酔いどれ日記18

 今夜のワインは、リースリングの白ワイン。Roche Calcaireというもの。爽やかで、今日の気候にはちょうど合う。

 それにしても、最近の民放のテレビ番組のつまらなさはとんでもない状態で、NHKしか観なくなってもうた。NHKにもいろいろ政治的な意味で問題の大きい部署もないことはないが、総じてすばらしいクオリティの番組を作っていると思う。昨夜にやってた初音ミクの特集とまふまふさんの特集はすばらしかったし、映像の世紀で特集したメルケルの回は感涙ものだった。NHKスペシャル「数学者は宇宙をつなげるか」は、テレビで最先端の数学を紹介する、という野心的な試みで、(成功か否かはさておき)、その志に拍手を送りたいと思う。中でも絶賛したいのは、ドラマ「しずかちゃんとパパ」だ。最初は何の予備知識もなく、単純に、吉岡里帆ちゃん目当てで観始めたんだが、回が進むごとにその見事なシナリオと演出に感動するようになった。聾唖の親を持つ子供たちが背負うさまざまなことをテーマにしてた。非常に丁寧な制作で、ドラマとはこうあるべしというものだった。

 さて、今回は、「ラマヌジャンのL関数」のことを書こう。参考書は小山信也『素数からゼータへ、そしてカオスへ』日本評論社だ。

ラマヌジャンは、「2次のオイラー」というものすごい発見をした。オイラー積とは、その名の通り、オイラーが発見したもので、自然数のs乗の逆数和

\zeta(s)=\frac{1}{1^s}+\frac{1}{2^s}+\frac{1}{3^s}+\dots

が、全素数の式として、

\zeta(s)=\frac{1}{1-\frac{1}{p^s}}素数pすべてにわたる積

と表される、いうものだ。これを真似て、ディリクレがL関数というのを考えた。L関数とは、

\zeta(s)=\frac{a(1)}{1^s}+\frac{a(2)}{2^s}+\frac{a(3)}{3^s}+\dots

というタイプのゼータ関数である。例えば、簡単なL関数として、

L(s)=\frac{1}{1^s}-\frac{1}{3^s}+\frac{1}{5^s}-\frac{1}{7^s}\dots・・・(1)

がある。ちなみにこの式では、プラスとマイナスが交互になってて、4で割った1余る奇数ではプラス、4で割って3余る奇数ではマイナスになっている。ディリクレはこのL関数のオイラー積を考えた(オイラーも知ってたらしいけど)。この式のオイラー積は、

L(s)=\frac{1}{1-\frac{a(p)}{p^s}}の奇素数pすべてにわたる積 ・・・(2)

ここで関数a(p)は、p4n+1素数のときは14n+3素数のときは-1となるもの。どちらのオイラー積も、分母がp^{-s}=1/p^sの1次式になっているから、「1次のオイラー積」と呼ばれている。

 さて、ラマヌジャンはどうやって「2次のオイラー積」を発見したか。それは、

f(q)=q\Pi_{k=1}^{\infty}(1-q^k)^{24}

という式を展開することから出てくる。この式は、愚直に書くと、

f(q)=q(1-q)^{24}(1-q^2)^{24}(1-q^3)^{24}(1-q^4)^{24}\dots

これをq多項式として展開して、q^nの係数を\tau(n)と定義する。すなわち、

f(q)=\tau(1)q+\tau(2)q^2+\tau(3)q^3+\tau(4)q^4+\dots

ということ。\tau(n)を求めるには、f(q)を途中までで打ち切って展開し、それ以降には出てこないq^nに対して、係数を決定して行けば良い。

実際に求めてみると、次のようになる(らしい)。

\tau(1)=1, \quad \tau(2)=-24, \quad \tau(3)=252, \quad \tau(4)=-1472,

\tau(5)=4830, \quad \tau(6)=-6048, \quad \tau(7)=-16744, \quad \tau(8)=84480,

\tau(9)=-113643, \quad \tau(10)=-115920, \dots

ラマヌジャンは、この係数\tau(n)たちを分子に乗せて、L関数を作った。すなわち、

L(s, \tau)=\frac{\tau(1)}{1^s}+\frac{\tau(2)}{2^s}+\frac{\tau(3)}{3^s}+\dots=\frac{1}{1^s}-\frac{24}{2^s}+\frac{252}{3^s}+\dots

という関数だ。そして、このL関数が「2次のオイラー積」を持つことをラマヌジャンは見つけちゃったんだね。以下のようなものだ。

 L(s,\tau)=\frac{1}{1-\frac{\tau(p)}{p^s}+\frac{1}{p^{2s-11}}}素数pすべてにわたる積

この分母は、1-\tau(p)p^{-s}+p^{11}(p^{-s})^2だから、p^{-s}の2次式になっている。すなわち、「2次のオイラー積」というわけだ。

 なんで「2次のオイラー積」が出てくるんじゃろ、と昔から不思議だったけど、この度、小山先生の素数からゼータへ、そしてカオスへ』を読んで、初めてそのからくりを理解できた。

まず、「1次のオイラー積」が出てくるからくりは、関数の性質「乗法的」と「完全乗法的」にある。a(n)が互いに素なm,nに対して、a(mn)=a(m)a(n)を満たす場合が「乗法的」、任意のm,nに対してa(mn)=a(m)a(n)を満たす場合が「完全乗法的」と定義される。上のほうで紹介したL関数では、a(n)は、nが偶数なら0、4で割ると1余る奇数なら1、4で割ると3余る奇数なら-1と定義される。このとき、a(n)は「乗法的」かつ「完全乗法的」となる。だから、(2)は(1)と一致する。なぜなら、無限等比数列の和の公式から、

\frac{1}{1-\frac{a(p)}{p^s}}=1+\frac{a(p)}{p^s}+\frac{a(p)^2}{p^{2s}}+\frac{a(p)^3}{p^{3s}}+\dots

だから、例えば、45^sが分母の分数は、45=3^2 \times5から、a(3)^2/3^2a(5)/5の積で出てくるが、「完全乗法的」から、a(3)^2 \times a(5)=a(3^2 \times 5)=a(45)=1となってうまく行く。これが「1次のオイラー積」をつかさどるからくりなのだ。

 一方、ラマヌジャン\tau(n)は「乗法的」だが、「完全乗法的」ではない。実際、例えば、互いに素な2と3については、上に書いた数値から、\tau(2)\tau(3)=-24 \times 252=-6018=\tau(6)となるが(これはめっちゃ不思議だ)、\tau(3)\tau(3)=252^2=63504\neq-113643=\tau(9)である。

(この辺で、赤ワインに切り替わった)。

では、「完全乗法的」が成り立たない代わりに何が成り立つのか。これを発見したのがラマヌジャンの天才性だと言える。それは、j=1,2,3,\dotsに対して、

\tau(p^{j+1})=\tau(p)\tau(p^j)-p^{11}\tau(p^{j-1})・・・(3)

が成り立つ、というのである。例えば、\tau(2^3)=\tau(8)=84480\tau(2)\tau(2^2)-2^{11}\tau(2^1)=\tau(2)\tau(4)-2^{11}\tau(2)=(-24)\times (-1472)-2048 \times (-24)=84480である。よくこんなことに気づいたと驚嘆する。

\tau(p^{j+1})=\tau(p)\tau(p^j)なら「完全乗法的」になるが、p^{11}\tau(p^{j-1})を引いている分だけ、ズレが生じている。このズレが、「2次のオイラー積」を生み出す源になっているというわけなのだ。おおざっぱに言うと、\tau(p^k)/p^{ks}の総和を作る際、上記の(3)を使って変形をほどこすと、ズレの部分に再び\tau(p^k)/p^{ks}の項が現れ、それを左辺に移項することで2次の部分が生成されることになる。似た現象で言うと、積分計算で部分積分すると右辺に同じ積分が出てきて左辺に移項すれば値が求まっちゃう、みたいな感じ。詳しくは、素数からゼータへ、そしてカオスへ』で勉強して欲しい。繰り返しになるが、「完全乗法性」から少しだけズレることが、高次のオイラー積という魔法を作り出す呪文の役割を果たすわけなのだ。すごすぎるね。

