最近は、NHK以外の地上波がおそろしくつまらないので、ケーブルTVで海外ドラマばかりを観ている。めっちゃ面白かったのは、『ナンバーズ』一挙放映と『アストリッドとラファエル』一挙放映だ。
『ナンバーズ』はFBI捜査官の兄と天才数学者の弟が協力して難事件を解決する話。解決には、さまざまな応用数学が使われる。中にはむりくりな使い方もあるが、多くは「数学ってこんなふうに使えるのか」と舌を巻く。グラフ理論や最適化アルゴリズムやベイズ統計やゲーム理論などが縦横無尽に登場する。なんと言っても、あのリドリー・スコット(「ブレードランナー」とか「エイリアン」とかの監督)が制作に関わっているのだから、つまらないわけがない。
『アストリッドとラファエル』は、フランスの刑事物。異色なのは、犯罪資料局で資料整理の仕事をする主人公のアストリッドが重度の自閉症ということ。しかし彼女は、恐るべき記憶力と推理力を兼ね備えており、女性刑事のラファエルと組んで難事件を解決する。このドラマは事件の新奇さが面白い。さすがフランスは歴史のある国だから、歴史の絡んだ摩訶不思議な話が組み込まれている。でも、それより何よりすばらしいのは、アストリッドの自閉のありようの描き方だ。アストリッドを演じる女優さんの演技が卓越で、自閉症がどんなものであるかが手に取るようにわかる。一方、女刑事のラファエルは自由奔放で発散型の性格をしており、アストリッドとは真逆の精神性を備えている。その対照的な取り合わせが物語に彩りを与えているのだ。NHKで5月に、第1シーズンの一挙放送もあるし、第2シーズンも始まる。是非、観てみてほしい。
さて、今回紹介したいのは、黒川信重・小山信也『リーマン予想のこれまでとこれから』日本評論社だ。以前にもこの本をエントリーした記憶があるのだけど、見つからないのでリンクははらない。今回、この本を久しぶりに再読したら、前よりずっとわかるようになっていた。なんでかというと、別の専門書でいろいろな知識を吸収してきたからだと思う。そうやってから戻ってみると、本書はものすごく良く書けている専門書だと再認識した次第。
この本のメッセージを一言で言えば、
万物は固有値である
ということだと思う。固有値というのは、普通、線形代数で習う。1次変換に対して、
を満たす
を「固有ベクトル」、
を「固有値」と呼ぶ。行列で記すなら、
ということだ。本書は、一言で言うなら、この「固有値」が難攻不落の難問「リーマン予想」の攻略の武器となることをわかりやすく解説した本ということになる。
リーマン予想というのは、簡単に言えば、「ゼータ関数の零点や極の実部が一定値である(虚軸に平行な直線上に並ぶ)」というもので、一部の特殊なゼータ関数で解決しているものの、多くのゼータ関数では未解決なままだ。とくに、オリジナルの予想であるリーマン・ゼータ関数、について、「その虚の零点の実部がすべて1/2である」は、160年以上も未解決の状態だ。本書では、この難問についても、「固有値」が突破口になるのでないか、と示唆している。実際、リーマン予想(の類似)が解決している「合同ゼータ関数」と「セルバーグゼータ関数」については「固有値」が解決のカギとなった。そこでの固有値の働きを解説することで、その他のリーマン予想、とりわけオリジナルのリーマン予想の解決に肉薄しようとしている。
したがって、この本を読むことは、ゼータ関数とリーマン予想についての知識を得られるだけではなく、固有値というのが数学全体を貫く一大アイテムであり、数学の主役である、という認識に到達することができるのである。そう「万物は固有値」ということだ。
本書の根幹には、ヒルベルトとポリアの「ゼータ関数の零点は固有値解釈できるだろう」という予想がある。そのベンチマークとなる理論としての「Z-力学系のゼータ関数」から話をはじめている。これは「置換」(n個のモノの並べ替え)に関するゼータ関数である。例えば、の並べ替えである
を考えよう。これは1を2に、2を3に、3を1に動かす写像である。この
に対して、
というゼータ関数を作る。ここで、は
を
回ほどこしたもの(合成したもの)、
は、それに関する固定点(不動点)の個数である。上記の
については、
が3の倍数のときは、
は恒等置換(何も動かさない置換)になるから、
。その他の場合は固定点がない(全部が動く)ため、
となる。このことから、
と計算される。
次に、別のを考えよう。この置換は1と2を入れ替え、3を4に、4を5に、5を3に写す写像(置換)である。この場合は、
となる。見てわかる通り、「オイラー積」の類似の形式が出現している。
本書では、この置換に関するゼータ(Z-力学系のゼータ関数)を行列表現し、その固有値に結びつけていく。
置換の行列表現
とは、
列
行にだけ1を置き、他を0にした行列のことだ。例えば、
に対する
は、1列2行、2列3行、3列1行だけに1があり、他は0であるような行列である。このとき、
となることが示される。は行列式のことで、分母は固有値を求める方程式と同じものだ(
は単位行列)。この計算のポイントになるのは、
の固有値を
とするとき、
が成り立つことだ。これは線形代数あるいは行列の理論で有名な性質、
(行列の対角線の和(
)=(行列
の固有値の和)
である。本書ではこれを「跡公式」と呼んでいる。
さて、固有値の定義から、
よって、の極(値が∞となる
)は固有値から計算できることになる。これによって、Z-力学系のゼータ関数のリーマン予想が証明されることになる。
このZ-力学系のゼータ関数の例に本書がやりたいことのすべてが込められている、と言っても過言ではない。このあと、「合同ゼータ関数」と「セルバーグゼータ関数」に対するリーマン予想の攻略法が解説されるが、本質的にはもっと抽象的な対象に関して、上でやったことをなぞることになるからだ。
例えば、合同ゼータ関数のリーマン予想解決については、グロタンディークがエタール・コホモロジーを使って、フロベニウス作用素の行列表現の固有値で解釈した方法が概説される。またセルバーグゼータ関数では、「フーリエ展開」の係数が固有値と解釈できることから、フーリエ展開を応用した「ポワソンの和公式」がセルバーグ跡公式の源であることが詳しく説明され、そこからセルバーグゼータ関数のリーマン予想解決の急所に向かっていくのである。
これらを読むと、本書ではあまり触れられないが、ラマヌジャンゼータ関数(あるいは、保型形式のゼータ関数)も固有値的な方法論でアプローチされているのだ、ということが実感されるから、「なるほど」という理解に達することができる。
本書が黒川さんや小山さんの本として異色だと思うのは、初歩的なことにも丁寧な証明がつけられていることと、「数学アプローチの見つめ方」みたいなものが随所に語られていることだ。例えば、有限次元の行列の性質を無限次元の行列に対して拡張することで、合同ゼータ関数にアプローチできるようになったり、さらには、連続無限次に拡張したものが、積分作用素であること、フーリエ級数はその一種であることを詳説したりしていて、とても感動する。それは次の文に結晶している。引用しよう。
数学ではこのように、似ている現象を敏感に察知して展開していくことで研究が進展する。「似ていること」の発見は、論理よりも感性による部分が大きい。根源的なところで数学を進展させているのは、人間の感性なのだろう。
なんと含蓄のある、なんとすばらしいことばだろう。
さて、本書を読むには、行列の理論、群論・体論、ゼータ関数に慣れておいたほうが良いと思う。いつもの販促であるが、行列には拙著『ゼロから学ぶ線形代数』講談社を、群論・体論には拙著『完全版 天才ガロアの発想力』技術評論社を、ゼータ関数には拙著『素数ほどステキな数はない』技術評論社を推奨しておく。