「知らなきゃならない」から「知りたい」へ

 ちょっと前から自分の勉強法が変わって、昔の(学部時代の)自分への後悔をすることがたびたびある。今回のタイトルがそれ。昔の自分は数学について「知らなきゃならない」ことに責め立てられて、焦燥感の海で溺死した。もしも「知りたい」という欲求の中で勉強していたら、少しはマシな学生時代になったのではないか、そう今は思う。

 忘れもしない学部4年の夏休み。所属ゼミの先生に「大学院を受験するなら、その準備の勉強計画について報告しなさい」と呼び出された。学部での2年間、ほとんど何も勉強していないぼくには「知らなきゃならない」ことがてんこ盛りだったため、正直に課題を網羅して報告した。「まず、『解析概論』の多変数の微積分を勉強します」。先生は黙ったまま、頷いた。「それから、佐武『線形代数』をやります」。先生はうつむいて顔をあげない。「それから、基礎数学で『集合と位相』を復習して」、この辺で先生の体が震え始め、「高木か藤崎で『代数的整数論』を・・・」と言ったとき、先生が怒鳴った。「真面目に言っているのか!そんなにできるわけないだろ」。

そう、今思えばできるわけないのだ。ぼくは「やらなきゃならない」「知らないとまずい」ことを列挙しただけで、実現可能性など念頭になかった。先生の怒りは当然のものだった。そして、その夏、バイトに明け暮れたぼくは、その中のただのひとつも勉強しなかった。

「知らなきゃならない」という焦燥感は、勉強の意欲をそいでしまう。「知らなきゃならない」という時点ですでに、「知ることを放棄している」に等しかったのだと思う。勉強にとって大事なのは、「知りたい」というモチベーションなのだ。「知りたい」は、人に試行錯誤と工夫をもたらす。「知りたい」から読んだ本が「わからない」場合は、「わからない」ことが「何が足りないか」を明らかにしてくれるし、「どういうふうに書いてあればわかるか」も教えてくれる。そしたら、その目的に適した別の本にシフトすることができる。「知りたい」は「わかる」ことへの道しるべの発見につながるのだと思う。

 今回そういう想いに至ったのは、「コホモロジー」の勉強の中でだった。

近々執筆する予定の本には、どうしてもコホモロジーの解説を入れたいと思っている。コホモロジーというのは、さまざまな数学的対象の不変量を与えるもの。準備している本は、現代数学における集合と写像の役割を解説するものなので、先端数学の最強の道具であるコホモロジーをどうしても扱いたいのである。それで、できるだけ簡単で、できるだけ端的にわかるコホモロジーの例を探していた。

コホモロジーというのは、(ベクトル空間や群や環などの)演算を持つ集合 A_1, A_2, \dots準同型写像(つまり、演算を保存する写像) f_1, f_2, \dotsのなす図式、

A_1\rightarrow (f_1) \rightarrow A_2 \rightarrow (f_2) \dots  \rightarrow A_n  \rightarrow (f_n) \rightarrow A_{n+1} \rightarrow (f_{n+1})\rightarrow A_{n+2}  \dots

が、すべての nにおいて、任意のx \in A_nf_{n+1}(f_n(x))=0を満たす(つまり、連続して写像すると単位元になる)ときに、 ker f_{n+1}/Im f_nで定義される商集合のことである。ここで、 ker f_{n+1}とは、 f_{n+1}(x)=0を満たす xの集合( 0の逆像)のこと。 Im f_nは、 f_n(x)たちの集合( A_nf_nによる像)を意味する。f_{n+1}(f_n(x))=0という仮定から、 f_n(x)たちは ker f_{n+1}に属するので、 Im f_n \subseteq ker f_{n+1}だから商集合 ker f_{n+1}/Im f_nを構成できる。

このように定義されるコホモロジーは、さまざまな数学対象に応用されている(ようだ)。しかし、ぼくの本では、できるだけ簡略に勘所だけを紹介したいので、なるだけ準備が少なく解説できる素材を探していたのである。

