「知らなきゃならない」から「知りたい」へ

 ちょっと前から自分の勉強法が変わって、昔の(学部時代の)自分への後悔をすることがたびたびある。今回のタイトルがそれ。昔の自分は数学について「知らなきゃならない」ことに責め立てられて、焦燥感の海で溺死した。もしも「知りたい」という欲求の中で勉強していたら、少しはマシな学生時代になったのではないか、そう今は思う。

 忘れもしない学部4年の夏休み。所属ゼミの先生に「大学院を受験するなら、その準備の勉強計画について報告しなさい」と呼び出された。学部での2年間、ほとんど何も勉強していないぼくには「知らなきゃならない」ことがてんこ盛りだったため、正直に課題を網羅して報告した。「まず、『解析概論』の多変数の微積分を勉強します」。先生は黙ったまま、頷いた。「それから、佐武『線形代数』をやります」。先生はうつむいて顔をあげない。「それから、基礎数学で『集合と位相』を復習して」、この辺で先生の体が震え始め、「高木か藤崎で『代数的整数論』を・・・」と言ったとき、先生が怒鳴った。「真面目に言っているのか!そんなにできるわけないだろ」。

そう、今思えばできるわけないのだ。ぼくは「やらなきゃならない」「知らないとまずい」ことを列挙しただけで、実現可能性など念頭になかった。先生の怒りは当然のものだった。そして、その夏、バイトに明け暮れたぼくは、その中のただのひとつも勉強しなかった。

「知らなきゃならない」という焦燥感は、勉強の意欲をそいでしまう。「知らなきゃならない」という時点ですでに、「知ることを放棄している」に等しかったのだと思う。勉強にとって大事なのは、「知りたい」というモチベーションなのだ。「知りたい」は、人に試行錯誤と工夫をもたらす。「知りたい」から読んだ本が「わからない」場合は、「わからない」ことが「何が足りないか」を明らかにしてくれるし、「どういうふうに書いてあればわかるか」も教えてくれる。そしたら、その目的に適した別の本にシフトすることができる。「知りたい」は「わかる」ことへの道しるべの発見につながるのだと思う。

 今回そういう想いに至ったのは、「コホモロジー」の勉強の中でだった。

近々執筆する予定の本には、どうしてもコホモロジーの解説を入れたいと思っている。コホモロジーというのは、さまざまな数学的対象の不変量を与えるもの。準備している本は、現代数学における集合と写像の役割を解説するものなので、先端数学の最強の道具であるコホモロジーをどうしても扱いたいのである。それで、できるだけ簡単で、できるだけ端的にわかるコホモロジーの例を探していた。

コホモロジーというのは、(ベクトル空間や群や環などの)演算を持つ集合 A_1, A_2, \dots準同型写像(つまり、演算を保存する写像) f_1, f_2, \dotsのなす図式、

A_1\rightarrow (f_1) \rightarrow A_2 \rightarrow (f_2) \dots  \rightarrow A_n  \rightarrow (f_n) \rightarrow A_{n+1} \rightarrow (f_{n+1})\rightarrow A_{n+2}  \dots

が、すべての nにおいて、任意のx \in A_nf_{n+1}(f_n(x))=0を満たす(つまり、連続して写像すると単位元になる)ときに、 ker f_{n+1}/Im f_nで定義される商集合のことである。ここで、 ker f_{n+1}とは、 f_{n+1}(x)=0を満たす xの集合( 0の逆像)のこと。 Im f_nは、 f_n(x)たちの集合( A_nf_nによる像)を意味する。f_{n+1}(f_n(x))=0という仮定から、 f_n(x)たちは ker f_{n+1}に属するので、 Im f_n \subseteq ker f_{n+1}だから商集合 ker f_{n+1}/Im f_nを構成できる。

このように定義されるコホモロジーは、さまざまな数学対象に応用されている(ようだ)。しかし、ぼくの本では、できるだけ簡略に勘所だけを紹介したいので、なるだけ準備が少なく解説できる素材を探していたのである。

最初に勉強したのは、代数幾何学における「層のコホモロジー」だった。だけど、これは定義に異様に手間がかかり、しかも応用までに長い道のりが必要になる。ぼくの本ではとても無理だ。次に見つけたのは、数論における応用例で、それは小野孝『数論序説』にあった。(この本については以前に、このエントリーで紹介している)。この本でのコホモロジーは、本の前半に登場し、しかも、巡回群というとても単純な対象({a, a^2, a^3,\dots, a^n=e}の成す群)に対して定義される。このコホモロジー群に関して、6角完全系列というのを証明して、「エルブランの商」という商集合に関する補題を導くところまではかなり簡単で、それはめっちゃ助かる。でも、残念ながら、このコホモロジー群が役立つ定理は最後の最後まで行かないと出てこないんだね。しかも、応用のためには、2次体のイデアルとか分数イデアルとかイデアル類群とかを持ち出す必要がある。こりゃあ、途方もないステップだ。

 で、かなり諦め気味だったところで、唐突にいいネタを見つけた。それが「群のコホモロジー」と呼ばれるものだ。これは秋月・鈴木『代数I』に載っていた。ここできちんと定義を述べると長くなるので、詳しい解説はなしにおおざっぱに述べる。可換群 Gと、結合法則を満たし Gの作用域である集合 \Gammaに関するものだ。すなわち、 g \in G, x \in \Gammaに対して、 gx \in Gで、

 (g_1+g_2)x=g_1x+g_2x, (gx_1)x_2=g(x_1x_2)

を満たす対象。この \Gamma上で定義され、 Gの値をとるn変数の関数の全体を C^nとして、その加法を普通の多項式のように定義する。その上で、 C^nから C^{n+1}への写像(準同型) \deltaを次のように定義する(多項式だと思って理解すれば良い)。

 \delta f(x_1, \dots, x_n)=f(x_2, \dots, x_n)

 +\sum_{i=1}^{n}(-1)^if(x_1,\dots,x_ix_{i+1},x_{i+2},\dots, x_{n+1})

