ドラマ総集編のようなすばらしい現代数論の入門書

今回エントリーするのは、山本芳彦『数論入門』岩波書店だ。この本は以前にも、このエントリーで紹介しているが、今回は違う観点から推薦したいと思う。

ゆえあって、最近またこの本を読み始めたのだが、面白くて遂にほぼ全部読んでもうた。そして全体を読破すると、この本がもくろんでいること、この本の特質がひしひしつと伝わってきた。ひとくちに言えば、この本は、「ドラマの優れた総集編を観るようなすばらしい内容」ということなのだ。

ドラマの総集編って、全12話を4話ぐらいでかいつまむ。もちろん、圧縮しているので、カットされたエピソードもあるし、ナレーションで進めちゃう場面もあるし、スルーされるキャラもある。でも、優れた総集編では、本編より本質が浮き彫りになり、面白さが倍増になることも多い。この本は、数論の総集編として、そのメリットがみごとに活かされたものだと思うのだ。

 いろいろメリットがあるのだけど、その中で最も強調したいことは次のことだ。

数論や代数幾何の一般向け専門書を読んでいると、よく出くわすがたいてい説明がスキップされている用語や概念がある。例えば、「類数」、「導手」、「モジュラー」、「虚数乗法」、「j-不変量」、「フロベニウス自己同型」、「主因子」、「微分因子」、「種数」、「リーマン・ロッホの定理」など。これらの用語は、一般の数学ファンが是非知りたいと思う数学、例えば、フェルマー予想とかリーマン予想とかラマヌジャン予想とかの解説に必ず登場する。けれども、用語がアリバイ的に出てくるだけで、その説明は塵ほどもなされないのが常だ。それに対して、本書では、非常に初歩的な方法でこれらの説明がなされるのがすばらしいのである。

 どうしてこういう「総集編」が可能なのか、というと、

1.  証明の難しい定理は、証明をはしょって紹介だけにして、大事な数学概念を説明するための隠し味に使っている。

2. 各章が絶妙な関連性を持って書かれているため、自然な流れの中で大事な数学概念が登場できる。

3.  必ず適切な具体例を紹介することで、その数学概念の実感が掴めるようになっている。

からなのだ。特に、具体例はとても工夫されている。多くの数学書ではトリビアルなものか典型的なものを挙げているのに対し、この本では、その概念の本質を包含しているものや後の章とも関係あるものを、ちゃんとした計算を解説した上で紹介しているのである。定理の証明をスキップされていても、具体例を見ることで当該の定理や数学概念の本領をつかむことができるようになっている。

では、その「絶妙な関連性を持った章構成」について、簡単にまとめてみよう。

第1章:有理整数環

は、まあ、普通の導入だけど、ユークリッドの互除法を行列の積との関連で説明している点は、多少、目新しい。

第2章:合同式

これも普通の解説だけど、さりげなく、フェルマーの小定理の応用として、素数 pについて、 (a+b)^p \equiv a^p+b^p (mod \, p)を証明して、「フロベニウス自己同型」の伏線にしているあたり、にくいところ。

第3章:剰余環

ここでは、合同式の性質を「剰余環」として見直し、それによって素数 pに対する「 p元体」という「有限体」を構成している。他の数論の本よりずっと丁寧に剰余環の概念を説明しているので、一般読者にはとても有益である。しかし、この章の白眉は、一般の有限体「 p^m元体」を構成し、その性質を紹介している点だ。一般の有限体を発見したのはガロアだと何かで読んだけど、「 p^m元体」の構成方法の解説では本書が最もわかりやすい印象を受けた。そして、これは、次章での「平方剰余」へのみごとな伏線となっている。

第4章:平方剰余の相互法則

この章は、平方剰余の説明にあてられる。素数 pを固定したとき、平方剰余とは、 pと互いに素な整数aに対して、2次合同式 x^2 \equiv a (mod \, p)が解を持つ場合のaをいう。このような平方剰余については、「第1補完法則」、「第2補完法則」、「相互法則」の3つの法則が有名である。この章は、この3つの法則の証明にあてられている。

この章がすばらしいのは、これら3つの法則の証明に前章の「有限体( p^m元体)」の方法論が使われていることである。たいていの教科書では、これらの法則は、合同式の初等的な性質を使って、しかし非常にテクニカルな証明を与えている。でも、本書での有限体を使った証明は、概念的には高度であるものの、その証明自体は簡単であり、しかも、平方剰余の観点から p元体の有限次拡大の重要さを身にしみて感じることができる。また、最後に紹介される「ヤコビ記号」は、後の章で展開される「類体論」の伏線になっているのも見逃せない。

第5章:ディリクレ指標

この章では、「法mに関するディリクレ指標」が解説される。これは、「法mに関する乗法群から複素数の乗法群への準同型」、すなわち、「乗法を保存する写像」のことだ。この章の目的は、ひとつには「平方剰余」の応用ということがあるが、もっと大事なのは、有限アーベル群へ拡張することで、「有限アーベル群の指標のなす群が、もとのアーベル群と同型」という双対性を証明することにある。ここには、「ある空間の構造は、その上の関数に宿る」という数学一大思想の一端が垣間見られる。また、この章に「導手」の簡単な解説が含まれる。さらには、この章の最後に、「ヘンゼルの補題(多項式mod \, p^kでの因数分解)」の証明がある。これは、「p進体」の基礎になるものだが、「p進体」には触れずに合同式の水準にとどめているのも本書の優れた工夫と言える。この補題も後の章の伏線になっている。