 \tau(n)が「乗法的」であることと(3)を満たすことは、ラマヌジャンが見抜いて「予想」したのだけど、それを証明したのは、モーデルという数学者だ。予想の翌年(1917年)のことだった。その証明の武器は、モーデル作用素というものだ。

 ラマヌジャンf(q)は、「保型形式」という性質の関数に属する。f(q)を一般化したものが「マース波動形式」というものらしい。マース波動形式に対しては、モーデル作用素を発展させたヘッケ作用素というのを使って、「2次のオイラー積」を持つことが証明できるとのこと(これも素数からゼータへ、そしてカオスへ』で確認しよう)。すばらしすぎる。

 関係ないけど、ぼくが初めて「マース波動形式」という名称を目撃したのは、たしか黒川信重さんの本だったと思う。そのときは、「これは、黒川さん一流の冗談だな」と誤解してしまった。だって、「マース波動」なんて、宇宙戦艦ヤマトに出てくる「波動砲」を想起させたから(笑)。いやあ、ほんまものの数学用語と知ったときはまじでのけぞった。

 さて、L関数の「1次のオイラー積」とそれが何に役立つかについての、それなり詳しい説明は、拙著『素数ほどステキな数はない』技術評論社を読んで理解してくれたまえ。(販促、販促)

 

 

 

 

 

酔いどれ日記17

今夜はシャンパンを飲んでいる。DRAPPIERというやつで、そんなに高価ではないが、なかなか美味しい。いい具合に酔っ払っている。

今回は、数学における「完全系列」のことを書いてみたいと思う。

完全系列というのは、 0 \rightarrow A \rightarrow B \rightarrow C \rightarrow 0というふうに、集合A, B, C準同型写像( f_1:0 \rightarrow A, f_2:A \rightarrow B, f_3:B \rightarrow C, f_4:C \rightarrow 0)で繋がれているもので下で述べる条件を満たすものを言う。ここで「準同型」とは、代数的構造が保存される写像のことである。例えば、A, Bが群なら、積が保存される写像(すなわち、 f(x \circ_A y)=f(x) \circ_B f(y))で、A, Bが環なら、和と差と積が保存されるような写像のことだ。これらの準同型 f_1, f_2, f_3,f_4が、すべて、「(f_iの像)=(f_{i+1}の0の逆像)」を満たすものが「完全系列」なのである。正式に書くと例えば、Im (f_2)=Ker( f_3)などとなる。

 f_1,f_2 f_3,f_4に対しては簡単になる。Im(f_1)=f_1({0})=0だから、0=Ker(f_2)となり、これは f_2単射であることを意味する。また、Ker(f_4)=f_4^{-1}(0)=Cだから、 Im(f_3)=Cとなって、 f_3全射であることを意味する。だから、わかりにくい条件は、Im(f_2)=Ker(f_3)ということだ。

 この完全系列は、少し進んだ数学をやると多くの分野に登場する。高校から大学2年ぐらいまでは、多項式微分やベクトルが数学の「言語」だったのに、いきなりこの完全系列があたかも現代数学の「日常語」のように登場することになるので、多くの数学徒はひるまされる。

 ぼくが完全系列を最初に目撃したのは、数学科に進学が決まった2年後期だったと記憶している。演習の授業で、学生それぞれに問題が割り当てられて黒板で解答させられた。そのとき、ある同級生が、すごく簡単な問題を完全系列を使って解答した。別に完全系列なんて使わなくても、普通に定義通りに考えれば解けるような問題だった。でも、演習の教官は、「すごいですねえ」と絶賛した。その光景をぼくは、95%の羨望と5%の反発で眺めていたものだった。その後、親しくしていた数学科の友達たちとは、完全系列をばりばり使う人々を「矢印遣い」というあだ名で呼んだものだった。

 結局、完全系列とは馴染めないまま、数学科を卒業した。

ところが、執筆する本の企画のためにこの歳で完全系列に再会することとなった。企画の参考のために数論の本を読んでも、代数幾何の本を読んでも、完全系列がふんだんに出てくる。しかも、どの本でも、最初のほうに登場する場面では、「そんなもん、定義通りに計算したほうが早いやん」と思うような証明を完全系列でわざわざやっている。またまた、「5%の反発」とも再会することとなった。

 でも最近、いくつかの定理の証明を読んで、「完全系列って、本質的な道具なんだな」と感じられるようになった。例えば、リーマン面に関する「リーマン・ロッホの定理」というのがある。これは、例えば、リーマン面(球とかトーラスとか)に定数でない有理型関数があるかないか、とかがわかっちゃう定理なんだけど、証明の重要な部分に完全系列が使われる。それはおおざっぱには、次の原理を使う。

先ほど例に出した完全系列 0 \rightarrow A \rightarrow B \rightarrow C \rightarrow 0で考えよう。ここで、A, B, Cがベクトル空間としよう。すると、

(Bの次元)=(Aの次元)+(Cの次元) (すなわち、dimB=dim A+dim C)

が成り立つことになる。これをうまく使うとリーマン・ロッホが出てくるんだな。

この定義の証明は、完全系列に慣れるとそこそこ簡単になる。準同型f_3に注目すれば、準同型定理から、BKer (f_3)で割った商集合B/Ker (f_3)が、Im (f_3)と同型になる。上に書いたようにf_3全射だから、Im (f_3)=C。したがって、商集合B/Ker (f_3) Cと同型。一方、完全系列だからIm (f_2)=Ker (f_3)であるから、商集合B/Ker (f_3)B/Im(f_2)と書き換えられる。ここで、 f_2単射であることを思い出せば、Im( f_2)Aと同一視できる。まとめる、B/A Cと同型だということになる。ここで次元を考えれば、dimB-dim A=dim Cとなるから、証明が終わる。

 こういうことだと理解すると、「なんだ、ベクトル空間の話やん。だったら、線形代数のときに、もっと意識的にこれをやっときゃいいやん」という思いに至った。もちろん、線形代数は数学科以外の理系でも必須アイテムだから、完全系列を意識的に投入するのはうまくないだろう。でも、「数学徒向けの専門書では、まず線形代数の解説の中で完全系列を初歩から書いて、その上で先に進みゃいいやん」とは思うのだ。まあ、これに類する目的で、世の専門書では簡単なことをわざと完全系列で証明してみせているんだと思うけど、「新しい素材」+「新しい武器」は、凡庸な人間にはハードルが高すぎる。だったら、「よく知っている線形代数」+「新しい武器」のほうがずっと適切だ。

 などと不平不満を述べてたら、そういう本を見つけてしまった。有木進『加群からはじめる代数学入門』日本評論社がそれだ。

この本は、ベクトル空間からはじめて、多項式環、有理整数環、非可換環加群の世界を進んでいく。秀逸なのは、第1章で、線形代数を完全系列という「日常言語」で再現してくれていること。こういう本こそ、求められている本だと思う。例えば、この本には、さきほどのdimB=dim A+dim Cを、準同型定理を使わずに、ベクトル空間の素朴な表現を使って証明してくれてる。至れり尽くせりだ。

 奇遇なことにも、有木さんはぼくと数学科の同期だった(と思う)。しかも、バイト先も一緒だった。同期がこういう待望の本を書くとは巡り合わせだと思う。ついでながら、有木さんは、最初のほうに書いた「矢印遣い」同級生ではないので、誤解なきようにね。