 +(-1)^{n+1}f(x_1, \dots, x_n)x_{n+1}

見るからに奇妙な計算だ。言葉で説明すると、n変数の関数 f(x_1, \dots, x_n)から\deltaという写像 x_1, \dots, x_{n+1}を変数とするn+1変数の関数を構成するのだけど、i番目の変数 x_ii+1番目の変数 x_{i+1}をかけ算してx_ix_{i+1}とくっつけて、x_1,\dots,x_ix_{i+1},x_{i+2},\dots, x_{n+1}n変数としてfに入力したものを交互に引いたり足したりして作るのだ。面白いことに、この操作を2回繰り返してできるn+2変数多項式 \delta (\delta f(x_1, \dots, x_n))は、項の打ち消し合いが起きて必ず0となってしまう仕組みなのである。奇妙だけど巧くできている。この作用(準同型) \deltaに関して、コホモロジー群を定義するのが、「群のコホモロジー」というわけだ。

ところが、「このコホモロジーはいったい何をしようとしているのか」を知りたくなって、その前の部分を読んでみて、参ってしまった。どうも「シュライエルの定理」というのが下敷きになっているらしいのだが、秋月・鈴木『代数I』ではその説明が異様にわかりづらいのだ。「シュライエルの定理」というのは、2つの群 N, \Gammaが与えられたとき、 N正規部分群として含む群 Gで商群 G/N \Gammaと同型となるものをすべて求める(というよりも、構成する、と言ったほうが適切なんだけど)ものだ。そこまではわかるのだけど、定理の証明がめちゃくちゃわかりづらかった。それでこの本はあっさり放棄し、これに関して何かいい本はないかと漁ってみたら、ずっと前から持っていた浅野・永尾『群論に解説があることを発見した。(この本については以前、このエントリーで紹介している)。幸運なことに、この本での「シュライエルの定理」の説明はめっちゃわかりやすかったのだ。それで「シュライエルの定理」がきちんと理解できた。それは「因子団」と呼ばれるもので、因子団が決まれば群 Gを構成できる、というものだった。(この定理自体、とても面白く、みごと)。そうして、再度、秋月・鈴木『代数I』の群のコホモロジーに戻ったら、これが何をしようとしているか、前よりずっとわかるようになっていた。

秋月・鈴木『代数I』読み進めてみると、群のコホモロジー群を使って、とある定理を証明していた。これも詳しく説明すると手間がかかるので、おおざっぱにだけ言うけど、可換群が直和分解でき、その直和因子の一方がm正則という性質を持つ場合、\Gamma不変な直和分解を持つ、というような定理だった。

その証明では、すべてのnに対してコホモロジー群が{0}(すなわち、単位元)になることが利用される。上に書いた定義からわかるように、コホモロジー群が{0}ということは、 ker f_{n+1}=Im f_nが成り立つことである。したがって、 f_{n+1}(x)=0なるxに対しては、f_n(y)=xを満たすyを見つけることができる。この性質を利用して、\Gamma不変な直和分解を構成する次第。

すこし穿ったまなざしで見てみると、 ker f_{n+1}=Im f_nという性質がポイントなら、何もコホモロジー群なんて出さないで、直接 ker f_{n+1}=Im f_nから証明すりゃいいやん、とも思うけど、コホモロジー群の系列を作っておくことが、ものごとの見通しをよくするということなんだろうと思う。

そう思えてみると、以前のこのエントリーで紹介した加藤五郎『コホモロジーのこころ』の文章が思い出される。引用すると、

 X, Y, Zの間に連絡fgがあったとき、Yでのコホモロジーとは、 Ker \,g/Im f

という割り算で定義します。上の約束事で Xからの影響を受けている Yの部分Im fZには全く影響なしだからIm f Ker \,gの一部分、すなわち Im f \subset Ker \,gです。だから、 Yでのコホモロジーというのは、 Zにまったく影響を与えない部分 Ker \,gであって、この Ker \,gの一部である Xから影響を受けている部分Im fを無視してもいい部分にあたり、 Ker \,gIm fで割った残りの集まりがコホモロジーです。

こう言ってもいいでしょう。Yでのコホモロジーとは、Yの中で他人に影響を与えない部分 Ker \,gで、その中の、他人から影響を受ける部分を捨ててしまえということです。もっといってしまうならYの神髄とでもいうか、Yの本質をYでのコホモロジーというのです。たとえば、Yがたった一人でくらしてた場合を考えてみてください。人は見かけによらないといいますが、Yそのものは見かけでYのほんとうの姿はそのコホモロジーということになりましょうか。

この場合にあてはめるなら、コホモロジーが{0}ということは、「神髄」というのが存在しないことを意味していて、 Zにまったく影響を与えない部分は Xから影響を受けている部分ぴったりそのものだ、ということになる。

今回は、「知らなきゃならない」ではなく「知りたい」を動機とした行動だったので、実に効率的にそれなりのスピードで成果にたどり着くことができた。おまけに、浅野・永尾『群論については、あまりにわかりやすくて面白かったので、一週間程度で(込み入ったところを除き)一冊読破してしまったぐらいだ。こういう感覚が学部時代にあれば、ぼくの数学生活は豊かなものになったかもしれないと後悔している。でも、受験勉強には、これは妥当な方法論では全くないかもしれないけれどね。

販促として、似たような勉強(「知りたい」からの勉強)の仕方をして書いたぼくの本にリンクを貼っておくね。下は、数学基礎論(とゲーデル不完全性定理)の勉強の成果を本にしたものだ。それだからきっと、いわゆる専門書よりずっとわかりやすいと思う。

 

 

 

 

 

 

受験数学から最先端数学へ

今回は、黒川信重オイラー積原理』現代数学社の一部を紹介しよう。この本は、雑誌「現代数学」の一年間の連載をまとめたものだ。

オイラー積とは、オイラーゼータ関数を全素数を使った積形式で表したことが発祥となったものだ。ゼータ関数とは、自然数s乗の逆数を全自然数にわたって足し合わせもの、すなわち、

\zeta(s)=\frac{1}{1^s}+\frac{1}{2^s}+\frac{1}{3^s}+\dots

のこと。これを全素数を使って、次のように表現することができる。

\zeta(s)=\frac{1}{1-\frac{1}{2^s}}\frac{1}{1-\frac{1}{3^s}}\frac{1}{1-\frac{1}{5^s}}\dots

この積の形式が「オイラー」と呼ばれる。ゼータ関数のこの表現を利用することによって、「十分大きいxについては、x以下の素数の個数は、\frac{x}{log x}で近似できる」という「素数定理」が証明されたりする。\zeta(s)がなぜこのオイラー積で表されるか、とか、なぜこれで「素数定理」が証明されるのか、とかは、拙著『素数ほどステキな数はない』技術評論社で理解してほしい。

