酔いどれ日記24

今夜は、シャンパンを飲んでる。BENOIT LAHAYEというの。色がきれいで味もふくよかで美味しい。

 朝日新聞10月12日朝刊の原真人さんの多事奏論の中に、ぼくへのインタビューが挿入された。この記事は、バーナンキノーベル経済学賞受賞に疑義を放ち、さらにはアベノミクス批判につなげて行くものだ。ぼくの発言部分だけ引用すると、以下だ。

経済学者で数学エッセイストの小島寛之帝京大教授は「経済学は物理学で言うならまだニュートン以前の段階」という。ニュートン力学の確立は17世紀後半。経済学は3世紀以上も遅れていることになる。

小島氏によると、経済学には致命的な弱点がある。経済活動が「1回しか起きないこと」の積み重ねだということだ。「だから物理学や化学とちがって実験が難しい。経済の法則にはどうしても仮説性がつきまとう。現実を説明できないことも多い」

これはぼくへの1時間以上の取材をまとめたものだけど、拙著『経済学の思考法』講談社現代新書に書いたことを原さんに口頭で説明したものでもある。この本はちょうど10年前に刊行したものだが、この考えは今も変わらない。経済学はぼくの期待していた学問ではなく、疑似科学とまでは言わないが、ニュートン力学以前の未熟な段階だと思っている。原さんの文章には、ぼくの考えのすべてが含まれるわけではないから、少し補強を行いたい。そのために、拙著『経済学の思考法』講談社現代新書のあとがきの一部をさらすことにする。このあとがきに、当時のぼくの想いのすべてが書かれている。

経済学者の著作のほとんどには、「経済学が現実を説明できている」という大前提が見られる。新聞記事などで経済について語る経済学者もみな自信満々だ。はっきり言って、ぼくにはそういう態度は理解できない。そういう人たちが、本当にそう信じてきって言っているのか、職業的立場からわざとそういうスタンスをとっているのかはわからないが、ぼくの感覚とは大きく異なる。序章で説明したように、現実解析の理論としては、経済学は物理学から数百年分遅れた段階にしかないというのが、ぼくの正直な認識なのである。

(中略)。

数学の論理を同じように用いる科学でありながら、経済学と物理学ではどこがどう異なっているだろうか。最も重要な違いは、「法則の正しさ」の検証に関して、物理学は特有の方法論を完成させているが、経済学はそうではない、ということであろう。経済学が「数学モデル」と「データによる検証」を備えたので物理学と同じ水準になった、と信じている人がいるようだが、それは大きな勘違いである。 

物理学のそれぞれの法則は、「数学の論理による演繹」と「データによる検証」だけを支えにしているわけではない。もっと大切なことがあるのだ。それは、さまざまな法則が、相互に関連しあう「網目構造」を形成しており、その「網目構造」が法則の正しさを堅固に支えている、ということである。

物理学には、力学のニュートンの方程式、電磁気学のマックスウェルの方程式、熱力学のクラウジウスの原理、統計力学のボルツマンの原理、量子力学シュレジンガー方程式、相対性理論アインシュタインの原理など、たくさんの方程式や原理がある。大事なのは、それらの法則が、単に個々に孤立した実験によって確かめられているばかりではなく、緊密に連関しあっている、ということなのだ。複数の法則を組み合わせると、特有の物理現象を説明できたり予言できたりする。さらにそれらの現象が、実験で検証される。ニュートン力学電磁気学の重なりの現象、電磁気学量子力学の重なりの現象、量子力学相対性理論の重なりの現象、みたいな具合で、多くの原理が重なりの現象を持ち、それらが複雑な網目模様を構成しているのである。

このような網目構造の利点は何か。それは、一度打ち立てられた法則は、簡単には覆せない、ということだ。例えば、今年2012年に、「ニュートリノは光速を超えている」という実験結果が報告され、相対性理論が間違っている可能性が指摘されて話題となった。しかし、多くの物理学者はこの実験結果を簡単に信じることをしなかった。実験の条件に何か見落としがあるに違いないと考えた。その理由はこういうことだ。「物質の運動は光速を超えることはできない」という相対性理論の結果は、他の分野の法則と絡めることで、あまりにたくさんの事実を説明できる。もしも相対性理論が間違いなら、それらの事実はみな崩れ去ってしまう。別の原理で、それらすべてを整合的に説明できる何かがあるというのは、あまりに奇跡のようなことで、まず考えられないのである。だから、「実験が相対性理論を崩した」とは考えず、「実験自体に間違いがある」と信じたのだ。