最初に勉強したのは、代数幾何学における「層のコホモロジー」だった。だけど、これは定義に異様に手間がかかり、しかも応用までに長い道のりが必要になる。ぼくの本ではとても無理だ。次に見つけたのは、数論における応用例で、それは小野孝『数論序説』にあった。(この本については以前に、このエントリーで紹介している)。この本でのコホモロジーは、本の前半に登場し、しかも、巡回群というとても単純な対象({a, a^2, a^3,\dots, a^n=e}の成す群)に対して定義される。このコホモロジー群に関して、6角完全系列というのを証明して、「エルブランの商」という商集合に関する補題を導くところまではかなり簡単で、それはめっちゃ助かる。でも、残念ながら、このコホモロジー群が役立つ定理は最後の最後まで行かないと出てこないんだね。しかも、応用のためには、2次体のイデアルとか分数イデアルとかイデアル類群とかを持ち出す必要がある。こりゃあ、途方もないステップだ。

 で、かなり諦め気味だったところで、唐突にいいネタを見つけた。それが「群のコホモロジー」と呼ばれるものだ。これは秋月・鈴木『代数I』に載っていた。ここできちんと定義を述べると長くなるので、詳しい解説はなしにおおざっぱに述べる。可換群 Gと、結合法則を満たし Gの作用域である集合 \Gammaに関するものだ。すなわち、 g \in G, x \in \Gammaに対して、 gx \in Gで、

 (g_1+g_2)x=g_1x+g_2x, (gx_1)x_2=g(x_1x_2)

を満たす対象。この \Gamma上で定義され、 Gの値をとるn変数の関数の全体を C^nとして、その加法を普通の多項式のように定義する。その上で、 C^nから C^{n+1}への写像(準同型) \deltaを次のように定義する(多項式だと思って理解すれば良い)。

 \delta f(x_1, \dots, x_n)=f(x_2, \dots, x_n)

 +\sum_{i=1}^{n}(-1)^if(x_1,\dots,x_ix_{i+1},x_{i+2},\dots, x_{n+1})

 +(-1)^{n+1}f(x_1, \dots, x_n)x_{n+1}

見るからに奇妙な計算だ。言葉で説明すると、n変数の関数 f(x_1, \dots, x_n)から\deltaという写像 x_1, \dots, x_{n+1}を変数とするn+1変数の関数を構成するのだけど、i番目の変数 x_ii+1番目の変数 x_{i+1}をかけ算してx_ix_{i+1}とくっつけて、x_1,\dots,x_ix_{i+1},x_{i+2},\dots, x_{n+1}n変数としてfに入力したものを交互に引いたり足したりして作るのだ。面白いことに、この操作を2回繰り返してできるn+2変数多項式 \delta (\delta f(x_1, \dots, x_n))は、項の打ち消し合いが起きて必ず0となってしまう仕組みなのである。奇妙だけど巧くできている。この作用(準同型) \deltaに関して、コホモロジー群を定義するのが、「群のコホモロジー」というわけだ。

ところが、「このコホモロジーはいったい何をしようとしているのか」を知りたくなって、その前の部分を読んでみて、参ってしまった。どうも「シュライエルの定理」というのが下敷きになっているらしいのだが、秋月・鈴木『代数I』ではその説明が異様にわかりづらいのだ。「シュライエルの定理」というのは、2つの群 N, \Gammaが与えられたとき、 N正規部分群として含む群 Gで商群 G/N \Gammaと同型となるものをすべて求める(というよりも、構成する、と言ったほうが適切なんだけど)ものだ。そこまではわかるのだけど、定理の証明がめちゃくちゃわかりづらかった。それでこの本はあっさり放棄し、これに関して何かいい本はないかと漁ってみたら、ずっと前から持っていた浅野・永尾『群論に解説があることを発見した。(この本については以前、このエントリーで紹介している)。幸運なことに、この本での「シュライエルの定理」の説明はめっちゃわかりやすかったのだ。それで「シュライエルの定理」がきちんと理解できた。それは「因子団」と呼ばれるもので、因子団が決まれば群 Gを構成できる、というものだった。(この定理自体、とても面白く、みごと)。そうして、再度、秋月・鈴木『代数I』の群のコホモロジーに戻ったら、これが何をしようとしているか、前よりずっとわかるようになっていた。