 まだぼくは完全系列とか準同型についての本は書いていないけど、抽象代数の本は上梓しているので、販促しておこう。以下である↓。(面白い本だじょ)

 

 

 

酔いどれ日記16

 このところ、ずっと小野善康さんの『資本主義の方程式』についてエントリーしてて、まだ、1,2回、論じたいことがあるんだけど、今夜はまた、酔いどれ日記のほうに戻ろうと思う。(書評は、書くのに緊張感が必要なので、疲れるんだよね)。

 今夜は、カオールの赤ワインを飲んでる。甘みがあって、濃厚。色の深いルビー色。ぐびぐびは飲めないけど、値段の割に豊かな味わいだと思う。

 今日は、「集合と位相」について戯れ言を書こうと思う。

ここのところ、「集合と位相」を勉強し直している。その理由は、今書いている本の次に書く本に、必要になるアイテムなので、自分の理解を深めることとどういうアプローチが最も読者にわかりやすいかを探求するためなのだ。

「集合と位相」というのは、集合論位相空間論を解説する分野だ。ぼくは、数学科に進学が決まった2年生の後期に(駒場で)講義を受けた。そのときぼくは、講義を聞きながら何か参考書も併用しようと思った。当時は、岩波基礎数学の彌永昌吉・健一『集合と位相』を持ってたんだけど、(というか、基礎数学は全巻持っていた)、どうも読みこなせる気がしなくて、松坂和夫『集合・位相入門』岩波書店を主に使ったように記憶している(実は曖昧な記憶なんだけど)。この松坂本は非常に名著で、今でもたぶん、初学者が「集合と位相」を勉強するのに最も良い教科書ではないかと思う。

ところが今、両方を読み直してみて、彌永本を非常に面白いと思うようになったのだ。ここで皆さんに強くお伝えしたいことは、「自分にとって最良の教科書」というのは、時期によって、それからモチベによって異なる、ということだ。自分というのは常に同じではなく、時とともに変化する。知識も興味も忍耐力も立場も変化する。だから、それらの変化によって、今の自分にフィットした教科書や専門書というのは当然異なることになるのだね。

今回、久しぶりに彌永本を読んでまず興味をひかれたのは、位相空間の構築の仕方だった。通常は「開集合」の導入から始めるのが定番だと思う。開集合を知らない人は、周を含まない円をイメージすれば良い。それらを合併したり、共通部分をとったりしてできる図形が開集合だ。それに対して、彌永本では「閉包」から導入している。閉包というのは、点集合Sを変形する操作で、おおざっぱにいえば、Sの点列が密集している場所にある点をSに付け加えてできる点集合のことだ。Sの閉包(密集部にある点を付け加えた集合)をcl(S)と記す。ここで、「密集」というのは、普通の平面ならイメージできるけど、一般の空間ではなんだかよくわからない概念なので、むしろ、閉包の持つべき性質を定義することによって特徴づける。それが、以下の4つの性質だ。

(i) cl(\emptyset)=\emptyset 空集合の閉包は空集合

(ii) cl(S \cup T)=cl(S) \cup cl(T) 合併の閉包は閉包の合併

(iii)  S \subset cl(S)  閉包は元の集合を含む。

(iv) cl(cl(S))=cl(S)  閉包の閉包をとると、変化しない。

閉包を「密集している点(近づいていく先)を取り込む」だとイメージすれば、上記の4つは当然そうなるだろうな、と受け入れられるだろう。位相空間論では、逆にこの4つがなりたつとき、cl(S)Sが密集する点を取り込んだ図形だと定義している。その空間に固有の「密集」を定義している、ということ。そして、このcl(S)から、開集合とか閉集合とか近傍とかを順次定義していくことになる。例えば、cl(S)=SとなるS閉集合で、閉集合の補集合が開集合というあんばいである。ちなみに、このように位相空間を構成するのは、クラウスキーという数学者の流儀らしい。

ぼくは、大学生のときは、この構成法にまったく親近感を持てずに、定番の開集合から導入する構成法で理解したのだけど、今回彌永本でこれを読んで、新鮮な気持ちで受け入れることになった。理由はいくつかあるが、(その中には専門の経済学の観点もあるけど、それは面倒なので説明しない)、ひとつは「無限概念が表向きには混入していない」ということ。例えば、開集合から導入する場合には無限概念が出てくる。すなわち、開集合は無限個の開集合を合併しても開集合で、有限個の開集合の共通部分は開集合、と設定される。無限個を許す場合と許さない場合に分かれる。もうひとつの理由のほうが大事なんだけど、それは「関数の連続性の定義がとても自然だ」ということだ。

開集合を主役とした定番の教科書では、「空間Xから空間Yへの関数fが連続」ということが、「空間Yの任意の開集合OfによるXへの引き戻しf^{-1}(O)Xの開集合」と定義されるんだけど、「引き戻し」というのがどうにも違和感がある。なぜなら、「関数が連続」の定義は、雑な言い方だけど、「xaに近づくなら、関数値f(x)f(a)に近づく」というものだから、「引き戻し」で語られてないからだ。

ところが閉包を使って連続関数を定義するなら、「空間Xの任意の部分集合Sについて、Sの閉包の関数値の集合が、Sの関数値の集合のYにおける閉包に含まれる、すなわち、f(cl_X(S)) \subset cl_Y(f(S))」となる。この定義は、さきほど書いた「xaに近づくなら、関数値f(x)f(a)に近づく」とまんま同じだと解釈できるように思える。「周辺の点を周辺に写す」ということだからだ。以前は、全くそんなことを考えもしなかった。でも今は、「何が自然だと思うか」ということに当時と違う感覚があるんだね。

 あと、彌永本で感心したのは、順序集合における「ツォルンの補題」の証明の方法だ。「ツォルンの補題」というのは、「順序集合の任意の空でない全順序部分集合が上限を有するとき、極大元が存在する」という定理。数学全般で利用される汎用性のある定理だ。普通はたぶん、「整列集合」(任意の空でない部分集合が最小元を持つ集合)と「超限帰納法」(数学的帰納法の拡張版)と「選択公理」(無限個の集合の族から1個ずつ元を取り出していい)を利用するんだと思うけど、それだと証明がめっちゃ長くなる。それに対して、彌永本では、「選択公理」だけからかなり短い証明を与えている。これは、これはHalmos(ハルモス?)という数学者の証明らしい。この証明は、単に極大元の存在がわかるだけじゃなく、それがとある全順序集合の最大限であることまでわかる。非常に抽象的な証明だけど、短いし、鋭い証明だと思う。

 彌永本は、形式的な自然数論とか実数論から開始されていて、大学生のころのぼくにはその意義がわからなかったけど、今はとても頭にしみる。とりわけ、実数の集合の構成をコーシー列の集合をとある極大イデアルでの商集合で実行して「体」に仕立てるあたり、感動すら覚える。人は変わるものなのだ。

 駒場の2年後期の数学科(進学内定者向け)の講義は、たしか、「代数」「複素関数」「集合と位相」だった。「代数」では、たぶん、単因子論かなんかやっていて、複素関数論はコーシーの積分定理をやっていたと思う。どちらもあんまり興味を持てなかった。でも、「集合と位相」だけは面白く受講してた記憶がある。特に、教員がなかなかユニークな人で、「ツォルンの補題」と「チコノフの定理」(コンパクト空間の集合の直積空間はコンパクト)については、「教えちゃうのはもったいないから、レポート課題にします」と仰って、宿題に課された。なのでぼくは、普段の講義はそんなに理解してなかったけど、この二つの定理は自分なりに必死に理解して、教科書を写すのではなく、自分なりに再構成してレポートを出した記憶がある。期末試験も、他の二つに比べればよく解答できた。(なんと、「代数」は追試になってもうた)。

 一応、販促すると、「集合と位相」については、拙著『数学入門』ちくま新書にかなりわかりやすく、かなり文学的に、かなり直感が得られるように解説しているので、手に取ってみてほしい。

 もう一度言うけど、年齢とともに人は変わる。興味もモチベも変わる。だから、今は頭が受け付けなくても捨て去ってはいけない。頭の片隅においておくと、いつか「その日」がやってくるかもしれないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

ケインズ消費関数のどこが間違いか?

