今や、フェルマー予想も、ポアンカレ予想も解決してしまった。そして「フェルマーの最終定理」、「ポアンカレの定理」という座に落ち着いた。(証明者に冠するなら、ワイルズ・テイラーの定理、ペレルマンの定理と呼ばれるべきかもしれないが)。残された著名な予想は、リーマン予想となった。これもぼくが生きている間に解決してしまうのだろうか。そうあって欲しい、とわくわくする。
フェルマー予想は、ぼくが数学の秘境に迷いこむことになった憧れの定理である。中学生のときに、コンスタンス・レイド『ゼロから無限へ』
- 作者: コンスタンス・レイド,芹沢正三
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1971/08/16
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院試に落ち続け、諦めて、塾のバイト生活に入った。数学は諦めよう、という気持ちと、それでも数学のすぐそばにいたい、という気持ちが錯綜した苦渋の選択だった。そんな自分を鼓舞するために、デビュー作となった単行本『数学迷宮』(絶版)を刊行した。この本が当時の雑誌『科学朝日』で取り上げられたことをきっかけに朝日新聞のある編集者と知り合いになった。
そうこうするある日、アンドリュー・ワイルズによるフェルマー予想解決のニュースが新聞で報道された。それまでも何度も「解決した」と報道されては、誤報だったということの繰り返しだったから、そのときも半信半疑でいたのだけど、翌日、朝日のその編集者から電話があって、取材しろ、ということになった。ぼくは舞い上がる嬉しさだった。憧れのフェルマー予想の解決の現場に立ち会うことができるのは、これ以上ない光栄であった。このときほど、生きていてよかった、数学のそばで暮らしてよかった、と思ったことはない。
ぼくは、当時は東工大にいらした加藤和也先生のもとに、ワイルズの証明のエッセンスを取材しに行った。加藤先生は、数学科の時代に講義を受けたことがあったので、ぼくのほうはよく見知っていたのだけれど、加藤先生のほうも『数学迷宮』の評判を聴いていたらしく、すぐにシンパシーを抱いてくれて助かった。加藤先生のレクチャーは2時間にも及んだ。加藤先生の講義風景を知っている人はピンとくると思うが、そりゃ可笑しい笑えるレクチャーだった。「ヘ、ヘッケ環が関係あるわけです。いや、そういうと語弊があるかな、えっと・・・」とか細かいことにこだわっておられるとき、「先生、ヘッケ環とかいっても、一般の読者にはわかりませんので」とぼくがツッコミを入れると、「そ、そうですね、一般のかたにはヘッケ環でも、ドラムカンでも同じですね」などとギャグをいって笑わせてくださった。(あとで、このドラムカンというのが、ド・ラームという数学者を冠したド・ラーム環というものの二段落ちになっていることを知って、感激したのを覚えている)。
その取材記事は、『科学朝日』でいち早く報道された。『数学セミナー』の編集者が、先をこされたと悔しがっているのを知って、嬉しかったものだった。
その後、ワイルズの証明にはいくつかの深刻が飛躍があることがわかって、それらがうまく解決するのか、それとも今までと同じように、暗礁に乗り上げるのか、ぼくらには予想もつかなくなっていた。そんな状況のなか、加藤先生は、何度も、入って来たワイルズの状況をぼくにも伝えてくださった。例えば、「ワイルズの講義が始まったようだが、まだ、フェルマー予想については触れていないようである」といったことだった。ぼくは、その情報をどきどきしながらメモしていった。結局、ワイルズは最初の証明の手筋を一部捨てて、弟子のテイラーとともに別のルートから登頂を試み、みごとに成功することとなったのだ。そのA4版で200枚以上にもおよぶ論文のコピーをぼくは加藤先生からいただくことが出来た。家宝である。
フェルマー予想解決の記事は、いろいろな雑誌に書いたが、最も楽しかったのは、月刊の『プレイボーイ』誌(要するにアメリカのやつの日本版)の巻頭記事を飾ったときだった。ヌードグラビアをめくっていくと、突如、ぼくの書いた「フェルマー予想解決」が出てくる、というあまりに素敵な構成だったのだ。
次に加藤和也先生とお会いしたのは、加藤先生がお茶の水大学の数学科でフェルマー予想解決についての集中講義をしたときのことだった。ぼくは、当時お茶の水大学の教員をしていた知り合いに呼んでもらって、その講義に潜入できた。女子大で講義を聴くのは初めての体験だった。良くは知らないが、たぶん、そんなに簡単に入れるものではないし、というか普通の神経なら入れないと思う。実際、その講義も、傍聴している教員と潜入したぼくを除けば、聴講生はすべて女子だった。加藤先生の講義を聴く、ということにプラスアルファの興奮を得ることができた。
そこでの加藤先生の講義は、すばらしくわかりやすく、また、ファミリアーなものだった。多くの数学者は、女子大で特別講義をするとき、名講義をするものらしい。友人がぼくをお茶大に呼んでくれたのも、ぼくがフェルマー予想についてジャーナリスティックな仕事をしていることを知っていて、きっと加藤先生の講義が名講義になるから役に立つだろう、という配慮からだった。彼は、「ある先生は、同じ題目の講義を、普通の国立大学とお茶大とで連続してすることになってて、まず普通の国立大でしたときは、いきなり何の定義もせずに最新の結果から始めたのに、そのあとお茶大でやったときは、丁寧な講義ノートを事前に作ってきて、すべてをself-containedに定義から始めて、ギャグまで考えてきて名講義をしたんですよ」といって笑わせてくれた。
その講義の昼休みは、その友人と加藤先生と一緒に大学の食堂で食べた。もちろん、女子学生でむせかえっていた。すばらしい体験だった。
講義後、帰途をとぼとぼと帰る加藤先生の少しあとを、ぼくも帰途についていた。講義でお疲れだろう、と気を利かせて、追いつかないように、同じ速度で歩っていたら、曲がり角のところで先生は待っていてくれて、お茶に誘っていただいた。コーヒー店で、1時間ほどおしゃべりをして、別れた。そのとき、加藤先生は、こんな話をしてくださった。先生は、フランス留学中に、ある数学者と相部屋になった。その人があまりの天才で、自分が何ヶ月も考えてきた問題をあっという間に解いてしまったりした。それで、焦燥感に苛まれ、自分は数学にむいていないのではないか、と疑問を持つようになった。そのとき励ましてくれたのが、なんと、そのアンドリュー・ワイルズだった。ワイルズは、「自分もそんなに頭のめぐりはよくないから、時間をかけて執念深く考えることにしている」、そんな趣旨の話をしてくださったのだそうだ。ぼくは、この加藤先生のことばが、その後のとても大きな人生の励みになった。これを座右の銘にしてがんばってきた、といっていい。ミーハー気分で女子大に潜入したもっとも大きな御利益は、このことばだったな、と今でも懐かしく思い出す。