秋月・鈴木『代数I』読み進めてみると、群のコホモロジー群を使って、とある定理を証明していた。これも詳しく説明すると手間がかかるので、おおざっぱにだけ言うけど、可換群が直和分解でき、その直和因子の一方がm正則という性質を持つ場合、\Gamma不変な直和分解を持つ、というような定理だった。

その証明では、すべてのnに対してコホモロジー群が{0}(すなわち、単位元)になることが利用される。上に書いた定義からわかるように、コホモロジー群が{0}ということは、 ker f_{n+1}=Im f_nが成り立つことである。したがって、 f_{n+1}(x)=0なるxに対しては、f_n(y)=xを満たすyを見つけることができる。この性質を利用して、\Gamma不変な直和分解を構成する次第。

すこし穿ったまなざしで見てみると、 ker f_{n+1}=Im f_nという性質がポイントなら、何もコホモロジー群なんて出さないで、直接 ker f_{n+1}=Im f_nから証明すりゃいいやん、とも思うけど、コホモロジー群の系列を作っておくことが、ものごとの見通しをよくするということなんだろうと思う。

そう思えてみると、以前のこのエントリーで紹介した加藤五郎『コホモロジーのこころ』の文章が思い出される。引用すると、

 X, Y, Zの間に連絡fgがあったとき、Yでのコホモロジーとは、 Ker \,g/Im f

という割り算で定義します。上の約束事で Xからの影響を受けている Yの部分Im fZには全く影響なしだからIm f Ker \,gの一部分、すなわち Im f \subset Ker \,gです。だから、 Yでのコホモロジーというのは、 Zにまったく影響を与えない部分 Ker \,gであって、この Ker \,gの一部である Xから影響を受けている部分Im fを無視してもいい部分にあたり、 Ker \,gIm fで割った残りの集まりがコホモロジーです。

こう言ってもいいでしょう。Yでのコホモロジーとは、Yの中で他人に影響を与えない部分 Ker \,gで、その中の、他人から影響を受ける部分を捨ててしまえということです。もっといってしまうならYの神髄とでもいうか、Yの本質をYでのコホモロジーというのです。たとえば、Yがたった一人でくらしてた場合を考えてみてください。人は見かけによらないといいますが、Yそのものは見かけでYのほんとうの姿はそのコホモロジーということになりましょうか。

この場合にあてはめるなら、コホモロジーが{0}ということは、「神髄」というのが存在しないことを意味していて、 Zにまったく影響を与えない部分は Xから影響を受けている部分ぴったりそのものだ、ということになる。

今回は、「知らなきゃならない」ではなく「知りたい」を動機とした行動だったので、実に効率的にそれなりのスピードで成果にたどり着くことができた。おまけに、浅野・永尾『群論については、あまりにわかりやすくて面白かったので、一週間程度で(込み入ったところを除き)一冊読破してしまったぐらいだ。こういう感覚が学部時代にあれば、ぼくの数学生活は豊かなものになったかもしれないと後悔している。でも、受験勉強には、これは妥当な方法論では全くないかもしれないけれどね。

販促として、似たような勉強(「知りたい」からの勉強)の仕方をして書いたぼくの本にリンクを貼っておくね。下は、数学基礎論(とゲーデル不完全性定理)の勉強の成果を本にしたものだ。それだからきっと、いわゆる専門書よりずっとわかりやすいと思う。