黒川さんによると、自然数s乗の逆数を全自然数にわたって足し合わせることがポイントではなく、オイラー積のほうが本質なのだそうだ。その証拠に、オイラー積は「素数の類似」があれば、これ以外にもいろいろ作ることができる。本書は、そんなオイラー積の魅力のすべてを集大成した本なのである。

正直言って、この本の多くの部分は専門家でないぼくには、読みこなすのが困難だ。でも、ところどころに、読んで理解できるところがあり、しかも非常に興奮する話題があるので、今回はそんな中から紹介しようと思う。

ピックアップする話題は、「チェビシェフ多項式」というものだ。チェビシェフ多項式(詳しくは第1種チェビシェフ多項式)とは、cos(n\theta)cos\thetan多項式で表したときのその多項式のことだ。すなわち、cos(n\theta)=T_n(cos\theta)となるn多項式T_n(x)のこと。

いくつか具体的に書いてみる。

cos(2\theta)=2cos^2(\theta)-1だから、T_2(x)=2x^2-1

cos(3\theta)=4cos^3(\theta)-3cos(\theta)だから、T_3(x)=4x^3-3x

という具合。

実は、このチェビシェフ多項式には、次のような性質が知られている。

「最高次係数が1のn多項式(モニック多項式)f(x)で、-1\leq x \leq 1での|f(x)|の最大値が最小となるのは、\frac{1}{2^{n-1}}T_n(x)である」

実は、これは\frac{1}{4}T_3(x)=x^3-\frac{3}{4}xの場合には、大学受験でときどき出題される有名問題なのだ。ぼくも30年ほど前、予備校の講師をしていた頃、この手の問題を解いて、教えた経験がある。ちなみに、3次の場合は愚直にやっても証明できる(という記憶がある)が、一般次数の場合はちょっとしたトリッキーな工夫が必要になる。その非常に鮮やかな証明は、黒川さんのこの本で読んでほしい。

さて、ここからが面白いのだ。

このチェビシェフ多項式がなんと!オイラー積と深い関係を持っているのである。しかも、ラマヌジャンゼータ関数との関係なのだ。

ラマヌジャンは、\Deltaという保型形式を考えた。具体的には、

\Delta=q(1-q)^{24}(1-q^2)^{24}(1-q^3)^{24}\dots

これをqの(無限次)多項式として展開したものを、

\Delta=\tau(1)q+\tau(2)q^2+\tau(3)q^3+\tau(4)q^4+\dots

と記して、関数\tau(n)を定義する。この\tau(n)から作ったディリクレゼータ関数

\frac{\tau(1)}{1^s}+\frac{\tau(2)}{2^s}+\frac{\tau(3)}{3^s}+\dots

が次のように、全素数の積であるオイラー積で表すことができる。しかも、2次のオイラー積でなのである!

\frac{1}{1-\tau(2)2^{-s}+2^{11-2s}}\frac{1}{1-\tau(3)3^{-s}+3^{11-2s}}\frac{1}{1-\tau(5)5^{-s}+5^{11-2s}}\dots

ここで、変数ss+\frac{1}{2}に置きかえることにより、正規化されたオイラー積が得られる。それは、

\frac{a(1)}{1^s}+\frac{a(2)}{2^s}+\frac{a(3)}{3^s}+\dots

=\frac{1}{1-a(2)2^{-s}+2^{-2s}}\frac{1}{1-a(3)3^{-s}+3^{-2s}}\frac{1}{1-a(5)5^{-s}+5^{-2s}}\dots

となる。ちなみにa(n)=\tau(n)n^{-\frac{11}{2}}である。

同じように、整数係数のn次モニック多項式f(x)に対して、次のようなオイラー積を定義する。

Z^f(s)=\frac{1}{1-f(a(2))2^{-s}+2^{-2s}}\frac{1}{1-f(a(3))3^{-s}+3^{-2s}}\frac{1}{1-f(a(5))5^{-s}+5^{-2s}}\dots

これが、な、なんと、チェビシェフ多項式と結びつき、次のような驚愕の定理が得られる、というのだ。

(定理) 次は同値である。

(1) Z^f(s)複素数全体における有理型関数に解析接続できる。

(2) すべての素数pに対して、次が成り立つ。

1-f(a(p))p^{-s}+p^{-2s}=0ならば、sの実部は0

(要するに、リーマン予想を満たす)

(3)  f(x)=2T_n(\frac{x}{2})

あまりの意外性にのけぞるような定理ではありませんか。(解析接続やリーマン予想については、拙著『素数ほどステキな数はない』でわかりやすく解説してあるので、ご利用くださいませ)。ラマヌジャンオイラー積をモニック多項式で変形したものは、それがリーマン予想を満たすためには、チェビシェフ多項式でなければならないというのだ。

チェビシェフ多項式の特徴付けというのは、前半で紹介したように、「変動幅が小さい」ということだけど、それがリーマン予想の成立にまわりまわって関わってくる、ということなんだろうか。それは、門外漢のぼくにはわからない。それはともかく、しかし、受験数学の常連である関数(多項式)が、超最先端の数論まで跳躍するのは、本当に興味深いことである。受験数学もばかにしてはいけない。

ラマヌジャンの他の業績についても、前掲の拙著で読んでおくんなまし。

 

 

 

 

 

 

 

 

酔いどれ日記25

今夜はブルゴーニュピノノワールを飲んでる。おつまみは柿ピー。

今回は、群論のことを書こう。

最近、群論が楽しくて仕方ない。今読んでいるのは、遠い昔に買っておいた浅野・永尾『群論』岩波全書だ。

この本は、30年以上前に買ったまま、ただただ長い間、本棚で眠っていたものだ。ぼくは学部は数学科だったから、当然、群論の講義を受講したし、大学院受験のために多少の勉強をした。でも当時はま~ったく興味を持つことができなかった。(群論の講義で、唯一記憶に残っているのは、先生がルービックキューブの群の行列表現を黒板に書いてみせたことだけだ。笑)。