今回も、前回に引き続いて、小野善康『資本主義の方程式 経済停滞と格差拡大の謎を解く』中公新書の紹介をする。ただし、説明の重複によって長くなるのを避けるため、前回のエントリーは前提として書くので、読者は前回のエントリーと行きつ戻りつしながら読んで欲しい。

 

今回は、本書の中で、ぼくが最も感動した部分について紹介したい。それは、「ケインズ消費関数のどこが間違っているか」という説明だ。

ケインズ消費関数」というのは、旧ケインズ経済学に導入された仮定の一つである。ちなみに小野さんは、本書で一環して、「ケインズ経済学」という用語を用いている。これは、いわゆるニュー・ケインジアン経済学を「新ケインズ経済学」としたいからかな、と思う。ご自分の経済学を「新ケインズ経済学」と呼ぶつもりである可能性もないではないが、とりあえず、前者だとぼくは解釈しておく。

ケインズ経済学では、消費関数からIS曲線と呼ばれる曲線を描き、貨幣需要関数からLM曲線を描き、その交点を均衡とする。すなわち、交点によって総生産と利子率が決まるのである。どちらにも、生産側の都合が入っていないのが特徴だ。

小野さんの本では、ケインズの消費関数を旧消費関数と呼び、c=c(y-t+s)と表記している。ここで、右辺は関数記号c(x)であることに注意。つまり、数学でよく使うf(x)の一種として、c(x)を投入しているということ。左辺のcは(実質)消費量、右辺のy, t, sは、順に、(実質)総需要、(実質)総税額、(実質)総給付額を表す(「実質」の意味は、前回のエントリー参照)。したがって、y-t+sは、いわゆる可処分所得(家計が同時点で自分が使える所得)を意味することになる。だから、式c=c(y-t+s)が意味するのは、「各時点における人々の消費は、同時点で自分が使える所得に応じて(関数c(x)に従って)決まる」という仮定だ。

マクロ経済学の教科書で、旧ケインズIS-LMモデルを扱うときは、関数c(x)をよく1次関数に設定する。すなわち、c=\beta+\alpha(y-t+s)とする。このとき、総需要yは、消費需要と投資需要と政府需要を合わせたものc+i+gだから、それを代入し、c=\beta+\alpha(c+i+g-t+s)が得られる。これを、消費cの1次方程式として解けば、消費cが、投資需要iと政府需要gと税金tと給付金sの式で表されることになる。したがって、総需要c+i+gも投資需要iと政府需要gと税金tと給付金sの式で表される。できた方程式は、投資需要iが利子率の関数だと見なすことで、総生産(=総需要)と利子率の関係式となる。これがIS曲線を描く。

ちなみに以上の導出は、総生産yc+i+gと一致することから、cのところに関数c(y-t+s)を代入し、c(y-t+s)+i+gとしておいて、これを総生産yを変数とする関数と見なして、その値が再びyと一致する場合を解くのと同じことである。関数c(y-t+s)+i+gのいわゆる「不動点」を求めているわけである。グラフの言葉で表現するなら、「45度線と関数のグラフの交点を求めること」なので、「45度線分析」とか「ケインジアン・クロス」と呼ばれる。

小野さんの本のすばらしさは、この旧ケインズ経済学と同じ方法で、小野さんの基本方程式から新しい消費関数「新消費関数」を導いてみせていることだ。以下、ざっと解説する。

前回のエントリーで説明したように、小野さんの基本方程式は、

 \gamma(m,c)+\delta(a,c)=\rho+\pi

 where \pi=\alpha(\frac{y-y^f}{y^f})

である。ここで、左辺のcmaはそれぞれ実質消費量、実質貨幣量、実質資産量で、 \gamma(m,c)は貨幣保有から得られる便益、\delta(a,c)は資産保有から得られる便益を意味する。右辺の\piは「インフレ率」(物価の変化率)で、\rhoは「時間選好率」。また、y^fは供給能力。(詳しくは前回参照のこと)。

特に、モノも資産も豊富になった「成熟経済」での方程式は、上記の左辺が変わって、

\bar{\delta}(c)=\rho+\pi

となる。ここで、左辺の\bar{\delta}(c)とは、資産量aが十分大きくなって、基本方程式の貨幣保有から得られる便益 \gamma(m,c)が0に収斂し、資産保有から得られる便益\delta(a,c)が、同じcに対して不変(aに影響されず一定)な、cだけの関数\bar{\delta}(c)に収斂してしまったことを表している。

ここで、基本方程式から、インフレ率 \pi\alpha(\frac{y-y^f}{y^f})と表されることから、インフレ率は総需要yと生産能力y^f(の開き)によって決まる、ということが仮定されている。上の「成熟経済」の方程式\bar{\delta}(c)=\rho+\picについて解けば、消費関数c=c(y; y^f)を導出することができる。これも総需要(=総生産)yの関数となっているので、旧消費関数と同じく、関数c(y; y^f)+i+g不動点が総生産yを決めることになる(ここで投資iは、消費が低迷しているため、減価償却の分のみのほぼゼロと考えてよい)。言い換えると、「45度線分析」(ケインジアン・クロス)によって総生産が決まる。小野さんは、この消費関数c=c(y; y^f)を「新消費関数」と呼んでいる。

 小野さんは旧消費関数と新消費関数について、その決定的な違いを説得している。それは「旧消費関数では、人々はその時々で手にする可処分所得だけを見て消費を決めると仮定しているが、新消費関数では、人々は物価変化を見ながら、消費と貯蓄の便益を比較して消費を決めることを示している」ということ。さらに小野さんは、この違いをもっと明確に、こう述べている。「ケインズ経済学では、所得が総需要を決める、と考えているが、基本方程式では、総需要が所得を決める、となる」。この点の説明を本から引用してみよう。

総需要が物価変化率を決め、それが人々の消費を決めるとすれば、消費と投資と政府需要の合計は、もとの総需要と一致しているはずである。(中略)。総需要がこのように決まってしまえば、生産能力が余っていても実際に売ることができる量は総需要の水準までなので、所得もその水準になってしまう。つまり、資産選好を持つ人々の行動を考えると、「総需要が所得を決める」ことがわかる。ところが、旧ケインズ経済学では、その時々で所得が入るから消費をすると仮定しており、「所得が総需要を決める」と考えている。このように、旧ケインズ経済学では、総需要と所得の因果関係を反対に捉えているのである。(p80)。

(上に注意したように、投資iがゼロに近い一定値であることを踏まえよ)。

この違いは、経済政策の効果について、全く対照的な結論を導くことになる。ここも直接に引用しよう。

可処分所得が消費を決めると考える旧ケインズ経済学が正しければ、定額給付金地域振興券などのばらまき政策は、税金を取らずに赤字財政によって行われる限り、可処分所得を増やして消費を増やすはずである。ところが、消費が人々の資産選好と物価変化率で決まるなら、ばらまき政策で家計の可処分所得を増やしても、新規需要を作らないからデフレ・ギャップは埋まらない。そのため、消費は刺激されず、総需要もGDPも増えない。(p81)

これを数学的に見るには、旧消費関数c=c(y-t+s)に変数s(=給付金)が入っているが、新消費関数c=c(y; y^f)には入っていないことからすぐわかる。また、日本の「失われた30年」の間の経済政策の無効性の経験(同書にいくつかのデータが掲載されているので参照こと)からも、旧消費関数が間違っていることが推測される。

