がめちゃめちゃツボなのだ。デビッドボーイもジョニ・ミッチェルもぼくの青春の歌手だもんね(ジョニ・ミッチェルの映像は、前回の酔いどれ日記21でリンクを貼ったから、観てね)。

この映画がツボなのは、ガス・ヴァン・サント監督の「グッド・ウィル・ハンティング」とか「小説家を見つけたら」というアメリカのリベラルな「希望と夢」を描いた作品を彷彿とさせるからなんだな。

まあ、いろいろ御託を並べてきたけど、結局、「コーダ あいのうた」の魅力は、主人公の女子高生のかわいさに尽きる。ほんとにかわいい。

 さて、ここからはおまけね。

ぼくは最近、宇沢弘文先生の「社会的共通資本の理論」を進化させるために、いろいろと勉強をしている。その一環として、サミュエル・ボウルズ『不平等と再分配の新しい経済学』大月書店を読んでる。

これを読み始めたのは、ボウルズが宇沢先生の初期のお弟子さんだったからだ。その上、ぼくの経済学事始めが、ボウルズとギンタスの『アメリカ資本主義と学校教育』岩波書店だったからだ。でも、『不平等と再分配の新しい経済学』を読んで、そういう懐古趣味とは違う衝撃を受けた。それは、この本には社会的共通資本の理論を推し進めるためのアイデアが満載だからだ。

まだ、2章までしか読んでいないんだけど、とりあえず、そこまでのことを(酔いどれながら)紹介しよう。

この本の趣旨を一言で言えば、「平等と効率がトレードオフの関係にある」というのが俗説あるいは神話だ、ということだ。平等化は経済の効率性を妨げる、というのは常識のように言われているけど、そんなのは根拠のないデマだ、ということをあの手この手で論証していく。

例えば、実証的根拠の一つとして、Moriguchi and Saez(2008, REStat)を挙げている。ぼくも、すごく気になったので、この論文を今日読んだところ。これは、日本が戦前はひどい不平等社会でありながら、戦中に(戦争におけるさまざまな理由によって)平等化が促進され、さらに進駐軍の政策やその後の土地所有制度・税制改革の結果として、大きく平等化し、その一方で大きな経済成長を遂げたことを実証した論文だ。平等化と経済成長は両立し得る、それどころか、平等化は経済を成長させるとまでいいたげである。

第2章でボウルズは、自分の主張を「資産制約」の問題で正当化している。資産制約とは、金融市場が完備でないため(取引主体に情報の差があるため)、低資産者に借り入れの制約が課されることを言う。ボウルズは、資産制約が富の産出を減少させる、というモデルを利用して、平等化(低資産者の資産を増加させる施策)が資産制約を減じ、マクロの意味で富を増加させることを主張するのである。

とても驚いたのは、この主張をモデル化するのに、「契約理論」(プリンシパル・エージェント・モデル)を援用していることだ。このモデルは、1人のプリンシパル(雇用者)と1人のエージェント(被雇用者)が「契約事項」を書いて契約をすることで、どんな生産とどんな分配が実現するかを記述するもの。ぼくは大学院のときに講義で教わって、それ以来ほとんど接触していないジャンルだった。大学院のときは、数学的な仕組みとしては面白いものの、経済学的にはあまり興味を持てないものだった。(学会でもときどき報告を聞いたけど、そのモデルの複雑さに理解が追いつかなかったものだった)。そのときは、まさか「平等化の根拠」に使えるなど夢にも思わなかった。ボウルズの論証を読んで、自分が大きな見落としをしていたことに気がつかされた。大事なのは「アンテナ」と「感受性」だなと思い知らされた次第。

ボウルズがどんなプリンシパル・エージェント・モデルを使ったかは、機会があれば、(酔いどれでないときに)、紹介しようと思う。