他方、経済学のほうは、「数学の論理による演繹」と、多少の「データによる検証」を備えているが、残念ながら、物理学のような網目構造を持っていない。だから、物理学の法則たちが備えている頑強な真理性を持つには至っていないのである。しかし、序章で解説したように、経済学が物理学を模倣することは原理的に無理なのだ。だから、経済学は「物理法則の網目構造」に匹敵する、何か別の固有の原理を見つけなければならないだろう。

 ところで、原さんとこういう議論をしたあと、ぼくは「現代の物理学の前段階」というのが気になってきた。ケプラーニュートン以前の天文学は、「地上から見える星の運行」を円軌道にこだわったまま説明しようとして、理論と合わない部分を、細々した周回円を付け加えて帳尻を合わせようとした。現代の経済学はこういう段階にあるような気がしてならない。

 そんなことを考えていたら、「熱力学の前段階」が気になってきた。最初、熱をつかさどる元素である「熱素」によって説明しようとし、その後、分子の熱運動に切り替えられた。それはどういう経緯をたどったのかが気になって、前から読もうと思っていた山本義隆『熱学思想の史的展開』ちくま学芸文庫を読み始めた。そしたら、これがものすごく面白く、ものすごくためになるのだ。

この本は、熱力学完成までの物理学史を綿密にたどる膨大な本だが、物理思想の書でもあり、17世紀から20世紀にかけてのたくさんの物理学者たちの伝記でもあり、さらにはこの時代の歴史書でもある。山本先生の博学が炸裂している。

この本によれば、熱現象は長い間、「熱素」という特殊な物質によるものと考えられていた。さまざまな現象がこの説でうまく説明されてしまうからだ。熱現象が、機械論的・運動論的なものであるとわかるまで、ものすごい紆余曲折があったのである。3巻組みの本書の2巻の半分ぐらいまでしか読めていないので、そこまでの感想をしたためることにする。

17世紀から18世紀にかけてさまざまな現象が発見され、さまざまな実験が行われ、それらが錯綜しながら「熱素説」が組み上がっていく風景は実に興味深い。中でもとても面白かったのは、かのニュートンがみごとに「間違った理論」を構築したくだりだった。

ニュートンは、熱現象の背後に「粒子間の斥力」があると考えた。それは、「ボイルの法則」と呼ばれる「圧力と体積の積は一定(PV=const)」から来たものだ。簡単なわりに面白いので、山本先生の本の内容をかいつまむことにする。

1辺がlの立方体(体積V=l^3)の中に気体があるとする。これを1辺がl^{'}の立方体(体積V^{'}={l^{'}}^3)に縮める。このとき、粒子間の距離も同じ割合で、すなわち、rからr^{'}へ減少するから、r^{'}/r=l^{'}/lとなる。他方、粒子間斥力をそれぞれ、f(r), f(r^{'})と記す。また、面の受ける圧力をそれぞれP, P{'}とする。立方体のひとつの面に接する粒子数Nは不変だから、壁面のうける力はそれぞれ、Nf(r)=P l^2, Nf(r{'})=P^{'} {l^{'}}^2となる。これより、

\frac{f(r)}{f(r{'})}=\frac{P l^2}{P^{'} {l^{'}}^2}=\frac{PV}{{P^{'}}V^{'}}\frac{l^{'}}{l}=\frac{PV}{{P^{'}}V^{'}}\frac{r^{'}}{r}

から、「PV=constとf(r)\frac{1}{r}に比例することが同値」とわかる。「ボイルの法則」が実験でわかっていることを受けて、ニュートンは、「粒子間の斥力が\frac{1}{r}に比例する」と考えたわけだ。そして、これを逆手にとって、圧力という熱現象を粒子間の斥力から来るものと推測した。このことは、気体の熱膨張などいろいろな現象と整合的でもある。

ところがのちに、空気中の音速を求めることにこの「粒子間の斥力」を応用したニュートンは、計算が実測と合わないことに直面した。けれども、細かい恣意的な修正をほどこすことで、つじつまを合わせてしまったのである。

この例で、何が言いたいかと言うと、「ある計算が現実を説明できたからと言って、その計算の背後にある原理が真理であるとは言えない」ということだ。単なる「偶然の一致」でしかないことも十分にありうる。物理学は丹念にそういう「こじつけ」を排除していったが、経済学はいまだに「恣意的な修正によるこじつけ」を繰り返しているように見える。でもそれはある意味、しょうがないとも言える。それは経済社会のできごとは一回性のものであり、実験がままならないからである。

 山本先生の本は、2巻の真ん中でやっと、「運動」が「熱」に変わることを検証したラムフォードとジュール、そして、熱機関を考察したカルノーとワットにたどり着いた。ここから熱思想がどう転換して行くのか、わくわくしている。

 最後に、途中で出てきた我が本を販促しておく。↓