 この議論がぼくにとって非常に重要だったのは、積年の疑問が晴れたことだった。大学院で経済学を勉強しているとき、計量経済学も教わった。計量経済学の教科書に必ず「消費を可処分所得で回帰した回帰直線」が例としてあげられており、それがあたかも旧消費関数の証拠のように登場していた(不思議なことに「証拠」だとは書いてないのだけど)。確かに、非常に当てはまりがよく、例えば蓑谷『計量経済学東洋経済では、決定係数が0.9873と非常に大きい数値になっている。ぼくは、これらを見たとき、「旧消費関数は正しい、だからきっと、旧ケインズ理論は正しいんだ。でも、感触的には何かおかしいぞ」と思ったものだった。今回、小野さんの本を読んで、「因果関係が逆だ」ということがわかった。「消費(総需要)が所得を決める」場合でも、同じく高い当てはまりが出るはずだからだ(単に、説明変数と被説明変数が逆になるだけだから)。これを理解してはじめて、「実証にはモデルの善し悪しが大事だ」というよく耳にする批判の意味を実感として身にしみた次第である。世の中には散布図だけを示して、何かの因果を吹聴している人々をよく見かけるが、そういうのはダメじゃん、という決定打を得たと思う。

 最後に、「増税が景気を冷やす」という俗説に関する小野さんの反論を引用しておこう。以下である。

消費税を引きあげると景気を悪化させるという主張は多い。本当にそうか。

消費税増税はその率だけ消費者物価を引き上げるため、景気に及ぼす効果は、物価上昇がもたらす実質金融資産の減少効果である。したがって、消費意欲の大きな成長経済においては、貨幣mや資産aが減って人々の流動性プレミアム \gammaや資産プレミアム \deltaが上昇し、貯蓄意欲が高まるから、消費を減らしてしまう。ところが成熟経済では、資産プレミアム\bar{\delta}は実質金融資産に反応しないため、消費は変化しない。このように、消費税増税が消費を引き下げるという主張が正しいのは成長経済だけであり、成熟経済では成り立たない。(p84-p85)

このことに関して、本書では、「消費税が高い国は景気が悪いか?」という点に関する解答の実証データとして、散布図をあげている(p86)ので、是非、それも参照してほしい。

 ぼくは勤務校で、長い間、マクロ経済学を教えている。最初は、旧ケインズ経済学のIS-LM分析を教えていた。しかし、教えるたびに、自分がでたらめな論理を組み立てているような「気分の悪さ」に襲われ、結局、この手法をやめてしまった。今は、ソローモデルを簡易化した動学モデルを講義している。小野さんの本で、その「気持ち悪さ」の所在がはっきりした。ケインズは、(新古典派に比べれば)、いい線まで行っていた。勘は良かったんだ。やはり、天才だったのである。でも、その後の経済学者が(ケインジアンが)、ちゃんとケインズの論理の欠陥を正そうとせず、そのまま請け売りを教えてきたから、ずっと「気持ち悪い」でたらめの、そして、現実とも食い違いがある理論が継承され続けてしまったんだと思う。

 ここで声を大して言いたいのは、「もう、大学で、IS-LM分析を教えるのは、いいかげんやめたらどうか」ということだ。そのためには、公務員試験とか経済学検定とかでIS-LM理論を出題するのもやめるべきだ(実際、出題しているかは知らないんだけど)。そうしないと、学生の受験のために、間違った理論を仕方なく教え続けなければならない。特定の経済理論を、公的試験とか検定試験とかに入れるのは、経済学というものの社会における地位を保つ(悪口を言えば、利権を保つ)ためには有効な手段なのは理解できるが、それは結局、サイエンスから道徳へと落ちぶれることを意味しており、自壊の道なのではないかと思うのだ。

 

 

資本主義の方程式

 今回は、前回に予告した通り小野善康『資本主義の方程式 経済停滞と格差拡大の謎を解く』中公新書の紹介をしよう。一回ではまとめきれないので、何回かに分けて紹介するつもりだ。

この本は、タイトルの通り、たった一つの基本方程式で、資本主義の二つの状態「成長経済」「成熟経済」における経済メカニズムのあり方の違いをはっきり区別するものである。端的にまとめれば、「成長経済」と「成熟経済」は、正反対の様相を持ち、したがって、経済政策の効果は真逆になる、ということである。日本の政治家(および指南役の経済学者やエコノミスト)はずっと、「成長経済」での景気後退に効く政策から頭が離れず、それを「成熟経済」に対して実施してきたので、日本経済は迷走を続けている、というのが小野さんのメインの主張だ。

 小野さんはこれまで、不況動学の本を何冊も書いてきた。それらの専門書・解説書に比べて本書の新しい点はどこか、を最初に箇条書きでまとめておく。

(A)  動学モデルの基本方程式を、最新型に刷新し、しかも今までよりずっとわかりやすい形式で、提示している。

(B)  「貨幣選好」だけでなく、新しく「資産選好」を加えたため、ゼロ金利、資産バブルを説明できるようになっている。

(C) 既存のマクロ経済理論の簡潔にして明瞭なサーベイが提示されている。

(D)ケインズ経済学(IS-LM分析)の「消費関数」のどこが間違いかをはっきりさせ、「新消費関数」を提示している。ついでにMMTのダメな点も指摘している。

(E)  あらゆる景気刺激策に対して、その効果の善し悪しを理論的に評価している。

(F) 不況下での格差拡大のメカニズムを理論的に解明している。

(G) 国際経済への応用も示し、マンデル・フレミングの間違いを正し、新理論を提示している。

(H) 基本方程式から、資本主義社会のあるべき姿を提唱している。

( I )  随所に適切な実証データが投入されている。

 今回は、以上のうち、(A)と(B)について紹介しようと思う。

まず、小野さんが提出している「資本主義の基本方程式」とは、以下である。

 \gamma(m,c)+\delta(a,c)=\rho+\pi

 where \pi=\alpha(\frac{y-y^f}{y^f})

記号の説明をすると、左辺のcmaはそれぞれ実質消費量、実質貨幣量、実質資産量。(文字は、consumption、money、assetに由来)。ここで「実質」とは、物価で割った値であることを意味する言葉。例えば、消費に使う金額をC、物価をPとすれば、実質消費量cは、C/Pとなる。右辺の\piは「インフレ率」(物価の変化率)で、\rhoは「時間選好率」。「時間選好率」とは、「今の消費を我慢することによる不満分をちょうど補うだけの将来の消費増分」のこと。経済学では、「今1万円もらって消費をするのと、1年後に1万円もらって消費をするのとでは、今の方を好む」とされていて、「今1万円もらって消費をするのと、1年後に1.2万円もらって消費をするのとなら、どっちでも良い」となる場合の増加分0.2を時間選好率と呼んでいる。

その上で、 \delta(a,c)とは、「資産プレミアム」と呼ばれる量で、「資産を一定期間1円を多く保有することで生まれる付加的な満足度と同等の満足度を、モノの消費を今増やすことによって得るには、どのくらいの額が必要か」という量を表す。大事なことは、「消費の金額」の単位で表されている、ということ。(本書では省略されているが、もっと経済学的な説明を、ミクロ経済学の知識がある人に向けて最後の補足で説明する)。