第6章:2次体の整数論

たぶん、この章が本書のメインディッシュであり、著者が最も力を入れた章だと思える。非常に丁寧に、非常に豊かに解説されている。2次体の理論とは、「(有理数)+(有理数) \sqrt{m}の集合」のような、2次の無理数有理数に添加した体に「整数」を定義して、その素因数分解(素イデアル分解)を分析するものだ。豊かな性質を持っており、いまだに未解決のことも多い。本書では、これを前章の「平方剰余の理論」を用いて上手にさばいている。具体例が多く、類書に比べて、実感として理解できる工夫がなされている。また、この章での数学展開が、このあとのもっと高度な章のお手本となっているように描かれていて、溜飲が下がる。

第7章:代数体の整数論

この章は、第6章の発展として、「1のべき根を有理数に添加した体」での整数論を展開している。これが「類体論」と呼ばれる壮大な理論の出発点である。ここでは、ほとんどのことは証明抜きに結果のみを具体例とともに記述している。これは潔い態度と言っていい(いちいち証明してたら、紙数がとても足りない)。いよいよこの章で、新内と言っていい「リーマン・ゼータ関数」が登場する。また、「フロベニウス自己同型」が平方剰余の類似の記号で定義され、2次体の数論で示された定理の類似の定理が成立することが紹介されている。

第8章:楕円モジュラー関数

この章ではまず、「モジュラー変換」が語られる。モジュラー変換とは、複素平面の上半平面(虚部が正の領域)上のz ad-bc=1を満たす整数a,b,c,dによって、 (az+b)/(cz+d)と変換するものだ。この変換は、2次無理数論や保型形式論などさまざまな数学に現れる。そのあと、「楕円モジュラー関数j(z)」の紹介に進む。ここに、「ラマヌジャン\Delta」や「アイゼンシュタイン関数E_4(z)E_6(z)」などがさっそうと登場する。ここで、ラマヌジャン\Deltaとはこのエントリーで紹介した保型形式で、一方、アイゼンシュタイン関数E_i(z)は、自然数nの約数の(i-1)乗和にe^{2 \pi inz}を掛けて総和したもので作られる保型形式。ラマヌジャン数学の根幹をなすアイテムだ。楕円モジュラー関数j(z)は、j(z)=E_4(z)^3/\Delta(z)で定義される。この関数はモジュラー変換で不変という保型性を備えている。さらには、虚2次無理数の分類と密接な関係を持つ。すべて証明はカットされているけど、それがむしろ功を奏して、面白さだけが伝わってくる。この章の最後は、ヒルベルト類体に関するアルチンの相互法則を紹介して終わる。これは、平方剰余の相互法則を代数体に拡張したものになっている。

第9章:楕円曲線

この章は、現代数学の主役級である「楕円曲線」についての解説だ。楕円曲線とは、Y^2=4X^3-aX-bで定義される複素射影空間上の曲線である。曲線上の点が加法群(アーベル群)をなすというすさまじい性質を持っていて、その群は数理暗号にも利用されるぐらい複雑であり、また多くの未解決問題を提供している魔窟と言っていい。この章では、アーベル群の性質の中で最も証明が困難な「結合法則」については、マティマティカのプログラムを与えることで済ますという画期的な扱いをしており、いちはやく大事な「等分点」の理論に進んでいく。ここも適切な具体例が多く、楕円曲線の性質が身近になる。そして、最後に「虚数乗法」というアマチュア数学愛好家も知りたい概念がわかりやすく(かつ深入りせずに)解説されている。

第10章:超楕円曲線とヤコビ多様体

本書で最も白眉であり、最も卓越していて、大団円であるのはこの章だ。この章は、数論の解説というより、代数幾何の超入門と言ったほうがいい。最初に楕円曲線の拡張にあたる楕円曲線Y^2=X^n+a_1X^{n-1}+\dots+a_nを紹介し、これを材料にして「因子」「主因子」「整因子」「微分因子」などを解説していく。因子とは曲線上の点に係数をつけた形式和だ。とりわけ重要なのは有理関数について、その零点にその位数を掛けたものと、その極(値が無限大になる点)にその位数を掛けたものとを、足し合わせた「主因子」である。これについてはいろいろな代数幾何の本で読んだが、なかなか咀嚼できず、本書でやっと溜飲下がる解説に出会った。とりわけ、種数(図形に空いている穴の個数)の定義を「微分因子」で行っており、いろいろな本で読んだ種数の定義の中で最も手短なもので嬉しかった。(コホモロジー群の次元とかで定義された日にゃあ、溺れ死ぬ)。なにより、具体例が適切で当を得ている。そのあと、あの有名な「リーマン・ロッホの定理」が登場するが、応用の仕方を語るのに終始しているのが良い。最後は「ヤコビ多様体」での代数学が語られる。

代数幾何を勉強したいがどの本でも途中で遭難してしまう(ぼくのような)人は、是非、この第10章から入門すると良いと思う。楕円曲線を知らないなら、第9章から入ればいい。第9章と第10章は他と独立した章として読めるから、この2章だけ読むだけでもすごく有益である。

実は、拙著素数ほどステキな数はない』技術評論社を書いたとき、平方和の数論をガウス整数環を使って説明した章は、本書を大きく参考にした。流れとしては本書よりも初等的で自然な形で記述しているので、ぼくの本を先に読んでから本書に進むほうがベターだと言える(販促として。笑)。