それがなぜか今になって、群論をとてつもなく面白いと感じるようになったのだから、人生は摩訶不思議である。

面白いと思うようになった理由は自分でもよくわからないが、あえて探してみると、二つあるように思う。第一は、拙著『完全版 天才ガロアの発想力』技術評論社を執筆している過程で群論を再勉強したこと。ガロアの定理「5次以上の方程式には、四則計算と根号では解けないものがある」を証明するには、「群」は必須アイテムだ。とりわけ、一番の佳境のところで5次対称群(1, 2, 3, 4, 5を並べ替える操作の成す群)の特殊な性質が使われる。それは5次方程式の解の対称性を解明するためだ。それでぼくは、最も素人が理解しやすい道筋を探すために、いろいろな文献にあたったのである。これが、ぼくに、群論を身近にしたと言える。

でも、もっと大きい理由は、ぼくの専門での研究分野が「意思決定理論」という非常にマニアックな分野だ、ということであろうと思われる。とりわけ、ぼくが共同研究者と論文を書いている分野は、集合論組み合わせ論と測度論と順序集合論との合わせ技のようなものなので、とにかく「記号操作」の集大成のようなストイックな分野だ。そういうのを毎日やっているうちに、群論のような抽象的な「記号操作」の嵐を面白いと思う嗜好に変わったのかな、と思うのだ。

 「群」というは、

①つなぐことができる(結合法則)。

②変えないことができる(単位元の存在)。

③もとに戻すことができる(逆元の存在)。

で規定される数学構造のことだ(この表現は、拙著『完全版 天才ガロアの発想力』技術評論社より。詳しくは拙著を読んでくれたまえ)。こんな少ない規定で、複雑な数学構造を生み出し、豊かな定理たちを生み出すのだから、神秘そのものだと言えよう。

さて、そこで先ほどの浅野・永尾『群論』岩波全書だ。この本は、ぼくがこれまで読んだ数々の群論の教科書の中で、最もわかりやすく、そして読むのが楽しくなるように書かれている。どこが他書と一線を画すのかを端的に説明することができないのだけれど、たぶん、「目次立ての順序」、「定理の取捨選択」、「定義や定理を表現する文章」、「定理の証明の方法」、「記号法の選択」などが非常に工夫されているからではないか、と思う。

この本を読むと、群論というのが、上記の①②③という単純な仕組みのものにすぎないのに、実に多くのテーマで研究されていることがわかる。

例えば、部分群を包含関係で並べた列で、各部分群が1つ前の部分群の正規部分群となっており、かつ最後は単位元に到達する列、のことを考える。これには「ジョルダン・ヘルダーの定理」というすばらしい結果が存在する。

あるいは、与えられた群が、その部分群の直積と同型になるかどうか、なども問題として考える。これには、「クルル・レマク・シュミットの定理」という有名定理が存在している。

さらには、「p-シロー群」という発想がある。これは、有限群において要素数素数べきの部分群のことだ。「シローの定理」は、このような部分群の存在を保証してくれる。

フラッチニ部分群なんてものも考え出された。これは与えられた群のすべての極大部分群の共通集合の作る部分群のことだ。これも実に奇妙な群になることが示されている。

ガロア理論に関係するのは、可解群というもので、交換子と呼ばれる元の作る群の列と関係するものだ。そして、これがn次方程式が四則計算とべき根で解けるかどうかに本質的な役割を果たすのだ(これについても拙著参照)。

 この本を読むと、数学者たちがある数学的アイテムに関してどのように研究テーマを見つけるかが、非常にコンパクトにわかると思う。数学の受験勉強をいっぱいやれば、数学の問題を解くことにはかなりな程度熟達するだろう。しかし、それだけでは数学者にはなれまい。数学者になるには、構築されている数学的アイテムに新しいテーマを見つける力が必要だ。それが数学でのクリエイティビティを意味する。そういうことの勘所を作るのにも、本書はかなりリーゾナブルな貢献をしてくれるのではないか、と思う。

最後にいつものように販促をしよう。本書を読む前に、とりあえず、拙著『完全版 天才ガロアの発想力』を読んでおくと、効き目倍増になること請け合いなんだぞ。

 

 

酔いどれ日記24

今夜は、シャンパンを飲んでる。BENOIT LAHAYEというの。色がきれいで味もふくよかで美味しい。

 朝日新聞10月12日朝刊の原真人さんの多事奏論の中に、ぼくへのインタビューが挿入された。この記事は、バーナンキノーベル経済学賞受賞に疑義を放ち、さらにはアベノミクス批判につなげて行くものだ。ぼくの発言部分だけ引用すると、以下だ。

経済学者で数学エッセイストの小島寛之帝京大教授は「経済学は物理学で言うならまだニュートン以前の段階」という。ニュートン力学の確立は17世紀後半。経済学は3世紀以上も遅れていることになる。

小島氏によると、経済学には致命的な弱点がある。経済活動が「1回しか起きないこと」の積み重ねだということだ。「だから物理学や化学とちがって実験が難しい。経済の法則にはどうしても仮説性がつきまとう。現実を説明できないことも多い」

これはぼくへの1時間以上の取材をまとめたものだけど、拙著『経済学の思考法』講談社現代新書に書いたことを原さんに口頭で説明したものでもある。この本はちょうど10年前に刊行したものだが、この考えは今も変わらない。経済学はぼくの期待していた学問ではなく、疑似科学とまでは言わないが、ニュートン力学以前の未熟な段階だと思っている。原さんの文章には、ぼくの考えのすべてが含まれるわけではないから、少し補強を行いたい。そのために、拙著『経済学の思考法』講談社現代新書のあとがきの一部をさらすことにする。このあとがきに、当時のぼくの想いのすべてが書かれている。

経済学者の著作のほとんどには、「経済学が現実を説明できている」という大前提が見られる。新聞記事などで経済について語る経済学者もみな自信満々だ。はっきり言って、ぼくにはそういう態度は理解できない。そういう人たちが、本当にそう信じてきって言っているのか、職業的立場からわざとそういうスタンスをとっているのかはわからないが、ぼくの感覚とは大きく異なる。序章で説明したように、現実解析の理論としては、経済学は物理学から数百年分遅れた段階にしかないというのが、ぼくの正直な認識なのである。

(中略)。

数学の論理を同じように用いる科学でありながら、経済学と物理学ではどこがどう異なっているだろうか。最も重要な違いは、「法則の正しさ」の検証に関して、物理学は特有の方法論を完成させているが、経済学はそうではない、ということであろう。経済学が「数学モデル」と「データによる検証」を備えたので物理学と同じ水準になった、と信じている人がいるようだが、それは大きな勘違いである。 