さらに、 \gamma(m,c)は、「流動性プレミアム」と呼ばれる量で、「貨幣を1円多く持つことによる取引の便利さからの満足度と同じ水準の満足度を消費によって得るには、消費をいくら増やせばよいか」を表す。貨幣は、「いつでもその額面の何とでも交換できる」という利便性を備えた財であり、「その利便性の満足を消費から得るなら」という量が「流動性プレミアム」なのである。

whereのあとで説明しているのは、インフレ率\piがどう決まっているか。もちろん、方程式の中の\piを置き換えてもいいが、わかりやすさのために分離しておいた。この式において、y^fは供給能力。すなわち、全資本と全労働者をフル稼働するとどのくらいの生産物ができるかを表す。一方、yは総需要で、人々がどのくらいの量の生産物を欲しているかを表す。したがって、whereのあとの式は、「インフレ率が総需要量と供給能力との乖離(超過需要率)に比例する」という仮定を表している。比例定数\alphaは、物価調整の効率性を表す。

基本方程式 \gamma(m,c)+\delta(a,c)=\rho+\piが成り立つのは、左辺が貯蓄1円増(資産1円増)の総便益を表し、右辺が貯蓄のコストを表すからである。右辺の\rhoは消費を将来に回すときのご褒美分を意味し、\piがインフレによる消費の値上がり分を表すから、貯蓄の総便益はこの和をぴったり補わなければならない。それがこの方程式の意味である。

 ここで、本書は、資産保有と貨幣保有の関係について次のように説明する。すなわち、収益資産1円増の総便益は、利子Rと資産プレミアムの和 \delta(a,c)+Rとなる。他方、貨幣1円増の総便益は \delta(a,c)+\gamma(m,c)となる(貨幣保有は資産保有もかねていることに注意せよ)。この二つの総便益は等しくならなければならない。なぜなら、資産保有の総便益が上回るなら、保有している貨幣を1円資産に回せば総便益の和が増加するからだ。逆の場合もしかり。よって、 \delta(a,c)+R=\delta(a,c)+\gamma(m,c)が成り立ち、したがって、 R=\gamma(m,c)となる。言葉で言えば、「流動性プレミアムは利子率と等しい」ということだ。

 基本方程式 \gamma(m,c)+\delta(a,c)=\rho+\piを土台にして、小野さんは「成長経済」と「成熟経済」を分類する。

まず、成長経済とは、生産能力y^fがまだ低く、そのため人々の消費水準も低く、消費増大意欲の強い経済のことだ。金融資産も少ない。この経済において、仮に人々が貯蓄を優先して消費を抑え、モノの総需要yが生産能力に届かない乖離が起きたらどうなるか。総需要yが供給能力y^fより小さくなるので、人手が余り、物価の下落(whereの式でインフレ率\piが負、つまりデフレ)が起きる。すると、実質資産量aも実質貨幣量mも増大する(物価で割った量だから)。これは基本方程式の左辺が小さくなることを意味するので、右辺「貯蓄のコスト」(=消費の便益)が相対的に大きくなり、人々は消費を増やすように行動する。これでyが増加していき、すぐに生産能力y^fを実現する。こうなると、インフレ率は0となり(whereの式)、経済は動かなくなり、完全雇用に復帰する。他の調整については本書で読んで欲しいが、要するに、物価の変化によって、実質資産量と実質貨幣量が柔軟に変化し、消費と貯蓄が自動調整される、ということなのだ。だから放っておいても経済は安定する。

他方、生産能力y^fも消費cも十分に大きくなった「成熟経済」では、これと異なる様相が生じる。それは、小野さんの仮定「資産プレミアム \delta(a,c)は、同じ消費cに対して資産aの増加によって小さくなっていくが、資産aも消費cも十分大きい場合、同じ消費cに対して資産aの増加による資産プレミアム \delta(a,c)の低下は止まり、一定量\bar{\delta}(c)以下には下がらなくなる」に依存する。専門用語では「限界効用の非飽和性」、ひらたく言えば、「底なし沼のような金持ち願望」ということだ。これが理論のキモとなる。つまり、資産プレミアムが資産量増加に無反応になる、ということだ。こうなると、上の「成長経済」のところで述べた自動調整機能が働かなくなる。総需要が生産能力を下回り、デフレが起き、資産量と貨幣量の増大が起きても、資産プレミアムが資産量に無反応になるので、消費は刺激されず、貯蓄にいそしむだけになる。したがって、需要不足はいつまでたっても解消されず、長期不況が到来する。

今の説明において、流動性プレミアム \gamma(m,c)のほうはどうなっているのか?ここが、最初に述べた(B) の点である。要するに「ゼロ金利」のメカニズムなのである。すなわち、(実質)貨幣量mが増加するに従って、流動性プレミアム \gamma(m,c)は減少する。貨幣量が限度を超えて増加すれば、流動性プレミアムはゼロに収斂する。すると上のほうで説明した等式 R=\gamma(m,c)から、利子率Rもゼロとなる。これがゼロ金利である。したがって、デフレによる貨幣量の増大も基本方程式の左辺に変化を与えないのである。まとめると、資産量も消費量も十分に大きくなった成熟経済の基本方程式は、\bar{\delta}(c)=\rho+\piとなる。

 リーマンショックが起きたあと、リフレ政策がとりざたされ、同時に小野さんの不況動学も話題になった。そのとき、小野さんの当時の本では貨幣保有の便益だけを扱っていたため、「利子率=貨幣保有の便益」という等式となっており、「貨幣保有の便益の非飽和性」から不況を説明していた。これに対して、「利子率=貨幣保有の便益>0」となって「ゼロ金利じゃないじゃん、現実に合わないじゃん」という批判がなされた。小野さんは当時から資産プレミアムと流動性プレミアムと両方考えていたが、簡便性の目的で本には後者だけを要として説明していたために浴びてしまった批判だった(とぼくは思っている)。そこで今回、小野さんは、ゼロ金利を説明すべく、資産プレミアムと流動性プレミアムを区別して導入したのであろう。

長くなってしまったので、(D)、(F)、(G)については次回以降に紹介することにする。

(ミクロ経済学の心得のある人向けの補足)

資産プレミアム「資産を一定期間1円を多く保有することで生まれる付加的な満足度と同等の満足度を、モノの消費を今増やすことによって得るには、どのくらいの額が必要か」とは、要するに、v^{\prime}(a)/u^{\prime}(c)、のこと。ここで、u(x)は消費の効用関数で、v(x)は資産保有の効用関数。以前の小野さんの本ではこう提示されていた。なぜ、これが上の説明になるのか。

まず、関数f(x)xが微少量だけ増えてx+\epsilonになったときの関数値の増分が、近似的にf^{\prime}(x)\times \epsilonであることを思い出そう(テイラー展開)。これを念頭に置き、caが実質値であることに注意すれば、消費をv^{\prime}(a)/u^{\prime}(c)円分だけ増加させたときの効用の増加は、u^{\prime}(c)\times (v^{\prime}(a)/u^{\prime}(c))/P=v^{\prime}(a)\times(1/P)。これはまさに「1円資産を増やしたときの付加的な満足度」になっている。

 

 

 

 

酔いどれ日記15

今夜はSaumurの白ワインを飲んでる。不思議な香りがあって好み。

このところ、ずとまよ(ZTMY;ずっと真夜中でいいのに)の新譜「伸び仕草懲りて暇乞い」におまけでついているBDを繰り返し観まくっている。これは、ブルーノート東京で行われた無観客のライブ映像。ジャズクラブなので、アン・プラグドという体裁だ。

このライブ演奏はあまりにすごい。本当にあまりにすごいのだ。

アン・プラグドだし、ジャズっぽいアレンジなので、ACAねさんの超絶的な歌のうまさが際立つ。アレンジ自体もめちゃめちゃかっこいい。若い女の子(と言ったら失礼だろうが)にどうしてこんなことが可能なのかとのけぞってしまった。

ぼくは、ブルーノート東京には一度だけ行ったことがある。マイク・スターンというギタリストのライブを観に行ったときだ。スターンというのは、超テクのジャズ・ギタリスト。マイルス・ディヴィスの復帰アルバム「ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン」で有名になった。ライブの後半は、日本の超テク・ギタリスト渡辺香津美さんがジョイントして、あまりのかっこよさに胸が熱くなった。

ぼくは、大学の同級生のアパートで、初めて、マイルスのアルバムを聴き、それが「ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン」だった。そのとき、スターンの演奏にぶっとんだのを今でも鮮烈に覚えている。友人は「これはジャズじゃない」「マイルスはロックに魂を売った」みたいに言われている、と話してたけど、ぼくには「ジャズかどうか」なんてことはどうでも良かった。スターンのアドリブ演奏は、ロックぽいリフでありながら、コルトレーンばりのモード奏法でもあり、こんなギンギンのギターをマイルスが自分の演奏に導入した、というのが驚きかつ衝撃だった。

 さて今日は、小野善康さんの新著『資本主義の方程式 経済停滞と格差拡大の謎を解く中公新書について、ちょっとだけ書こうと思う。多くの人必読の経済学書だと思うので、本格的な紹介は後日、「酔いどれ日記」ではなく、ちゃんとしたエントリーをするつもりだ。

この本は、たった一つの方程式を使って、不況やバブルや格差や円高不況について一刀両断にするものだ。「一刀両断」本というのは、たいてい、勢いだけの目も当てられないデタラメ本にすぎないものだ。でもこの本は、きちんとした整合的な経済モデルにのっとっているので、そういうまがいものとはぜんぜん違う、ということを(経済学者のはしくれとして)太鼓判を押しておく。

ぼくは、宇沢弘文先生のレクチャーを受けて経済学に目覚めた(その辺の事情は、このエントリーで読んでくださいな)。それで経済学部の大学院で勉強したい、と思うようになり、30代後半にそれを実現した。大学院での目標としていたのは、次の二つだった。

(A)  貨幣理論としてのケインズ経済学をきちんと理解したい

(B) 宇沢先生の社会的共通資本の理論を発展させたい

宇沢先生のレクチャーを受けて、この二つにとても引きつけられたからだ。ぼくが教わった頃の宇沢先生は、「新古典派」と呼ばれる経済理論(経済学会の現在の主流派)には、完全に批判的な立場をとっていた。憎悪と言っても過言でないほどの否定のしようだった。他方で、ケインズ経済学にはアンビバレントな気持ちを持っておられるようだった。不完全ではあるが、ポテンシャルを秘めていて、超克すべき理論と見ておられるようだった。

実際、テキストとされた宇沢弘文近代経済学の転換』岩波書店では、第3章「ケインズ経済学の生成」、第4章「『一般理論』と不均衡動学」と、2章をさいていた。第3章では、ケインズの生涯からケインズ理論の構築過程まで非常に詳しい解説がなされ、特に『貨幣改革論』『貨幣論』に関するサーベイがなされている。また、第4章では、動学理論(時間の流れを伴う運動理論)としてのケインズ経済学に焦点をあて、それを「不均衡動学」に発展させる構想を述べている。

とにかく、ぼくは、散りばめられている「貨幣」「不確実性」「時間」「論理」「推論」「不可知性」「合成の誤謬」「不均衡」と言った魔術的な言葉たちに魅了されてしまったのだ。それで、大学院で本格的に経済理論を勉強したいと願うようになったのである。

ところが、大学院では、上記の(A)も(B)も全く解決しなかった。解決しないどころか、失望させられることになった。大学院の先生方は、(A)にも(B)にもぜんぜん関心を持っておられず、研究したことも知識として仕入れたこともない風情だった。まあ、新古典派とは軌道がクロスさえしないので、仕方ないといえば仕方ない。失望したのは、ぼくの興味が「あさっての方向」だからであって、正しいのは先生方が教えてくれる経済学の方なのだろう、と諦めとともに自分を説得し、とりあえず、目をつぶって新古典派の修行をすることにしたのだった。

でも今回、『資本主義の方程式』を読んで、ぼくの興味は的を射ていたのだ、という確信に到達した。大学院ではそれこそ「あさっての理論」を教わっていたのだと思う。小野さんの本で、ぼくが70年代から21世紀の今まで見てきた日本の経済の風景のほとんどが説明できると思う。そのことは、次回以降に詳しく書こうと思う。

この本でぼくには、上記の(A)はほぼ解決してしまったと思う。宇沢先生に教わって苦節30年の年月が流れたけど、目標は達成されたのだ。だから、これからの残る人生は(B)に賭けようと思う。これにはまだまだやるべきことがふんだんにある。

こういうと多くの同業者を敵に回すと思うが、(A)でも(B)でもない経済モデルは単なる「数学の遊戯」なんだと思う。現実とはなんら関係ない「数学の遊戯」だ。もちろん、「だから意味はない」とは言わない。物理学や生物学にだって「数学の遊戯」分野はたくさんあると思う。「数学の遊戯」も楽しいものだし、遠い将来にはきっと(数理暗号のように)社会の役にたつ日もくることもあろう。だから、いわゆる主流の経済学をぼくは、「数学の遊戯」としてはいそしんで行こうとは思う。でも、それはライフワークではない。残るぼくのライフワークは(B)なのだ。

 

 

 

双子素数はどの程度の割合で存在するか?

今回は、ひさびさに、数学ネタをエントリーしよう。それは「双子素数」に関することだ。

双子素数とは、差が2の素数のペアのこと。一番最初は、3と5だ。次は5と7。その次は11と13になる。双子素数について最も有名な予想は「双子素数予想」と呼ばれるもので、「双子素数は無限組存在する」という予想である。これは多くの数学者が成り立つだろうと信じているけど、いまだに証明されていない。(この予想については、最近、急激な進展があったのだが、そのことはあとで触れる)。

素数が無限個ある」という事実は、古くから知られていて、ギリシャ時代の『ユークリッド原論』に証明が書いてあるぐらいだ。いまでは中学生でも証明できる。(証明を知らない人は、拙著『素数ほどステキな数はない技術評論社で知りましょう!)。ちなみに『ユークリッド原論』に書いてある証明はピタゴラスによるものだろうと考えられているそうだ。それに対して、「双子素数予想」のほうはとてつもなく難しい。素数がペアになるだけで、とんでもない難問になってしまうのだね。

双子素数x以下に何組ぐらい存在するか、についての評価式を手に入れた最初の数学者はブルンという人だ。彼は「ブルンの篩(ふるい)」と呼ばれる方法を用いて評価式を得た。ブルンの証明を知りたくて何冊もの専門書(解析的数論という分野)を手にしたけど、どの本を読んでもわかり難くくて、いつも挫折を余儀なくされてきた。ところが、最近入手したKevin Broughan『Bounded Gaps Between Primes』という本で、初めてわかりやすい解説に出会うことができた。なので今回は、この本に書いてある証明をおおまかに要約しようと思う。

ぼくはこの本をKindleで買ったんだけど、Kindleでは一部の数式が(なぜだか知らないが)とても小さいポイントになってしまっていて、異様に読みづらいことを付記しておく。

 この本は、「双子素数予想」に関して、古典的な結果から最近の進展までについて解説している。「GPYの定理」や、ザン・イータン(Zhan Yitang)による画期的ブレークスルー、そして最新のメイナードの定理まで網羅されていてすごい。ザン・イータンは「差が7000万以下の素数の組は無限に存在する」を示した。そして、メイナードが「差が246以下」まで改良したのだ。「差が2」まで改良できれば「双子素数予想」に到達できる。

ちなみに、この本によれば、「双子素数予想」がユークリッド時代から知られていたというのは俗説で、根拠がないそうだ。この予想への最初の言及は、1849年のポリニャックによるものとのことである。