物理学のそれぞれの法則は、「数学の論理による演繹」と「データによる検証」だけを支えにしているわけではない。もっと大切なことがあるのだ。それは、さまざまな法則が、相互に関連しあう「網目構造」を形成しており、その「網目構造」が法則の正しさを堅固に支えている、ということである。

物理学には、力学のニュートンの方程式、電磁気学のマックスウェルの方程式、熱力学のクラウジウスの原理、統計力学のボルツマンの原理、量子力学シュレジンガー方程式、相対性理論アインシュタインの原理など、たくさんの方程式や原理がある。大事なのは、それらの法則が、単に個々に孤立した実験によって確かめられているばかりではなく、緊密に連関しあっている、ということなのだ。複数の法則を組み合わせると、特有の物理現象を説明できたり予言できたりする。さらにそれらの現象が、実験で検証される。ニュートン力学電磁気学の重なりの現象、電磁気学量子力学の重なりの現象、量子力学相対性理論の重なりの現象、みたいな具合で、多くの原理が重なりの現象を持ち、それらが複雑な網目模様を構成しているのである。

このような網目構造の利点は何か。それは、一度打ち立てられた法則は、簡単には覆せない、ということだ。例えば、今年2012年に、「ニュートリノは光速を超えている」という実験結果が報告され、相対性理論が間違っている可能性が指摘されて話題となった。しかし、多くの物理学者はこの実験結果を簡単に信じることをしなかった。実験の条件に何か見落としがあるに違いないと考えた。その理由はこういうことだ。「物質の運動は光速を超えることはできない」という相対性理論の結果は、他の分野の法則と絡めることで、あまりにたくさんの事実を説明できる。もしも相対性理論が間違いなら、それらの事実はみな崩れ去ってしまう。別の原理で、それらすべてを整合的に説明できる何かがあるというのは、あまりに奇跡のようなことで、まず考えられないのである。だから、「実験が相対性理論を崩した」とは考えず、「実験自体に間違いがある」と信じたのだ。

他方、経済学のほうは、「数学の論理による演繹」と、多少の「データによる検証」を備えているが、残念ながら、物理学のような網目構造を持っていない。だから、物理学の法則たちが備えている頑強な真理性を持つには至っていないのである。しかし、序章で解説したように、経済学が物理学を模倣することは原理的に無理なのだ。だから、経済学は「物理法則の網目構造」に匹敵する、何か別の固有の原理を見つけなければならないだろう。

 ところで、原さんとこういう議論をしたあと、ぼくは「現代の物理学の前段階」というのが気になってきた。ケプラーニュートン以前の天文学は、「地上から見える星の運行」を円軌道にこだわったまま説明しようとして、理論と合わない部分を、細々した周回円を付け加えて帳尻を合わせようとした。現代の経済学はこういう段階にあるような気がしてならない。

 そんなことを考えていたら、「熱力学の前段階」が気になってきた。最初、熱をつかさどる元素である「熱素」によって説明しようとし、その後、分子の熱運動に切り替えられた。それはどういう経緯をたどったのかが気になって、前から読もうと思っていた山本義隆『熱学思想の史的展開』ちくま学芸文庫を読み始めた。そしたら、これがものすごく面白く、ものすごくためになるのだ。

この本は、熱力学完成までの物理学史を綿密にたどる膨大な本だが、物理思想の書でもあり、17世紀から20世紀にかけてのたくさんの物理学者たちの伝記でもあり、さらにはこの時代の歴史書でもある。山本先生の博学が炸裂している。

この本によれば、熱現象は長い間、「熱素」という特殊な物質によるものと考えられていた。さまざまな現象がこの説でうまく説明されてしまうからだ。熱現象が、機械論的・運動論的なものであるとわかるまで、ものすごい紆余曲折があったのである。3巻組みの本書の2巻の半分ぐらいまでしか読めていないので、そこまでの感想をしたためることにする。

17世紀から18世紀にかけてさまざまな現象が発見され、さまざまな実験が行われ、それらが錯綜しながら「熱素説」が組み上がっていく風景は実に興味深い。中でもとても面白かったのは、かのニュートンがみごとに「間違った理論」を構築したくだりだった。

ニュートンは、熱現象の背後に「粒子間の斥力」があると考えた。それは、「ボイルの法則」と呼ばれる「圧力と体積の積は一定(PV=const)」から来たものだ。簡単なわりに面白いので、山本先生の本の内容をかいつまむことにする。

1辺がlの立方体(体積V=l^3)の中に気体があるとする。これを1辺がl^{'}の立方体(体積V^{'}={l^{'}}^3)に縮める。このとき、粒子間の距離も同じ割合で、すなわち、rからr^{'}へ減少するから、r^{'}/r=l^{'}/lとなる。他方、粒子間斥力をそれぞれ、f(r), f(r^{'})と記す。また、面の受ける圧力をそれぞれP, P{'}とする。立方体のひとつの面に接する粒子数Nは不変だから、壁面のうける力はそれぞれ、Nf(r)=P l^2, Nf(r{'})=P^{'} {l^{'}}^2となる。これより、

\frac{f(r)}{f(r{'})}=\frac{P l^2}{P^{'} {l^{'}}^2}=\frac{PV}{{P^{'}}V^{'}}\frac{l^{'}}{l}=\frac{PV}{{P^{'}}V^{'}}\frac{r^{'}}{r}

から、「PV=constとf(r)\frac{1}{r}に比例することが同値」とわかる。「ボイルの法則」が実験でわかっていることを受けて、ニュートンは、「粒子間の斥力が\frac{1}{r}に比例する」と考えたわけだ。そして、これを逆手にとって、圧力という熱現象を粒子間の斥力から来るものと推測した。このことは、気体の熱膨張などいろいろな現象と整合的でもある。

ところがのちに、空気中の音速を求めることにこの「粒子間の斥力」を応用したニュートンは、計算が実測と合わないことに直面した。けれども、細かい恣意的な修正をほどこすことで、つじつまを合わせてしまったのである。