 そして、この本の第2章は「The Sieves of Brun and Selberg」(ブルンの篩とセルバーグの篩)となっている。「篩(ふるい)」とは、要するに、ある種の性質の数を含むできるだけ少数の数集合を作り出し、その要素数を評価することだ。例えば、「10以上x以下の素数を全部含む集合」として、「10以上x以下の自然数から2の倍数、3の倍数、5の倍数、7の倍数を取り除いた集合」A_xを作る。これは(143=11×13など)素数でない数ももちろん含むが、10以上x以下の素数すべてを含んでいて、10以上x以下の自然数全体よりはだいぶ小さい集合である。集合A_xの要素数を正確にカウントする、あるいは評価することができれば、10以上x以下の素数の個数をおおざっぱに見積もることができる。ちなみにこの「篩A_x」は「エラトステネスの篩」と呼ばれるものだ。(エラトステネスはギリシャ時代の数学者)

Kevin Broughan『Bounded Gaps Between Primes』には、ブルンとセルバーグの履歴が書いてある。セルバーグは有名な数学者だが、ブルンについての書籍での記述は初めて見た。

ブルンは1885年生まれで1978年没のノルウェー人。ゲッチンゲン大学ヒルベルト、クライン、ランダウに師事したとのことだ。ノルウェートロンハイムの大学に勤務後、オスロ大学に移った。セルバーグは、1917年生まれ2007年没で、やはりノルウェーの数学者。プリンストン高等研究所に勤務。生粋の天才であり、すでに高校生のときに論文をパブリッシュしたらしい。ブルンの父親は彼が幼少のときに他界しているが、かたや、セルバーグの父親は数学者で、彼は父親の本から大きな影響を受けたといい、二人の生い立ちは対照的と言っていい。

 ブルンが双子素数について得た結果は次の二つ。

(定理A) x以下の素数pで、p+2素数になるような素数pの個数を\pi_2(x)と置くとき、x \rightarrow \inftyにおいて、\pi_2(x)<<\frac{x(loglog\,x)^2}{(log\,x)^2}

(定理B)  素数pで、p+2素数になるような素数p、の逆数和は収束する。

定理Aは「おお、やっぱりそうか」と思えるものである。有名な「素数定理」によって、「x以下の素数の個数\pi(x)\frac{x}{log\,x}に漸近する」ということが証明されている。これは x \times \frac{1}{log\,x}だから、「十分大きいx付近の数が素数である確率は、 \frac{1}{log\,x}だ」と解釈できる。であるから、「x素数x+2素数である確率は \frac{1}{log\,x} \times \frac{1}{log\,x}=\frac{1}{(log\,x)^2}だ」というおおざっぱな見積もりが浮かび上がる。ブルンの評価では、双子素数の「存在割合」は、その「確率」に(loglog\,x)^2を乗じたものより小さいとしているから、「なるほどね」と頷ける。ちなみに、「素数定理」の証明は前掲の『素数ほどステキな数はない』に概要を書いてあるので、是非ご覧になってほしい。

定理Bがその筋では有名な結果だ。オイラーが「素数の逆数をすべて加え合わせると無限大に発散する」という画期的な定理を証明した。これはもちろん、「素数が無限個あること」の新証明になっているが、素数の分布についてのもっと詳しい情報「素数はそんなに飛び飛びではない」を含んだ画期的な結果である。(前掲の拙著には、この定理のオイラーによる証明とエルデシュによる証明を収録しているので参照されたし←しつこくてすまんがこのブログは販促用なのでご容赦)。ブルンの定理Bは、オイラーの方法では「双子素数予想」が解決できないことを示している。別の言い方をすると、「双子素数は無限組あるとしても、かなり飛び飛びである」ということを教えてくれるのだ。

定理Aから定理Bを証明するのは、わりあい簡単で、『Bounded Gaps Between Primes』では次のように解説している。すなわち、定理Aから、次の評価式が得られる。

\pi_2(x)<<\frac{x}{(log\,x)^{1+\varepsilon}}   (ここで0<\varepsilon<1)。

p_nn組目の双子素数の最初の数(すなわち、x素数x+2素数であるようなxn番目のもの)とすると、\pi_2(p_n)=nとなる。したがって、

 n=\pi_2(p_n)\leq \frac{p_n}{(log\,p_n)^{1+\varepsilon}}

が出てくる。明らかにn \leq p_nだから、

 n\leq \frac{p_n}{(log\,n)^{1+\varepsilon}}

が得られる。これから、

\frac{1}{p_n}\leq\frac{1}{n(log\,n)^{1+\varepsilon}}

という評価が示され、右辺の総和は有限に収束することが(積分によって)わかる。

定理Aの証明は長いので、要点をかいつまむだけにする。大事な道具は2つ。1つ目は、「ブルンの純正篩」と呼ばれるもので、次の補題だ。

補題1(ブルンの純正篩) XN個の要素から成る有限集合とし、A_1,\dots,A_rXの部分集合とする。Xの要素でA_1,\dots,A_rのいずれにも属さないものの個数をN_0と置く。このとき、任意の偶数mに関して、次が成立する。

N+\sum_{j=1}^{m+1}(-1)^j\sum_{|S|=j}|\cap_{i\in S}A_i|\leq N_0 \leq N+\sum_{j=1}^{m}(-1)^j\sum_{|S|=j}|\cap_{i\in S}A_i|

この補題は要するに、A_1,\dots,A_rの合併集合に入っていない要素数をカウントするもの。A_1,\dots,A_rのうちのいくつかの部分集合の共通部分を足したり引いたりする、いわゆる「包除原理」の計算になっている。受験でよく出る「100までに3の倍数でも5の倍数でもない整数はいくつある?」のような問題の解法に現れる計算だ。双子素数でないある種の整数たちを取り除いて、双子素数を含む小さい集合を作りだし、その個数N_0をこの式で評価するのである。

二つ目の補題は以下。

補題2  x>1とする。また、p_1,\dots,p_kを異なる奇素数とする。このとき、|\theta|<1が存在して、 ( xが積p_1\dots p_kで割り切れるなら\theta=0で)、

x以下のnn(n+2)が積p_1\dots p_kで割り切れるようなnの個数」=\frac{2^kx}{p_1\dots p_k}+2^k\theta

この定理の証明には、有名な「中国剰余定理」が利用される。「中国剰余定理」とは、例えば、「3で割ると余りがa、5で割ると余りがbなる数」が「15で割った余りで分類できる」というのを一般化したものである。

さて、この2つの補題は次のように利用される。今、y以下の素数を小さい順にp_1,\dots,p_rとする。また、双子素数のペアの小さい方pyより大きくx以下であるもの(yp\leq xかつp+2素数)の個数を\pi_2(y,x)と定義する。さらに、n \leq xなるnで、積n(n+2)p_1,\dots,p_rのいずれの素数の倍数ともならないnの個数をN_0(y , x)と定義する。さきほどの双子素数のかたわれpは、p+2素数だから、積p(p+2)p_1,\dots,p_rのいずれの素数の倍数ともならず、今のnの定義を満たしている。したがって、\pi_2(y,x) \leq N_0(y , x)が成り立つ。よって、N_0(y , x)を篩として利用すれば良いのだ。そこで、求めたい集合の裏側にあたる集合A_iを「積n(n+2)素数p_iの倍数となるnの集合」と定義して、(補題1)(補題2)を用いれば、N_0(y , x)を不等式で評価することができるのである。詳しくは『Bounded Gaps Between Primes』で勉強してほしい。

これで、中学生時代からの悲願であった「双子素数のブルンの篩による評価」を完全に理解することができた。次は「セルバーグの篩」にチャレンジし、数年以内に、メイナードの結果に到達することを目標としたい。

以上のもろもろの参考として、拙著『素数ほどステキな数はない』を強く推奨する(笑い)。