この例で、何が言いたいかと言うと、「ある計算が現実を説明できたからと言って、その計算の背後にある原理が真理であるとは言えない」ということだ。単なる「偶然の一致」でしかないことも十分にありうる。物理学は丹念にそういう「こじつけ」を排除していったが、経済学はいまだに「恣意的な修正によるこじつけ」を繰り返しているように見える。でもそれはある意味、しょうがないとも言える。それは経済社会のできごとは一回性のものであり、実験がままならないからである。

 山本先生の本は、2巻の真ん中でやっと、「運動」が「熱」に変わることを検証したラムフォードとジュール、そして、熱機関を考察したカルノーとワットにたどり着いた。ここから熱思想がどう転換して行くのか、わくわくしている。

 最後に、途中で出てきた我が本を販促しておく。↓

 

 

 

 

 

酔いどれ日記23

今夜はブルゴーニュピノノワールを飲んでる。LA Mountonniereというの。高価じゃないけど、なかなかの味わいだ。

今回はまず、最近ハマっているライブ映像について話そう。

それは、ずとまよ(ずっと真夜中でいいのに)のライブ・ブルーレイ「鷹は飢えても踊り忘れず」だ。これは、ずとまよが今年の4月に埼玉スーパーアリーナで2日間行ったライブを2枚のブルーレイに収めたもの。

いやあ、このライブはいろいろな面であまりにすごい。まず、舞台のセットがとんでもない美術だ。いつものようにボーカルのACAねさんの顔が見えない演出になっているけど、美術のすごさでそれが気にならない。しかもだ!なんと2日目は1日目とは舞台美術が変わっており、百年経過した、と言う体になっている。スタッフさんは一晩で設営したわけだから大変だったろう。

次にのけぞるは、サポートミュージシャンの豊富さ(大所帯)だ。ストリングスが入っているのは前のライブでもそうだったが、今回はホーン隊も投入されている。それも驚きなんだけど、もっと驚くのはツイン・ドラムであること!「ずとまよ、ついにやっちまったか」となった。もうこれは、ザッパというよりキング・クリムゾンだね。まあ、現在のクリムゾンはトリプル・ドラムだから、ACAねさん、つぎは3器でお願い。

さらに挙げたいのは、レトロなアイテムを使っていること。例えば、舞台に公衆電話ボックスがあって、しかも電話はダイヤル式だ。ACAねさんは途中で、この電話ボックスに入って、ダイヤルをまわして、受話器をもって歌うんだわ。すごすぎる。彼女はレトロなものがとても好きで、別のライブではオープンリールのレコーダーを使って演奏したりしてる。もしかすると、今の20代は70年代ぐらいのレトロに「幻想の郷愁」を抱いているのかもしれない。

ぼくが最も感動したのは、2日目のオープニングの曲で、ACAねさんが泣き崩れて歌えなくなってしまったシーン。ボーカリストが泣き崩れるのはさ、普通は、「初めての武道館公演の最終日のアンコール曲」なんすよ。YUIしかり、Aimerしかり、YOASOBIのイクラさんしかり。でも、ACAねさんは埼玉スーパーアリーナであることはさておき、オープニング曲だからね。まあ、どうしてそうなったかは、ブルーレイを買って知ってね。裏音声でACAねさんが理由をしゃべってるから。

 と、ここで終わっては、このブログらしくないので、(とってつけたように)経済学の本を一冊紹介しておく。それは津川友介『世界一わかりやすい「医療政策」の教科書』医学書だ。

著者の津川さんは医学部を卒業した医師で、その後、ハーバードで「医療政策学」を研究して博士号を得た人だ。医学と経済学の両方に通じている。

ぼくがこの本を読もうと思ったのは、言うまでもなく宇沢先生の「社会的共通資本の理論」を研究しているからに他ならない。医療は、宇沢先生が「制度資本」と呼ぶ非常に重要な社会的共通資本だ。

医療政策とか医療経済の本はあまり読んだことがないんだけど、ぼくが読んだ範囲では、感心できた本は一冊もなかった。だいたいが、細かい制度調査の羅列みたいな本で、科学的でも経済学的でもなかった。高校の社会科の教科書のように退屈極まりないしろものだった。でもこの本は本当にすばらしい内容だ。この本の特徴を箇条書きにすると、

1. 比較的新しい経済理論を使って医療を分析している。

2. 科学的エビデンスをきちんと提出し、出所も明記している。

3. 非常に多くの分野からのアプローチを導入している。

4.無駄に読解しにくい経済モデルなんかを書かず、非常にわかりやすく言葉で説明している。

という感じだ。

まず、1については、例えば、「情報の非対称性」という経済理論におけるモラル・ハザードとか逆選択から説明したり、契約理論におけるプリンシパル・エージェントモデルを援用したりしている。

2については、第1章:医療経済学、第2章:統計学、第3章:政治学、第4章:決断科学、第5章:医療経営学、第6章:医療倫理学、第7章:医療社会学、第8章:オバマケアからトランプケアへ、といった多彩ぶりだ。とくに、第6章でロールズが出てくるのは感涙ものだった。

3については、さまざまな統計データや実験結果がきちんとした評価の上で解説されている。例えば、医療需要の価格弾力性(医療の自己負担が1%増えると、医療の利用が何%減るか)の測定とか、実証研究で流行りの回帰不連続デザインとか。

ぼくは先日の京大での社会的共通資本の理論シンポジウムで、この本からの引用を行った。それは、医療というのを財・サービスと見なしたとき、通常の財・サービスとどう違うか、という点の説明だ。例えば、「病気の多くは予測不能なので、じっくり考えて、周りの人に相談して、慎重に病院を選択することができない」とか、「痛みや呼吸苦があると、冷静な判断ができない」とか、「時間的猶予がないから、遠くの病院を選択できない」とか。これらの特徴を考えて、この財・サービスがチョコレートやハンバーガーやスポーツジムのような財・サービスと同じものだと考える人はいないだろう。医療は、このように他の財・サービスと大きく性質が異なるから制度資本に分類されるのである。

ぼくが本書で最も感動し、共鳴したのは、最後のオバマ・ケアに関する章だ。ここでは、オバマ氏が大統領時代に行ったオバマ・ケア(医療保険制度の整備)とそれを崩そうとするトランプ前大統領のバトルのことをつぶさに分析している。法制度上のバトルである。トランプ氏は、上院で50票を集めることで「財政調整」というものを実行して、オバマケアを実質的に撤廃させようとした。しかし、それは可決されずに失敗に終わったのだ。なぜなら、2名の共和党員が造反して反対票を投じたからだ。そのうち一人は、2週間前に脳腫瘍の手術を受けたばかりの重鎮議員だった。この点だけでも、医療というものが他の財・サービスと決定的に異なる性質のものであることが実感できる。そして、「結局は政治がすべてなんだ」ということも、(経済学者としてむなしく)痛感する。

 最後に、我が教科書を販促するね。単に、タイトルの枕ことばが同じというだけ(笑い)。

 

読むだけでわかる代数幾何の本

今回は久々に数学のことをエントリーしよう。

いろいろわけあって、いま、40年ぶりに代数幾何の勉強をしている。このことは、以前にも、今頃になって、なんでか代数幾何が面白いでエントリーしたので読んでほしい。あるいは、かなり昔のエントリーだが、数学って「思想」なんだよな、も少しだけ関係があるので読んでほしい。

今回紹介するのは、永井保成『代数幾何学入門 代数学の基礎を出発点として』森北出版だ。この本を評すなら、「読むだけでわかる代数幾何の本」ということになる。え?あたりまえじゃないかって? いやあ、そうじゃないんだな、代数幾何の本に限っては。他のほとんどの代数幾何学の本は、「読んで教えてもらわないとわからない」とか、「読んで考え込まないとわからない」とか、「読んで調べないとわからない」とか、「読んで知ってることじゃないとわからない(笑)」とか「読んで生まれ変わらないとわからない(涙)」という類いの本ばかりなんだよ、まじに。そういう意味で、「読むだけでわかる」本書は、ほんとに希有な教科書だと思う。

この本が「読むだけでわかる」のは、著者がいろいろな親切な工夫をほどこしているからだ。箇条書きをすると以下のようになる。

1. 各章がそれぞれすごく短いので、わからなくなる前にひとつの話題が終了する。(そのせいで、なんと、21章もある)。

2. 何のためにそんな概念を考えるのかをいちいち自然言語で説明してくれている。

3. 証明中の、素通りしてはいけない大事な条件や仮定や式変形方法について、わざわざアンダーラインを引いて、読み飛ばさないよう、注意を喚起してくれている。

4. 非常に適切にして試金石になる例が紹介されている。

5. 遠大な道のりが必要な定理を主役とせず、面白い定理ながら短い道のりで到達できるものを主役として選んでいる。

こういう数学書はあるようでそんなにない。もし、本書が講義を原稿化したものなら、きっとすばらしくわかりやすい親切な講義だと思うし、ダイレクトに本で書いたなら、ものすごくよく構成を考えた上で執筆したのだと思う。どちらにしても絶賛ものである。

内容について、ちょっとだけ触れるけど、もうしわけないが、まだ第6章から第10章の5章分を読んだ程度の段階なので、それを前提に読んでほしい。

もともとは別の本で「座標環(多項式環を方程式の生成するイデアルで割った商集合)」を勉強していて、いまいち曖昧模糊として掴めない感があって、この本の第6章にあたってみたのがきっかけであった。それがめちゃめちゃわかりやすかったので、続きの章も読んでいくうち、ついつい面白くて、第10章まで読んでしまったのである。

これらの章だけでも、ぼくが最も興味のある数論に役立つアイテムがてんこもりだった。

まず、第7章の「加群」の章では、ネーター環の解説と「ヒルベルトの基底定理」の証明が紹介されているんだけど、そのついでとして、「完全系列」についても解説される。完全系列というのは、加群(でも環でも群でもいい) A, B, C準同型写像 f, gが作る図式、0\rightarrow  A \rightarrow (f) \rightarrow B \rightarrow (g)  \rightarrow C  \rightarrow 0について、 f単射 fによるAの像と gによる0の逆像が等しい( f(A)=g^{-1}(0))、g全射が成り立つものである(もっと長い列の場合は、ひとつ前の準同型の像と次の準同型の核が等しい、という条件を加えていけばよい)。たぶん、完全系列に慣れてもらおうという魂胆だと思うのだが、完全系列についての「5項補題」と「へび補題」のすごくわかりやすい記述の証明が投入されている。

完全系列は現代の多くの数学で使われる道具なんだけど、どの教科書でも、それがどんなふうに役に立つのかは、かなり先のほうまで読まないとわからないようになっているから、初学者はイライラしてしまう。でも、この本では、この7章自身の最後にちょっとした応用が書かれていて、10章(といってもたったの40ページ先)に応用が出てくるから嬉しい。

次の第8章は、「有限群の表現」という章。これは、有限群から行列の乗法群への準同型写像のことをいう。要するに、群演算の仕組みを行列のかけ算に写し取るわけなんだね。例えば、置換群(n個の対象を入れ替える操作の作る群)の場合、その表現は、n \times n行列の各行・各列に1個だけ1があるような行列たちの乗法群となる。

「群の表現」は、ゼータ関数に関係する数学(とりわけ、保型形式と楕円関数のゼータ対応)に関係するので、初歩ぐらいは知っておきたいアイテムだった。本書では、たったの5ページで解説が終わるからありがたい。それでも「Maschkeの定理」というステキな定理が証明される。

この「群の表現」を紹介しているのは、次の9章から「不変式論」を展開するためだ。不変式というのは、高校数学(というか受験数学)でおなじみの「対称式」を思い起こせば良い。対称式というのは、変数の入れ替えを行っても不変であるような式のこと。3変数の場合の例として、x^3+y^3+z^3のような式のこと。3変数の対称式は、かならず3つの基本対称式x+y+z, xy+yz+zx, xyz多項式で表現できることが知られているんだけど、この章ではその一般化を議論している。「ああ、この話はこういうふうに一般化するのか」と感心した。数学的な定理の証明を考えるのも重要な仕事なのだろうけど、定番となった理論をどうやったら一般化できるのか、その仕組みを作りあげることも才能のいる仕事だと身にしみた。この第9章のメインディッシュは、「ヒルベルト有限生成定理」というやつで、「有限群の表現から定まる不変式環は有限生成である」というすんごい定理だ。感激。

そして、第10章はいよいよ、「次数環とHilbert-Poincare級数」に突入する。「次数環」というのは、ぼくにとって初耳の環の概念だった。「次数環」とは、ようするに、多変数の多項式のなす環みたいな環だと想像すればよい。どんな多項式も、定数+1次単項式+2次単項式+・・・、のように次数別の和で表現できる。このように、環の要素が「適当な次数のついた部分環」の各要素の和で表せるような環を次数環と呼ぶみたいだ。この章では、次数環に対して「次数の拡張」にあたるものである「ヒルベルト-ポワンカレ級数」というのを定義し、その式を特定するのが目標である。そして、その証明のポイントになるのが、第7章で準備した完全系列だというわけなのだ。実によく伏線を張った展開だと思う。

代数幾何の教科書というのは、(ぼくの知っている範囲で)おおまかに言って、「代数曲線論」「リーマン面の理論」「可換環論」「スキーム論」というふうに分類できると思うけど、本書はフレーバーとしては「可換環論」かな、と思う。ぼくは、40年ぐらい前に、大学院を受験するためにしぶしぶ可換環論を勉強したけど、その抽象性と無味乾燥な内容に辟易としてちっとも理解できなかった経験を持つ。でも、本書を読んで、「ああ、もしかして、可換環論も面白いものがあるのかも」と感じる部分もあったから不思議だ。人生、どう転ぶかわからない。

 最後に一応、自著の販促をさせておくんなまし。置換群とか対称式とかについては、拙著『完全版 天才ガロアの発想力』技術評論社をどうぞ。あと、素人が代数幾何を勉強する場合、いきなりプールに飛び込むのは危険なので、「準備運動」の本として拙著『数学は世界をこう見るPHP新書をどうぞ。

 

 

 

 

酔いどれ日記22

前回から、だいぶ間があいてしまった。今夜は、サンテミリオンのClarendelleという赤ワインを飲んでる。サンテミリオンはもともと好きな産地だけど、このワインもコスパの点で良い。

 先日、アマゾン・プライムで映画「コーダ あいのうた」を観た。これは、聾唖の両親のもとに生まれた健常の子供(Codaと呼ばれる)が背負う苦労を描いた物語だ。コーダを扱ったドラマとしては、NHKのドラマ「しずかちゃんとパパ」のことを酔いどれ日記18で紹介した。たぶん、このドラマは「コーダ あいのうた」を参考に作られたものだと思う。「しずかちゃんとパパ」も良かったんだけど、「コーダ あいのうた」ははるかにそれを凌駕するすばらしさだった。まあ、アカデミー賞を作品賞を含め3部門も受賞したんだから当然ではある。

シナリオの完璧さもさることながら、(聾唖の両親の間に生まれながら)音大を目指す主人公が歌う曲がめちゃめちゃツボなのだ。デビッドボーイもジョニ・ミッチェルもぼくの青春の歌手だもんね(ジョニ・ミッチェルの映像は、前回の酔いどれ日記21でリンクを貼ったから、観てね)。

この映画がツボなのは、ガス・ヴァン・サント監督の「グッド・ウィル・ハンティング」とか「小説家を見つけたら」というアメリカのリベラルな「希望と夢」を描いた作品を彷彿とさせるからなんだな。

まあ、いろいろ御託を並べてきたけど、結局、「コーダ あいのうた」の魅力は、主人公の女子高生のかわいさに尽きる。ほんとにかわいい。

 さて、ここからはおまけね。

ぼくは最近、宇沢弘文先生の「社会的共通資本の理論」を進化させるために、いろいろと勉強をしている。その一環として、サミュエル・ボウルズ『不平等と再分配の新しい経済学』大月書店を読んでる。

これを読み始めたのは、ボウルズが宇沢先生の初期のお弟子さんだったからだ。その上、ぼくの経済学事始めが、ボウルズとギンタスの『アメリカ資本主義と学校教育』岩波書店だったからだ。でも、『不平等と再分配の新しい経済学』を読んで、そういう懐古趣味とは違う衝撃を受けた。それは、この本には社会的共通資本の理論を推し進めるためのアイデアが満載だからだ。

まだ、2章までしか読んでいないんだけど、とりあえず、そこまでのことを(酔いどれながら)紹介しよう。

この本の趣旨を一言で言えば、「平等と効率がトレードオフの関係にある」というのが俗説あるいは神話だ、ということだ。平等化は経済の効率性を妨げる、というのは常識のように言われているけど、そんなのは根拠のないデマだ、ということをあの手この手で論証していく。

例えば、実証的根拠の一つとして、Moriguchi and Saez(2008, REStat)を挙げている。ぼくも、すごく気になったので、この論文を今日読んだところ。これは、日本が戦前はひどい不平等社会でありながら、戦中に(戦争におけるさまざまな理由によって)平等化が促進され、さらに進駐軍の政策やその後の土地所有制度・税制改革の結果として、大きく平等化し、その一方で大きな経済成長を遂げたことを実証した論文だ。平等化と経済成長は両立し得る、それどころか、平等化は経済を成長させるとまでいいたげである。

第2章でボウルズは、自分の主張を「資産制約」の問題で正当化している。資産制約とは、金融市場が完備でないため(取引主体に情報の差があるため)、低資産者に借り入れの制約が課されることを言う。ボウルズは、資産制約が富の産出を減少させる、というモデルを利用して、平等化(低資産者の資産を増加させる施策)が資産制約を減じ、マクロの意味で富を増加させることを主張するのである。

とても驚いたのは、この主張をモデル化するのに、「契約理論」(プリンシパル・エージェント・モデル)を援用していることだ。このモデルは、1人のプリンシパル(雇用者)と1人のエージェント(被雇用者)が「契約事項」を書いて契約をすることで、どんな生産とどんな分配が実現するかを記述するもの。ぼくは大学院のときに講義で教わって、それ以来ほとんど接触していないジャンルだった。大学院のときは、数学的な仕組みとしては面白いものの、経済学的にはあまり興味を持てないものだった。(学会でもときどき報告を聞いたけど、そのモデルの複雑さに理解が追いつかなかったものだった)。そのときは、まさか「平等化の根拠」に使えるなど夢にも思わなかった。ボウルズの論証を読んで、自分が大きな見落としをしていたことに気がつかされた。大事なのは「アンテナ」と「感受性」だなと思い知らされた次第。

ボウルズがどんなプリンシパル・エージェント・モデルを使ったかは、機会があれば、(酔いどれでないときに)、紹介しようと思う。